

Masao Morita
森田 真生
1985年東京生まれ。桐朋高校卒業後、東京大学文科Ⅱ類入学。その後、工学部システム創成学科知能社会システムコースに進学。08年、工学部卒業。同年東京大学理学部数学科学士入学。ワークショップ「この日の学校」を開催している。
森田 真生さん(東京大学理学部数学科)
学問とは何のためにあるのだろう。真実の解明をあげる人もいれば、キャリアのためという人もいるだろう。
だが、学び問うという本義に立ち返って考えると、自身が成長し、より善く生きるためという一点は外せないのではないだろうか。
今回登場いただく森田真生さんは、数学とは自分自身を整えるための手段であり、学びとは、「生きるとは何か」の問いを立てることだという。数学のもたらす感覚や喜びを伝えるため、「この日の学校」というワークショップを開いている。数学がなぜ生きることと深く結びつくのか。森田さんに尋ねた。
たとえば、先月福山で行われた「この日の学校」では、小学生に対して「あなたが知っている、一番遠い場所はどこですか?」という質問を数学の演習問題として出題しました。ある小学生はたまたま南米出身だったため「ペルー」と答えてくれたので、私はもう一歩踏み込んで「では、あなたが"想像できる"一番遠い場所はどこですか?」と尋ねました。すると彼は「宇宙」と即答したんです。
一番遠い場所=宇宙、というともっともなような気がするのですが、よく考えてみると「宇宙」という言葉は「一番遠い場所」を言い換えているだけであって、「宇宙」と言ってしまうことで、「私にとっての一番遠い場所」の理解はあまり深まりません。
一方で、「宇宙」という言葉で片付けてしまわずに、少しでも具体的に「私にとっての一番遠い場所」を想像しようと努める姿勢の中には、すでに数学の萌芽があるような気がするんです。

数学的な対象は一般に目には見えません。けれども、そうした対象もじっと注意を向け続けていると、少しずつ輪郭がくっきりしてくる。「見えないものをなんとか見ようと辛抱強く待つ」という姿勢はそれ自身、すでに数学のはじまりなんだ。そういうことを小学生に伝えたかったのです。
ペルーが彼の知る一番遠い場所だとします。では、その一歩外には何があるのか? そこから自転車で15分進んだらどんな世界が開けているのか? そうして少しでも具体的にイメージしようとしてみると、「宇宙」という一言では片付かない豊かな世界が彼の中に開けてくると思うのです。
似たような問題で、子供に「4次元ってなに?」って聞かれたときに、「4次元目は時間のことだよ」と教えてしまうとそこで子供の想像力は止まってしまう。4次元=空間+時間、で何かわかったような気になってしまう。でも実はこれだけでは何もわからないはずなんです。
私はあるとき小学生に「4次元目って何だと思う?」と尋ねて、紙にいろいろ描いてもらったことがあります。そのとき彼らが描くものは、たしかに数学的には、はちゃめちゃなのですが、そうやって「4次元目って何だろう?」って自分たちで一生懸命考えた子たちの方が、「4次元目は時間だ」って暗記してしまっている子供よりもある意味では、遥かに多くのことを「理解」しているような気がするんです。
科学のひとつの大きなゴールは「分かる」ことだと思うんですが、必ずしも「分かる=分ける」というわけではなく、「分かり方」にも実はいろいろありますよね。
たとえば誰かが石ころを投げたとします。このときの石ころの運動が「分かる」とはどういうことでしょうか?
物理学者ならば、石ころの運動を記述する方程式を導き出して、それをもって石ころの運動の理解とするかもしれません。それは確かにひとつの理解ではありますが、「石ころを投げるとはどういうことか」については、運動方程式を立ててみたところであまりわかった気がしませんね。
そうですね。「外部の世界を記述する=わかる」と思いがちですが、実は必ずしもそうではない。いくら記述できたところで、わからないこともたくさんあります。
客観的な説明や記述ではなく、「石ころを投げるとはどういうことか」「投げたとき、どういう気持ちがするか」。あるいはさらに「どちらに投げるべきか」といった問いは、科学的な問いだとは思われていませんが、本当はこうした問いも「科学的」に問う方法があるはずです。
そのヒントが数学という学問の中にはあると思っているんです。

