

Sarasa Ono
大野 更紗
1984年、福島県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程休学中。学部在学中にミャンマー難民に出会い、民主化活動や人権問題に関心を抱き研究、NGOでの活動に没頭。大学院に進学した2008年、自己免疫疾患系の難病を発病する。
大野 更紗さん(作家)
筋膜炎脂肪織炎症候群という日本ではあまり前例のない難病にかかった大野更紗さんの著書『困ってるひと』がベストセラーとなっている。
ビルマ難民問題の研究にいそしんでいた2008年、突然の発病。適切な治療を受けるまでに一年間を費やすなど決して容易ではない「難民」生活を軽やかに描いたことで話題になっている。
大野さんはどのような思いで本書を綴り、そして、またいま何を思うのだろう。
具合が悪くてあまり自由に外へ出られず、書店にも行けないので、「本が売れている」と聞いても実感がないのが正直なところです。でも、多くの人に読んでいただけているのはうれしい限りです。
この本はもともとウェブで始めた連載を下敷きにしていますが、書き始めるときにふたつのことを決めました。
まず、とにかく読み物としておもしろいもの。そして、コミュニケーションが断絶した状況の中で、年齢や社会階層は関係なく、誰でもどんな読み方でもできるものにしたい。そういう思いで書いていました。

まずエンターテイメント性について言えば、私自身のかかった難病にまつわる話ではあるのですが、いわゆる闘病記を書いたつもりは全然ないんです。。
とにかく子どもからお年寄りまで、楽しんで読んでもらえるものにしたかった。
ふたつめについてですが、これほどまでに低迷する経済状況の中、若い人、たとえば高校生が将来に明るい展望を心から描くことなんてできるだろうかと。高校生ばかりでなく、震災で被災した多数の人も同様でしょう。いまは、社会が不安定で「不条理」がとても多い時代です。
私は「クジを引く」という表現をしていますが、生きていればどんな人だって、明日どういう目に合うか、つまりどんなクジを引くかわかりません。それは受験に合格することなのかもしれないし、災害に巻き込まれることかもしれない。
引いたクジが幸せなのか不幸なのか、上か下か、そんなことは誰にも決められません。他人から見たらどんな些細な事だったとしても、本人にとっては生死をわかつような重い悩みかもしれない。比べることなんて、できない。
いまの社会は、「価値観」を若い人に押し付ける傾向が強いかもしれません。「クジ」を価値観や心の問題にすると、それは個人の悩みということになってしまう。困ったとき、具体的な解決策をさがすために、社会と問題を共有するための言葉をもてないような状況にあると、私は感じています。
それは言葉の使い勝手が悪いということも関係しているのだと思います。
年齢を問わず、「わかってもらえない思い」を抱いている人は多いでしょうが、10代とそれより上の各世代とでは、消費している情報もコンテンツもぜんぜん違います。互いの層を行き交うコミュニケーションが断絶してしまって、共通の言語がない。
おそらく高校生がいまの新聞を読んでも、「私たちの置かれている状況がここに書かれている」とは思わないでしょう。大人やえらい人、遠い誰かに向けて書かれているとしか感じないかもしれませんね。
それぞれが暮らしの中であるクジを引いた結果、「わかってもらえない思い」をもつ。その思いを表現できる場や言葉がないと感じ、そして実際に見当たらない。

たとえば難病と聞くと、特に大きなメディアは美談、悲劇的といったわかりやすい像だけを切り取ってしまいがちです。それはほんの限られた側面でしかないし、そういう手法は難病を患う人をあたかも存在しないかのように扱うことと同じ行為でもあります。
さまざまなメディアが、人と人を接続する機能を果たせていない。当事者にとっては分断されているように感じるでしょう。
物事の本質は、わかりやすくなんかない。いつも白黒はっきりしないグレーゾーンにあるのだと思います。本音がそこに宿るものだとしたら、現状の日本社会ではそれを言いにくい。
高校生は大人のように学校が過去の体験になっていないから、より身近に感じると思うのですが、日本社会はすごく学校っぽいですよね。
ある組織の中でしか通用しないルールや、そこで求められる態度があって、それにそぐわないと排除される。そういう息苦しいところがあるから、自分の本音を言うことにすごく勇気を必要とします。
だから、どうするかというと、求められるルールをうまくやりすごすか、しらけるしかない。でも、そうしたところで何も問題は解決していないから結局苦しさは続きます。
物事の本音の部分と向き合うのはたいへんだけど、自分の気持ちをとにかく話す、さらけ出すことは、けっこうおもしろいことでもあります。
人と人とのあいだにあった壁を思い切って壊して、他者の新しい面を発見することは楽しいことですよ。
都合のいい建前の言葉でやりすごすずるさというのがあると思う。そういう面で、いま、ずるい大人が多いかもしれない。もちろん、私も含めて。
つらいと感じたことや「これは不公平だ。おかしい!」と思って挙げた声を「仕方ない」「世の中そういうものだから」と、あっさり片付けてしまう。
高校生より大人のほうが、先にこの社会に参入しています。大人が、若い人につらさや不公平さを引き受けさせるというのは、あまりにふがいないと思うのです。

