

Kota Ishii
石井 光太
1977年、東京都生まれ。海外ルポをはじめ貧困問題や歴史についての文章を執筆。著書に『遺体—震災、津波の果てに』『絶対貧困−世界最貧民の目線』『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』など多数。
石井 光太さん(ノンフィクション作家)
多くの死者を出した東日本大震災では、発生直後からさまざまな報道が行われた。悲惨な状況を報じる一方、希望を伝える内容も見受けられた。そんな中、ノンフィクション作家の石井光太さんが選んだのは、遺体安置所という誰しも直視を避ける場だった。なぜそこを選んだのか。『遺体—震災、津波の果てに』を書くにいたった経緯とその発想の根源を尋ねた。
地震発生後の報道を見て、数万規模で人が死んだと直感しました。ノンフィクション作家の立場からすると、100年に一度あるかどうかの災害ならば、当然行かなくてはいけない。
ともかく早く現地に行かないといけないと思ったのは、twitterをはじめネット上では、ある種の躁状態の言論が沸き上がっていたからです。
危険を報じる内容は「不安を煽る」とバッシングされたり、確認しようのないさまざまな情報が行き交っていました。
ネットで良し悪しを言っている人たちは、被災地を見ていません。僕は現場を見ていない人の言う抽象論は、「基本的にどうでもいいこと」と考えています。
たとえば「東電はけしからん!あいつらが悪い!」という。けれども実際に働いている社員すべてが悪人かというとそうではない。むしろ、そうやって口撃している人のほうが薄暗いことをしている場合だってあるでしょう。
僕は政治家でも批評家でもないし、それに偉そうな人の言う「偉そうなこと」は嘘かはったりくらいとしか思っていません。自分はそうなりたくないから現地に行き、ともかく見たことを伝えようと思ったわけです。やはり見たものにしか真実はありませんから。

3月14日に被災地に入り、月末まで週刊誌向けにルポを書いていましたが、取材を行い始めた時点で、遺体をテーマに絞る算段はついていました。テーマを追う上でもっともつながりの生まれた釜石を選びました。
「遺体」を選んだのは、被災地をまわっているとき、既にメディアでは「復興」という語がちらつき始めていましたが、いちばん悲惨なのは家が壊れたことでも、食料がないことでもなく、人が死んだことです。大勢の人が死んだことを見据えずに復興などありえません。
けれどもマスメディアは死を真正面から扱わない。ならば自分がやらなければならない。そう思いました。
遺体安置所で起きた出来事を拾い上げ、伝えることで亡くなった人や遺族が浮かばれることがあると思っています。
たとえば生後100日の子息を亡くされたご家族の話を本で取り上げました。先日、親御さんから連絡があり、やり取りしている中で「仮名を本名にしてくれませんか」という話になった。僕としては家族に配慮して仮名にしたのですが、本名での記載の方がいいということなのです。
実は生後100日というのは遺体安置所で応対した人の記録の誤りで、正確には54日だった。わずか一ヶ月半で子どもを亡くしたわけです。
子どもを失った親は「なぜ我が子を助けられなかったのか」と悔います。やがて時間が経つと「なぜあの子は生まれてきたのか?」という疑問に行き着きます。生まれて来た理由を求めるからです。
だから後世の教訓になるのなら、自分の子どもが生まれてきて良かったと思える。それなら本名で記されたほうがいい。遺族からすれば、大事な人の存在が無視されることがもっとも耐えがたいのです。

特に距離感について考えてはいません。たしかに泣いているところを不躾に写真に撮れば、遺族は嫌がるでしょう。
でも、それは撮る・撮らないではなく、その場に寄り添って記録するかどうかの問題で、もしも遺族に添う態度による記録ならば、被災者にとって浮かばれることはあると思っています。
たとえば、元は斎場で働いていた千葉淳さんという方が、遺体安置所で遺体と対面した遺族に率先して応対され、「ママは雄飛君(生後54日でなくなった赤ちゃん)のことを必死で守ろうとしたんだよ」といったように声をかけていました。あるいは、遺体に対して「よく頑張ったね。もうちょっとで火葬してもらえて天国へいけるからね」と言っていました。
行政の職員はいましたが、千葉さんのように語りかけていいのかわからなかったし、また当初は声をかける勇気をもたなかった。
千葉さんのような振る舞いが良いとか悪いとかの批評はどうでもいいことです。大事なことは、架空の議論ではなく、いま起きている現実のただ中で寄り添うことです。
僕は現地では観察者で、頭の中でいろんな物語を考えたりしていましたが、人手が足りないならば遺体を一緒に運びましたし、そういう行動をすることで信頼されて人に話が聞けるようになりました。
僕はジャーナリストでも新聞記者でもない。本をつくるノンフィクション作家です。そのために必要なことは、インタビューだけをすることじゃない。かしこまってマイクを向けたところで相手は何も答えてくれやしません。
国連職員と難民キャンプに同行し、マイクを向けても子どもらはサッカーをしない。でも、難民キャンプに暮らしていたら、そういう光景に出会います。