数学は「記述」とは違うわかり方の基準をもっている、という点が肝心です。たとえば、物理学者に「心とは何か?」と訊ねたら、彼は脳みそを取り出し「心はここにある」と答えるかもしれません。
一方で、数学者に同じ質問をしたら、彼は自分のつくった数学を指し示し、「これが私の心です」と答えるのではないかと思うのです。
同じ問いに対しても、「何をもってわかったことにするか」の基準が物理学者とは違うわけです。(もちろん物理学者にもいろいろな方がいますが)
そういう意味でも、数学は音楽に近い面がある。音楽は「生きている意味」や「美とは何か」を説明しようとしませんが、聴いたときに何かが「わかった」という感覚や感動が芽生えたりしますよね。数学も本質的には「何かを説明しよう」としているわけではないのですが、自分や人のつくった数学を通じて「何かがわかった」感覚が立ち上がってきます。
数学と音楽はいろいろな意味ですごく似ていると思うのですが、音楽の例えでもう少し言うと、私は「数学の演奏」ということをしてみたいんです。
楽譜をまったく読めない人でも、モーツァルトやベートーヴェンを愛することができるのは、楽譜を読めない人にも音楽的感動を届けられる演奏家がいるからです。
一方で、「数学は愛しているが数式は読めない」という人をあまり聞きませんね。数学の世界でも日々美しい世界を生み出し続けている「天才作曲家」は数多く存在するのですが、そうした数学的感動を届ける「演奏家」の役目を担っている人というのが相対的にあまりにも少ないような気がするのです。
その理由のひとつは、数学者の多くがいわば「数学ネイティブ」であるために、数学を数学以外の言語で理解したり、表現したりする必要性があまりない、ということがあるのではないかと思っています。
僕は20歳を超えてから数学をはじめたので、数学を理解するにはどうしてもこれまで使ってきた言葉や感覚に翻訳する必要がありました。それが逆に、「数学の演奏家」を志すには都合がよいのではないか、と最近思うようになったのです。
(ホワイトボードにS字の曲線を描く)いまこの形を見て、この形がS字型だとわかるのは、僕たちがこの形を外から見ているからです。この曲線の外に立つことを許されている僕たちには、この曲線の「大局的=global」な情報が瞬時にわかります。
でも、仮にこのグラフの形をした宇宙の1点の上に棲んでいる人がいるとしましょう。彼は曲線の外に出ることはできないので、自分の近くの「局所的=local」な形しかわかりません。全体の形を知ろうとすれば、長旅に出て探索するしかないわけですが、この曲線が無限に長く続いていたら、永遠に彼はこの曲線の形を知ることはできないでしょう。彼は無限に続く曲線の上では、ほんのちっぽけな存在だから、到底曲線全体のことなんてわかりっこない。
常識的に考えるとここで物語は終了なわけですが、「そんなことはない!」と希望の手を差し延べてくれるのが(理系の高校生であれば習うと思いますが)「テイラー展開」と呼ばれる理論です。
この理論によれば、S字型をした宇宙の1点上に棲んでいる人は、長旅に出ずとも、自分の足下の形を徹底的に調べれば、曲線全体の形がわかってしまうのです。
局所的な情報をとことん知ることができれば、大局的な情報が得られるという意味で、局所と大域が深いレベルで繋がっているんだ、ということをこの理論は教えてくれます。
一人一人の人間は、広い宇宙の中であまりにちっぽけな存在で、生きているうちに宇宙の全体などわかりようもありません。宇宙という大局の中で「私」という局所とどう向き合うかという深刻な問題に突き当たったときに、僕はテイラー展開の理論に出会ったのです。
数学だろうがスポーツだろうが、庭の掃除だろうが何でもいい。自分の足下をとことん深めていくことが宇宙の全体と向き合うということなんだ! テイラー展開がそういうことを僕に教えてくれているような気がしたのです。

