

Toshinao Sasaki
佐々木 俊尚
ジャーナリスト。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部中退。毎日新聞社、アスキーを経てフリージャーナリストに。著書に『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社)など多数。
佐々木 俊尚さん(ジャーナリスト)
近年、テレビ番組や新聞の報道や論調に対し、疑問の声が特にインターネット上で沸き上がっている。言論の質を問う議論が多くを占める印象だが、果たしてそれは本質的な議論なのか。今回、登場いただくジャーナリストの佐々木俊尚さんは、マスメディアが前提にしていた「マス」の消失と論調の低調が、マスメディアの凋落の背景にあると指摘されている。いったいマスメディアに何が起きているのだろう。
「新聞やテレビがダメになっている」。こういう話は、みなさんも数年前から耳にしていると思います。けれども「マスゴミ」という言い方が象徴的ですが、ほとんどのメディアの衰退に関する議論は、「報道の仕方が一面的だ」といったような、言論の質の低下について行われていました。
私は常々、衰退はビジネスの問題であって、そのことと言論の劣化は違う話だと思っていました。
しかしながら、現状の新聞やテレビのビジネスモデルが崩壊することについて誰も指摘していなかったため、それなら私が書こうと思ったのです。

マスメディアが前提にしていた「マス」の消滅に原因が求められると思います。たとえば、身のまわりで見かける商品に「みんなが買う」ようなマスを対象にしたものがあるでしょうか。
高度経済成長期なら「みんなが買っていた車」や「みんなが聴いていた音楽」がありました。しかし、いまは人それぞれ求めているものが違いますし、車にいたっては、「そもそも必要ない」という人もいます。
マスが消滅して欲しいものが個別化して行く状況の中で、いまだに新聞やテレビは、「みんなが同じものを読み、同じものを見る」ことを前提にしています。その考えが現実と合わなくなっているのです。
新聞には宅配制度があるため、なんとなく習慣的に購読していたり、テレビもただ映っているから見ているだけというのが実状ではないでしょうか。
実際、新聞やテレビの広告の効果が激減しています。従来、新聞に広告を載せ、テレビでコマーシャルすれば、一般に及ぼす影響力が大きかった。いまは一部の菓子や日用雑貨以外にテレビCMの効果はないと言われていますし、新聞で目にするといえば、通販の広告くらいのものです。
そうです。分岐点は国民が「自分は中流だ」という意識をもてた「総中流社会」の達成した1970年代末にあります。80年代に入ると総中流社会が綻び始め、大手広告代理店の電通や博報堂が「小衆」や「分衆」と言い出しました。その時点でマスはなくなっていたのです。
しかし、自分に適した情報や商品を入手できるような手立てがなかったのと、バブル経済の影響もあったため、人々はマスメディアの発信する記号を消費するほかなかった。それに80年代は、まだ総中流社会の余韻があり、格差社会が到来しておらず、なんとなく国民の一体感があったのも影響したでしょう。
ところが90年代にインターネットが出現し、初めて自分に適した情報を得ることが技術的に可能になりました。それがマスメディア中心の記号消費を崩壊させる要因になり、また格差社会化の劇的な進行もあって、「みんな」との一体感やマスという幻想が打ち砕かれたのだと思います。