そもそも、人は親を選んで生まれてはこれない。親の経済力で、その人の進路の幅が決まってしまう社会は、フェアとは言えません。
これは責任や競争の否定ではなく、それらが大事だと思うからこそ、最低限のスタートラインを保障する制度が重要なのではないでしょうか。
社会の仕組みは、高校生にとって縁遠い話に聞こえるかもしれませんが、社会保障制度は誰にも身近なことなんです。
OECDという世界の先進国が集まって統計を出している国際機関があるのですが、日本は2008年時点で、教育に対する公的支出は加盟31ヵ国中最下位です。教育への私費負担率も3番目に高い。
つまり、親の経済力がすぐさま教育水準に反映する。生まれた瞬間にその人の選択の幅が決まってしまうのは、あまりに希望をもちにくい社会だと言わざるをえません。
不条理に直面したとき、人は理由や救いを求めたくなります。その場限りでもいいから、安易な答えが欲しくなる。
けれども、そこでつかんでしまったわかりやすい答えというのは、たいてい「自分がいけなかった」「誰かが悪い」といったような、個人の問題の範囲で思考が止まってしまいがちです。社会の歪みで生じた側面まで個人の振る舞いのせいにしてしまう。
「この先、日本はどうなるんだろう」と考えたときに、暗澹たる気持ちになるかもしれない。でも、実はそんなに悲観する必要もないと思っています。
『困ってるひと』を読んで下さった方々から頂いた感想で一番多かったのは、中学生からIT企業で働く人、高齢の方まで、幅広い社会階層の人が「実はずっと前から私もそう思っていたけど、言えなかったことが書いてある」という内容でした。
本に書かれている内容のどのポイントに引っかかったかは、人によって違うにしても、絶望したことに対し、簡単に答えを出さず、自分の思うことをとにかく言ってみる。ホントはみんな言いたいことがいっぱいあるんだなあと痛感しました。

ちゃんと「困っているんです」と言う。そうしたら必ず聞いてくれる人がいます。
こういう状況下では、高校生は親や先生から「ひたすら高学歴を目指すしかない」と言われているかもしれない。私も高校生のとき、そう思っていました。
でも、世の中はそんな単純なものじゃなかった。もし仮に世間で「エリート」と呼ばれる人物になれば幸せなのかというと、幸せや不幸はただの外部評価でしかないから、そんなことその人にしかわからない。
おそらく、若い人は自分の本音を語れないし、語ることすら諦めさせられているかもしれない。世の中の大人が、自分の気持ちをわかろうとはしないことを悟っている。
でも、悟っちゃったら、社会はそこで硬直してしまいます。
こんな時代に必死に生きている高校生の人に、えらそうなことなんて何も言えません。とにかくずるさや矛盾に対峙すること。おかしいと思ったらおかしいと言う。
きっと自分が思っているよりずっと周りは共感してくれる。私はそういう人がカッコいい人だと思います。そうやって人と人、人と社会が分断された状況は解体されていく。私は物書きとして、そういうことを仕事としていきたいと思っています。
しらけた態度や無関心さはどこから来るかといえば、世の中にラインみたいなものがあって、「自分はラインの内側にいるから大丈夫だけれど、ラインの向こう側にいるのは、同じ社会に住む人間じゃない」と思っているからでしょう。
ある価値観に基づいてラインをひくとき、「自分は決して向こう側には行かないだろう」と思っているかもしれないけれど、実はそうじゃない。いつだって誰だって、「向こう側」に行く可能性はあります。
「向こう側」のことなんて知らないよ。そうやって人に対して無関心になるということは、他人が自分に無関心になるということでもあります。そういう社会は、虚しいし、つまらないと思う。
起きている事態にしらけて無関心になるより、格闘して、悩んで、また格闘する。そうして成し遂げたことはすごくうれしいことのはず。必死に生きていることが、楽しくないわけがない。
唐突ですが、ヤマシタトモコさんという漫画家さんの「BUTTER!!!」という作品があるんです。ちょっと浮世離れした高校の社交ダンス部の話(笑)。リア充、非モテ、ヲタ、根暗、いろんな枠にはまった人が集まる。それぞれのカテゴリーに属していた人がダンスして本音をさらけだすことで、枠が壊れてしまうんです。
作品中、「音楽が鳴っているのになぜ踊らないの?」というセリフがあります。
いつでも音楽は鳴っていて、それに乗るか乗らないかは、その人の選択だけど、「音楽が鳴っている」と思ったら踊ったほうがおもしろいんじゃないかな。
しらけて無関心でいるよりも、本を読むなり、足を運んで誰かを訪ねて、会って話すほうが断然おもしろい。それが踊ってみるということです。
「動かし難い現実がそこにある」と思ってしまいがちですが、言葉が現実をつくっていく。だから語ることは社会をつくること、現実をつくることでもある。
不条理な時代であれば、なおさら言葉の仕事が問われていると思います。これからもおもしろい読み物や色んな形で、見えにくい物事をできる限り見えやすくするようにしていければと思っています。