被災地では、すべての事実が生々しかった。たとえば、ある女性が遺体安置所で出会った男性を市の職員と思い込み、「人殺し」と罵り、掴みかかった。彼女は市の職員が流されていく我が子を見殺しにしたと思っていたのです。
罵倒された人は、「違います」と否定せず、じっと黙っていました。そこで否定したら、彼女はさらに傷つくことになります。
おそらく生き残った人たちは、なんとかして街を支えないといけないと思っていた。街のあちこちに遺体がごろごろしている。「誰かが何とかしてくれる」ではなく、自分たちで遺体を、遺族をどうにかケアしないといけない。直感的な判断としてそれがあったはずです。
だから彼らがやったのは、「自分にできること」でした。生き残った人のために何ができるか。それは東電批判のような大きなことではなく、目の前で泣いている人に声をかけること。顔が黒ずみ始めた遺体に化粧を施してあげること。あるいは泣き叫んで掴みかかって来る人がいたら黙って聞くことだった。そういう積み重ねの中で街を守っていこうとした。
自分の家族が行方不明でも職務上、遺体捜索に携わっている人がいました。そういう人は、心の中で行方不明の息子に対して「おまえを見つけるより先にやらなくてはいけないことがあるんだ。我慢していてくれよ」と言い、ひたすら他人の遺体を探していた。全員がそういうことをしていた。そういうひとつひとつの思いの中で支えられていたことに生々しさを感じました。
僕に響くのは、政治家の言うような国家だとか復興といった次元の大きな話ではなく、個々の物語です。
大きい物語というのは、たとえば「社会で上昇できる立派な人間になれ」というもので、確かにそういう道を選ぶと可能性が広がると思ってしまえるし、成功したら「大きな物語で生きられる」と勘違いするでしょう。
社会で生きていくためには、大きな物語やそれを支える知識は必要だろうし、それらがまったく悪いとは思いません。
でも、いまの社会では小さい物語が軽視されています。復興のスローガンの前では、瓦礫を前にうずくまった人の人生は議論もされない。
僕にできることは、そういう個々の物語を照らすこと。そして、いろんなことを考えるきっかけを提供しはしても、答えを出さないこと。それをしてしまったら大きな物語を提供する側の人間になるので、答えを出す必要を感じていません。

僕が生まれ育った街は、バカ高い品物を売っている高級スーパーがあるようなところで、虚飾の暮らしをしている人が多い。それがすごく嫌でした。
けれども高校や大学になると、地方だとか自分とは異なる状況で育った人たちと出会い、嫌ったところで自分も見せかけの環境にいることを知り、自己嫌悪に陥りました。
そんな頃、初めての海外旅行でアフガニスタンに行きました。まだタリバンが首都を制圧していなかった96年のことです。難民キャンプには、手足のない物乞いがずらっと並んでいました。みんな金をくれといって叫ぶ一方で、飢餓状態でガリガリに痩せながら恋人とちちくりあったりしている。
そのとき彼らの汚れた姿が美しく見えたんです。といっても、ラブ&ピースな気持ちからではありませんし、よくある「子どもの屈託のない笑顔」とかそういう話でもありません。
泥だらけで手足も目ン玉もなく怒っている人が愛おしく見えた。「こっちのほうが人間として美しい」と思った。どっちがいいか悪いかではなく、むきだしの人間がただ愛おしかったのです。
はい。当時、19歳でしたが、その頃は将来、映画なり小説なり何か表現したいと思っていたけれど、具体的にはわかりませんでした。でも、そのとき「いま見ているこの光景を書けばうまくいく。うまくいかないわけがない」と思いました。
その確信があったので、後はやりたいことから逆算して考え、必要な語学や知識を身につけ、大学を卒業後、全財産をはたいて旅行に出かけました。帰ってきて、それを書いたらやっぱりうまく行った。

経済不況だとかロスジェネだとか知ったことじゃない。そもそも老けて見えるからロスジェネ世代に思われませんしね。
書く材料はすでにあったし、題材をものにするための努力もしてきたから、わざわざ出版社に入って下積みする必要もなく、やりさえすればうまくいくとしか思えませんでした。
答えなんてありません。自分でつくりだしていくしかない。人に答えを求める前に、泥だらけになってがむしゃらに自力で見つけ出せと思います。だから、人生は最高に面白いものなんです。
すべてです。何か目標をつくり、それに向けて全身全霊を傾けて動いている時は、やってきたことすべてがその人の力になる。無駄なことは一つもありません。だから、その時自分が信じたことを全力でやっていればいい。
社会の行く末なんて誰にもわからない。だからこそ、自分で未来の社会をつくりだしていくしかない。ここに人生の一番の面白さがある。
だって、自らの手でこれからの社会をつくりだせる可能性があるんですよ。そんなに面白くて、ロマンにあふれていて、ワクワクすることはない。
だったら、俺が社会をつくってやろうと思う。できるだけ多くの人間がそう思って動くのが理想かな。
けど、僕としては、あんまり動いてほしくない。自分がやりたいから(笑)。
でも、まぁ、いろんな人がこれからの社会をつくりだしてやるぜぇ、と考えて競争するから、よりよい物ができるんでしょうけどね。
[文責・尹雄大 撮影・渡邉孝徳]

Kota Ishii
石井 光太
1977年、東京都生まれ。海外ルポをはじめ貧困問題や歴史についての文章を執筆。主な著書に『遺体—震災、津波の果てに』『絶対貧困−世界最貧民の目線』『神の棄てた裸体−イスラームの夜を歩く』など多数。
公式サイト: http://www.kotaism.com/
【石井 光太さんの本】

『遺体:震災、津波の果てに』
(新潮社)

『絶対貧困:世界最貧民の目線』
(光文社)

『神の棄てた裸体:イスラームの夜を歩く』
(新潮社)