これが道徳の先生に「どんな人生も尊くて、あなたに与えられた目の前の仕事を一生懸命することに大きな意味がある」と言われても、あまりに模範解答じみていて納得できなかったのではないかと思います。
しかし、数学では与えられた式をひとつひとつ追っていけば、局所と大域がどのような意味で繋がっているのか、ということが手に取るように自分の目で確かめられます。
ですから、たとえばテイラー展開の理論やその思想を高次元に一般化した複素多様体の理論を倫理の時間なんかに教えたら面白いと思うんですね。もしかしたら下手な説教よりも響くところがあるんじゃないかと思うんです。
数学は「絶対に自明なこと」を疑い、「その先は行き止まり」の先へ行こうとする学問です。たとえば1+1=2ほど当たり前の式はないと思っている人もいるかもしれませんが、1+1が必ずしも2でない数学や、1+1+1=0になるような数学もあって、現代数学でとても重要な役割を果たしています。数学はどこまでも自由ですから、とんでもなく「非常識」なことも平気でやってのけます。
たとえば2という数字を考えてみましょう。2という数字はあくまで2であって、3ではないですね。同じように、すべての数は「2であるかそうでないか」のいずれかであって、「微妙に2だけど、微妙に2じゃない数」っていうのはちょっと想像できませんね。
ところが「排中律」という常識を捨てると、そういうことが可能になるんです。排中律を認める論理を古典論理、排中律のない論理を直観論理と言いますが、直観論理の世界では「確かに2だけど、完全に2というわけではない2」というような曖昧な数字を数学的に考えることができるんです。
その前に説明しますと、僕がいま研究している「代数幾何」という数学の分野は、「数の世界」と「形の世界」の間にある深い繋がりを調べる分野だということができると思います。
実は数の世界の問題が形の問題に翻訳できたり、形の問題を数の問題に置き換えることができたり、ということが数学ではよくあるんです。
そこで「微妙に2」というような数の概念を、形の世界で理解しようとすると「層」という概念が出てきます。層という概念は数学の中でも比較的最近登場したアイディアで、「空間とは何か?」ということを考える上で非常に重要です。
私たちは「空間とは何か?」と聞かれると、普通はデカルトが考えたように、空間とは縦、横、高さの3次元的な広がりである、と考えます。しかし「空間とは何か?」という問いに対する答えは、数学の進展とともに日々更新されていて、私たちが普通「空間」というときにイメージする「Euclid空間」よりもはるかに豊かな世界をもつ「多様体」という概念をRiemannという数学者が編み出し、さらにGrothendieckという数学者は「スキーム」というさらに一般的な空間の概念を考えだしました。こうした空間概念の変遷を理解する上で「層」というアイディアがとても大切な役割を果たします。

これを説明するのに芸術家の池田亮司さんの作品を例にあげて説明を試みてみましょう。ある展示会で池田さんは美術館の1階と2階にまったく同じ形をした展示スペースをつくりました。
1階は真っ暗で、プロジェクターを使い、あちこちに映像作品を投影しました。目には次々と視覚的な情報が飛び込んできます。一方で2階は部屋が真っ白で何も置かれていない。目で捉えられるものが何もない。でも超音波みたいな音がして、上下左右に少し動くと音も変化する。これはいわば、目を閉じたときに見える世界です。
思い切って例えるならば、この1階の展示スペースが「層以前」の空間概念を、2階の展示スペースが「層以降」の空間概念を表現していると僕は感じました。2階の部屋では大局的な情報はわかりません。部屋がどういう形をしているかもわからない。けれども、ここだけで聴こえる音があり、ここだけで吹く風があります。人が微妙に動くと音も空気も変わる。同様に、僕たちが生きている空間には、「ここでしか感じられないこと」や「ここでしか味わえないもの」があります。
では、ここで層を思い出してください。これまで「空間」と言えば、単なるのっぺりとした広がりだと考えられていました。それに対して、層というのは、空間の各点の上に豊かな情報が載っているという状況を考えます。
数学用語っぽくないかもしれませんが、そうした各点の上の情報のことを「茎」と言います。各点に茎が生えていて、各点の上の茎は辻褄があうようにうまく繋がり合っている。
これは池田さんの作品でいえば、横に少し移動したらいきなり音が大きく変わるのではなくて、わずかな変化に合わせた変化が起きることになぞらえられます。さらにこれらの茎は「芽」から成り立っているんですが、こういう用語の面白さも数学の隠れた楽しみの一つかもしれませんね。
思い込みで突っ走ってしまいそうなときに、数学者に警告を発してくれるのが「具体的な問題」の存在です。「こうなるに違いない」という考えで計算をはじめてみたら、うまくいかないということがよくあります。そういうときには、自分の理解がどこかで間違っているんです。
数学は具体的な計算を通して常にいまの自分の状態をチェックすることができますから、数学をバロメータとして自分を整えていく、というような感覚が芽生えてきます。自分の進んでいる方向が不安になってきたら「計算して確かめてみる」という道が必ず残されているという安心感はありますね。
僕は、数学とは自分の精神を整えていくための手段だと思っています。たとえば、自分の部屋を汚しっぱなしにしていると違和感や負い目をもつわけですが、その状態で数学について考えていると、思考も曇ってしまいます。
それがなぜ問題かというと、数学は物理的に見えるものを見ているのではなく、見えないものを相手にしているため、見ようとしたときに自分の心の状態があからさまに出てくるからです。変なことを考えたり、「あの人に悪いことしたな」などと思っていると、まったく見えない。
ところが調子がいいと、一日かけてまったく思いつかなかったことがパッと見えたりする。
自分の精神状態を客観的に量る方法はありませんが、数学の場合、「数学的現象の世界がどれくらいの透明度で見えているか」で、自分の心の状態をチェックすることができます。