どうでしょうか。少なくとも病気になる前は、頭は固いほうでした。横文字が大好きで、難しい本を買っては「私って頭いいんじゃない?」と思うタイプ。研究分野である国際貢献とか国際援助について話していても、とても表面的だったと思います。
ビルマの現場に足を運び出してから、自分の考えや姿勢に疑問をもち始めました。それまでは「きっと難民はすごくかわいそうな人たちで、悲劇的な目にあっていて、それでも清く正しく貧しく暮らしているんだ」と思っていたんですが、実際に現地に行ったら全然そうじゃなかった。
人間だから嘘も吐くし、適当なことも言う。でもたいへんな状況にいることは違いない。
先入観を壊す上で、自分の見たことのない世界に飛び込んでみることは大事です。
ビルマの軍事政権は、絶対的な悪だと思っていました。だから現地は悪人の巣窟に違いないと。でも、そんな典型的な悪人はどこにもいなかった。現場はいつもグレーゾーン。現実に固定した状況があるはずもないんです。
そうですね。被災者が「被災者らしからぬ」行動をすると途端に叩く人がいます。
勝手なイメージを抱いておいて、それを裏切られたといってバッシングする。そういう大人はなんだか、とてもカッコ悪いなあと思う。
自分の価値観や先入観通りの振る舞いを相手がしていないから責めるって、良い悪いの話以前に、カッコ悪いじゃないですか。度量が狭いというか。
現場にあるのは、いつだって人間が普通に生きている姿です。具体的な日常生活です。清くも正しくもないけれど、それが大事。いろんな場面でありのままを見ることが、他者を発見することなんじゃないかな。
本をたくさん読むのも勉強するのと同じくらい、自分で足を運ぶこともすごく大切。頭と身体を両方使って考える。頭だけでは視野が狭くなる。身体も使うといろんな世界が見えて来て、それはとってもおもしろいことです。
私も毎日たいへんでつらいことがたくさんありますが、だからこそおもしろいこともあります。もちろん、うまくいかないですよ、恥ずかしい思いや失敗ばかり。自分ができないこと、知らないことを、知る。でも、それが本来の「まなぶ」ということなのではないでしょうか。
自分を包んでいる障壁は、自ら動けば勝手に壊れていきます。たぶん生きる限り、その繰り返しです。
自分の人生は自分のもの。できるかぎり、思うように生きたほうがいい。誰かが勝手に設定したラインを踏み越えて、自分の頭で考えながら、一緒に進んでいければいいなと思います。
[文責・尹雄大 撮影・渡邉孝徳]

Sarasa Ono
大野 更紗
1984年、福島県生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程休学中。学部在学中にビルマ(ミャンマー)難民に出会い、民主化活動や人権問題に関心を抱き研究、NGOでの活動に没頭。大学院に進学した2008年、自己免疫疾患系の難病を発病する。1年間の検査期間、9か月間の入院治療を経て、現在も都内某所で絶賛生存中。
Blog: http://wsary.blogspot.com/
Twitterアカウント: @wsary
【大野 更紗さんの本】

『困ってるひと』
(ポプラ社)