社会には「総中流」という意識をもてた多数派という安定基盤があったため、そこから排除された人は少数派でしかありませんでした。私が新聞記者になった80年代、「少数派に光を当てよう」と盛んに言われていました。たとえば障害者や犯罪者といったマイノリティですが、彼らに光を当てることで、中流社会の歪みが逆照射されて見えてくる。それが新聞社の考え方でした。
しかし、90年代後半以降、格差社会の到来とともに安定基盤であったはずの多数派が分断化されていきます。その分断状況にメディア側が付いていけなかったのです。
社会が貧困層と富裕層にわかれたことで、多数派であった中流階層の中でも分断が起き、年収200、300万円になってしまった人も生まれました。
多数派の陥った状況をきちんと捉えないといけないときに、マスメディアはなぜか生活保護の家庭や派遣村に入所した人といった少数派に目を向けてしまう。もちろん、それも大事な問題ではありますが、そこだけを見ても分断された多数派の下層の問題は見えてこない。それにマスメディアは気付いていない。
都市と地方の問題についても同じです。かつて地方は都市の模倣でしかなく、都市文化はテレビや雑誌を経由して地方に流れ込み、半年後に同じものが流行っていた。いまは都市と地方でまったく違う文化体系があり、たとえば、長らく衣料品の「しまむら」の店は東京にはなく、地方でしか買えなかった。
携帯小説も都会ではなく、地方で売れている。文化状況も完全に違う進化を遂げています。
ところが地方を取り上げるといまだに限界集落みたいな極端な話題になってしまうのです。そうではなくて何千万という国道沿いに住んでいるような膨大な住人のことを描かないといけない。
あらゆる局面で分断化していく状況をきちんと捉えられていない。多数の人の動向を把握できていない事態の進行そのものが、マスメディアの崩壊を物語っているのですが、そのことがいまだに理解できていない。それがいまのマスメディアの言論の限界です。
ですから、いまのマスメディアには「誰を代弁しているのか」という問題がつきまといます。何か事件が起きると、たとえば「政治家はけしからん」と批判する。けれど、批判しているのはいったい誰なのか。新聞もテレビも「われわれ」という日本人全体に依拠した批判を行いますが、全員を代弁することはできません。では、依拠している日本人とは誰のことなのか。
貧困問題について報じるならば、それは年収200万の立場で言っているのか。それとも1000万円の立場で言っているのか。あるいは都市か地方のどちらの生活状況を代弁しているのか。立ち位置によって言論の内容は変わってくるはずです。包括メディアとして代弁することは、もはや構造的に困難なのです。
テレビはもっとわかりやすいです。ニュースやワイドショーは記者が現地に行ってきて撮ったビデオを放送し、それが終わると映像はスタジオに移って、コメンテーターが何かしゃべります。ビデオを撮っていた取材者はあくまで対象に接近して、物事を見ています。
けれどもスタジオに切り替わった瞬間に、コメンテーターは視聴者の側からビデオを見て、視聴者を代弁して話します。
コメンテーターの優秀さは、物事をよく知っているかどうかではなく、視聴者が何を感じているかの空気を読んで、的確に視聴者を代弁するコメントを言えるかどうかに関わっています。けれども、そのコメンテーターはいったい誰を代弁しているのでしょうか?
小沢一郎VS検察は、理念的に言えば、小沢一郎は時の政権を担っている人であり、比べて検察は官僚組織のひとつに過ぎず、対立構図は成り立たないと言えますが、現実には検察は政府からの独立性がある程度担保されており、両者の関係は権力闘争以外のなにものでもなかった。
そういう状況の中で完全に検察側に依拠した言論は、バランスを欠いているとしか言いようがありません。
これに対し、ツィッターやブログをはじめインターネットの言論空間から強い反発がありました。そこでの議題は、「小沢一郎を支持するかどうか」ではなく、「小沢一郎か検察か」であれば、「なぜメディアは検察側に立つことを前提にしているのか」。メディアは双方から距離を置いて見るべきなのに、「なぜ一方に依拠しているのか」という内容でした。
こういう事態ひとつをとっても、全員を代弁するというシステムそのものが崩壊していると思いますし、それについてマスメディア側が何の反論もできていません。

この一件に関しては、検察に嫌われたら、検察庁の記者クラブを出入り禁止になる可能性がありますし、そうなると記事が書けなくなります。その不安がすごくあったと思います。
しかし、問題はそれだけでなく、メディア側に「検察は常に政治権力と対峙してきた唯一の権力監視機関である」という固定観念がつくられていることも大きい。いったん構図をつくると、それに反したような報道はできなくなる。オルタナティブな言論を形成しにくい構造があるのです。そこがインターネットの言説と違うところだと思います。
マスメディアが消えた後、ミドルメディアが登場するでしょう。マスメディアが数百万、数千万人を対象にしていたのに対し、ミドルメディアは数千から数十万規模の特定の領域や分野に向けて発信されます。従来はコストがかかるため、ミドルメディアをつくるのは難しかったのですが、技術の発達により低コストで情報を流通させることができるので、その数も増大していくでしょう。
そこで監視機能の話に戻りますが、ミドルメディアになった場合、日本では新聞社が倒産する事態にまだ陥っていないので、なかなか具体的な展開が見えにくいのですが、アメリカの例から今後のモデルが考えられそうです。
アメリカでは現在、新聞社がたくさん潰れていて、昨年解雇された新聞記者が約1万8000人。そういう中、AOLというポータルサイトがクビになった記者を再雇用し、報道部門を設け、記事を配信するようになりました。
紙を印刷して製本して流通させることに比べたら、低コストかつ少数でメディアを維持することが可能になっているのは確かです。そういう中から権力監視機能を担うことは充分ありえるのではないでしょうか。
なぜ新聞社が調査報道をしていたかというと、それで儲けていたわけではありません。記事を書くことから販売店にいたるまでの垂直統合のビジネスモデルを展開したことで潤沢なお金が集まっていた。その余剰で調査報道していただけです。
わかりやすい可能性をいうと、グーグルは年間2兆円の収益があります。そういう余剰のある企業が年間500億から1000億の間で調査報道を行う機関をつくることは可能だと思います。