数学の本体は、客観的な対象の記述にあるというよりは、個々の数学者の内に広がる内的な世界、数学的現象の世界を見つめ、それを描き出していくということにあるのだと思います。
一方で、宗教的な瞑想と数学の最大の違いは、宗教者が瞑想して何か「わかった」としても、それを伝える共通言語がないという可能性があるのに対して、数学では厳密に規定された表現手段をもっている点が挙げられると思います。
実験物理学の祖であるガリレオは、この世界を幾何学的な対象として捉えようとしました。その発想は、たとえばここにあるペットボトルを考えたとき、このペットボトルの色や匂いは本質的ではないと考える。
一方で、「このボトルの形と空間に占める位置は本質的な情報である」と考え、形と位置以外の情報を「主観的」なものとして排除したわけです。
けれども、僕たちが生きている世界には色や匂いが確かにあります。逆に、「形は客観的だ」といっても、私と他の人が捉えている形が同じかどうかわからない。それに気分によっても大きさは違って見えます。形と位置を取り出すことで物理学が可能になったわけですが、同時に僕たちはそのとき多くを失ったんだと思うんです。
伊藤仁斎は『童子問』で「人倫有るとき即ち天地立つ」と記しています。一方、いまの物理学の考えでは、基本的にまず天地があって、その中に人間がいるとしますね。物質が動き回るパターンのひとつとして生命なり心があり、そのパターンを理解するのが物理学というわけです。
けれども物理的な世界の中に人間がいて、その中に心があるのではなく、人間の心が成り立っていないと、そもそも「この世界」は成立しないという素朴な考え方もあり得るわけです。
暗闇で生活してみるとわかるのは、目で見ている世界よりも遥かに多くのものを僕たちは普段から「見ている」ということです。心の中に去来するのは、外部の見えているものだけではありません。人はいろんな記憶や感覚とともに生きています。それが心の中の世界であり、客観的に記述可能とされる世界よりも、こうした「見えない世界」の方が遥かに広大です。
かりに僕が借金返済で追い込まれたら、心理的にも物理的にも視野が狭くなっていくでしょう。反対に自分がすごく安らかな気持ちで精神的にいい状態だと、ふだんは見えないところまで見えたりします。自分の心の状態で見え方がまるで違ってくる。そういう意味では「人倫有るとき即ち天地立つ」という思想はとても受け入れやすい考え方ですよね。
私はここで「自然の中に心があるのか、それとも心の中に自然があるのか?」という論争に答えを出したいというわけではありません。ただ、あくまで物質的な世界の中のひとつのパターンとして心があるのだ、という世界観に固執していたのでは、私たちの生きている世界を一面的にしか理解できないのではないかと思うんです。
数学は現実の人生とどんな関係があるのですか?という質問をよくされます。これに対する安易な答え方としては、「数学で宇宙の謎が解ける」とか「社会で数学が応用されている」というような具体例を出していくやり方があります。
確率論が金融業界で使われたり、整数論が暗号の生成に利用されていたり…、テレビ番組などで数学のトピックが取り上げられるときも、たいてい宇宙との関連や、わかりやすい社会的な応用がフォーカスされますね。
しかし、僕は数学者はもっと胸を張って「数学は役に立つ!」と言っていいと思っているんです。数学は現実の人生と関係しているどころか、この人生をよりよく生きていこうとする探求そのものなんですから。
自分の心が数学に映る。数学に映る自分の心を見つめながら、それを育てていき、整えていくのです。健康のためにヨガをしたり、趣味で瞑想をしたりする人がいるように、よりよく生きるために数学をする。そんな習慣をもつ人がこれからどんどん出てきてもおかしくないと思っています。
[文責・尹雄大 撮影・佐藤類]

Masao Morita
森田 真生
1985年東京生まれ。桐朋高校卒業後、東京大学文科Ⅱ類入学。その後、工学部システム創成学科知能社会システムコースに進学。08年、工学部卒業。同年東京大学理学部数学科学士入学。代数幾何学を研究する傍ら、より多くの人に数学の感動を伝えるべく、ワークショップ「この日の学校」を開催している。