書籍の世界もどんどん変わり、おそらくスモールビジネスになるでしょう。キンドルやアップルのiPadを端末に電子書籍を発行すれば、大きな出版社は必要なく、しかも印税が70%となれば、書き手と編集者、デザイナーとフリーランスの3人が組んで一冊の本を出し、利益は折半するスタイルにしたほうが合理的です。これからはフリーランスが連合したビジネスモデルに移行していくと思います。
アメリカのニュースサイトで盛んに議論されているのは、これからのジャーナリストに不可欠な「スモールビジネスの運営能力」についてです。
これまでのジャーナリストに必要な能力は社内政治の力でしたが、これからはスモールビジネスの運営やコミュニティー構築能力が欠かせないというわけです。自分の記事を読んでくれる読者とのコミュニティーをつくる。そういう方向にジャーナリズムも進んでいくかもしれません。
つまり、書き手と読者の間に大きな組織があって、マスモデル的につながっているのではなく、書き手と読者が直接つながり、そこに小さなコミュニティーがあって、直接お金がやり取りされるような、いわば中世に往来で踊ったり、歌って大道芸を披露している人にお金を払うような仕組みに変わっていくということです。
音楽の世界を例にとりますと、ITunesを介した曲のダウンロードが2000年頃から進んだ結果、CDの売上はかつての半分です。いまは1万枚が売れればいいほうで、メジャーレーベルから出しても儲からなくなっています。音楽業界はますますスモールビジネス化し、インディーズから発売して印税を分け合う形に移行していくでしょう。
そうなるとミュージシャンは自分のサイトで直接音楽を配信し、同時にツィッターで呟いてファンと直接交流する。また自宅で録音している風景をUSTREAMで放送し、プロモーションビデオを自前でつくってyoutubeにアップする。こういうふうに、あらゆるソーシャルメディアを駆使し、多様な形でリスナーとつながっていくスキルが求められていきます。
コミュニティ維持能力とスモールビジネスの運営能力、マルチメディアを駆使する力は欠かせません。
ひとりで生きて行くことを覚悟することです。そこで重要なのが、セルフブランディングです。セルフブランディングとは、「自分は何ができるのか」を打ち出すことですが、それは必ずしもスーパースターのような能力ではなく、「こういう分野の仕事ができます」と伝えることでいい。
伝達方法も、ソーシャルメディアを駆使し、発信していくことで一緒に仕事のできる人との関係を構築する。そこではオンラインとオフラインでのコミュニケーション能力が問われるでしょう。
最終的には社会はフリーランス化していき、中世のギルドみたいに業種ごとに仲間ができて、そこで情報交換して仕事を探すようになり、何かのプロジェクトがあったときにみんなで集まって、終わったら解散して利益を分かち合う。それが数十年後には、普通になっていくと思います。
まったく思っていませんでした。90年代半ばまでは、いったん企業に就職すれば、後は何もしなくても課長や部長になれました。とりあえず勤めていたら、結婚できたし、家を建てることもできました、周囲に辞める人がいなかった。私も定年まで勤めるかと思っていましたが、どうにも息苦しくなってきました。それに40歳すぎると管理職になるからつまらないのです。
最後は毎日新聞東京本社の社会部に所属していましたが、その職場で会社を辞めた人は7年ぶりだったそうです。
10代の頃、たくさんの本を読んだことが生きていると思います。「テクノロジーによって社会はどう変わるか」が私のテーマですが、ITに関わることは情報量が多いので、いたずらに情報を追いかけていると、たいてい情報オタクになります。それでは新製品が発表されるたび、目新しさに対し「すごい」ということしか言えない。
私は新しい技術によって、社会やメディア空間がどう変わるかを考えていきたい。それには製品の知識ではなく、社会の背景を見る視点が必要です。その上で哲学から歴史、小説、漫画まで読んだ経験が役立っていると実感しています。
[文責・尹雄大 撮影・佐藤類]

Toshinao Sasaki
佐々木 俊尚
ジャーナリスト。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部中退。毎日新聞社、アスキーを経てフリージャーナリストに。著書に『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社)、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春文庫)『ネットがあれば履歴書はいらない』(宝島新書)など多数。
<公式サイト>
http://www.pressa.jp/
【佐々木 俊尚さんの本】

『マスコミは、もはや政治を語れない:徹底検証:「民主党政権」で勃興する「ネット論壇」』
(講談社)

『2011年新聞・テレビ消滅』
(文春文庫)