的場 昭弘さん(神奈川大学経済学部教授)
働き口がない。いつ契約を切られるかわからない。管理職とは名ばかりで、過労死寸前の労働をさせられる。安定した生活を営むこともままならないのは、不況だから仕方ないのだ。
だが、本当にそうだろうか。なぜ脅かされて、健康で文化的な最低限度の生活すら送れないのだろうか。
20世紀に多大な影響を与えた思想家であり革命家であるマルクスは、資本主義の分析を徹底的に行った。
マルクスはこう言った。「ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えざる糸によってその所有者につながれる。賃金労働者の見かけ上の独立は、雇い主がたえず代わること、契約という法的なフィクションの中で維持されている」。
この指摘は、いまなお有効だ。今回登場いただくのは、マルクスを長年に渡り、研究されている的場昭弘さん。今日におけるマルクスの思想の有用性についてうかがった。
世間の関心がどうあれ、ずっとマルクスを研究し続けてきたのですが、さすがにリーマンショック以降、「これまでの資本主義や世の中のあり方はおかしいんじゃないか?」と疑問視する人が増えたと思います。マルクスが読者の耳目を集めている気がします。

ええ。しかしながら、若い人の関心は、とかく長続きしないものです。周囲に様々な情報があるし、色々なことに情熱を傾ける機会も多いため、かりに社会問題に関心を持っても、善し悪しは別にして、ほかのことに興味が移ってしまう。ずっと関心を持ち続け、社会問題を自分のものとして考えるには、体力が必要です。
『とっさのマルクス』は、社会に対して違う見方ができるようになるためのとっかかりであればいいなと思っています。
ソ連の崩壊後、資本主義社会以外の選択肢がなくなりました。そこで一部の歴史学者たちが「私たちの歴史は、ひとつの完成度に到達した。歴史が終焉したのだ」と言い、手を叩いて喜んだ。
それを見た学者以外の人は、「これでみんなが中産階級になって幸せになれる」と思った。でも、資本主義はそう甘くなくて、幸せな世の中どころか、やりたい放題の世の中になってしまった。
はい。そのような仕組みを維持するために、この20年くらい不動産に始まり、IT、金融とバブル経済が仕組まれてきました。こうしたグローバリゼーションの過程は一皮剥けば、実際に存在する搾取を、いかにもないかのように展開させることでもありました。
たしかにそうですが、以前は先進国の課題は、国民国家内で中産階級をつくることに向けられていました。日本も全体的な経済成長によって国内の深刻な貧困や暴力的な搾取構造は、次第に見えなくなっていき、豊かな社会になりました。その理由は、経済格差を利用して日本の外で搾取をしていたからです。
やがてグローバリゼーションによって経済の動きが国内だけに止まることができなくなりました。日本の企業も日本人に高い給料を払うより、中国をはじめとした人件費の安い国に工場をつくるようになりました。
そうすると日本の中で就労できない人が増え、そのまま放っておくと、日本の中で階級格差が生まれかねない。
それでも「すべての人が中産階級になれる」という話を維持するには、とにかくものをつくって売らないといけない。だから90年以降、さまざまなバブルが生まれ、架空であれ、儲け話をつくって、どんどん消費を喚起しようとした。それが最終的に破綻して、いまのような状態になっているというわけです。

資本主義が歴史の到達点というのは嘘です。つい数年前まで「フラット化する社会」ということが言われ、世界から貧困が消えることをうたう本がベストセラーになりましたが、そのときも世界はフラットになっておらず、世界人口の3割は飢えていました。先進国の人間にはそれが見えなかった。こうした状況は以前もあったし、一貫して解決してこなかった。
ある人間が巨大な富を得て、楽に暮らしている。そのために、ある人間が損をする。このモデルが存在する限り、人が平等になるという発想が現実化する余地はありません。「平等に生きることができる」というモデルをつくらないといけない。
けれども、資本主義社会は自ら平等モデルをつくることができません。それがわかってきたのがいまの現状だと思います。
だいたい人の能力にそれほど差はありませんし、経済力と能力の結びつきはあまり関係ありません。
共産主義の描く社会のイメージは、キリスト教的な原始共産主義にあると思います。キリスト教では、みんなで一緒に食事をすることを重んじます。食事に関していえば、どれだけ大食いといっても、そうでない人との差は100倍、1000倍にもなりません。だいたいみなが平等に食べることができます。
食事が共同行為であるのは、その場において差が出ないからで、だから平等主義が生まれたのです。
ところが、生産の場では差が出てきます。たとえば、10トンの米をひとりで食べることはできないけれど、つくって独占することができます。
いまの社会では「つくる」「生産する」という局面に重きが置かれ、その価値観を巡って優位が争われています。だから、経営とか特許を得ることが重視されるわけです。
かつて人は共に食べること、遊ぶことを楽しんだ。だからこそ、友愛という概念が生まれた。働くこと、つくることを重視することは長らくありませんでした。
利己心です。これは近代市民社会がつくった人間の新しいモデルです。それまでの社会は利己心を中心に人間像をつくらなかった。人は独力で何もできないからです。
ところが、近代以降、人間を肉食獣みたいな発想で捉えるようになります。自分の生命を守るために他人を犠牲にできるのが人間性であり、世界は弱肉強食なのだというわけです。
ただし、この考えは簡単に普及せず、一般化するのに200年かかりました。それに寄与したのが経済学であり、マスコミや学校教育です。
資本主義社会は生産を中心にし、生産の中で人間に格差をつけて価値づけていきますから、「最初から人間の能力には格差があるんだ」という人間観が幅を利かせることになってしまった。その結果、利己心が強い意味を持つようになったのです。

そのいい例が私の嫌いな動物番組です。やたらとライオンやワニを取り上げては、「この世界は弱肉強食であり、残酷なのではなく運命だ」といいます。
日夜、狩りをしているイメージのライオンは、実は一週間のうち大半を寝て暮らし、無駄に動物を殺しません。
ワニだって、3ヶ月に一度くらいしか獲物を食べません。たまたま襲っているシーンを流しては、私たち人間自身がライオンでありワニだから、襲われる前に襲うという利己心を肯定する。
こういう人間観はわずか200年前につくられたものです。人間の能力に格差があって、利己心があるというのは、私たちが現在の自身の姿を正当化するために行っていることに過ぎません。
ごく一部のブルジョアにとってはそうでしょう。ですが、一般的に、自由の行使が成立しないのは、資本主義のいう自由とは、自由競争のことだからです。
この世で偉くなるには闘って、勝ち残る必要がある。そのモデルを実行するために自由市場が必要で、それまでの規制を取り払わなければなりませんでした。「農民に生まれた子は農民になるしかない」というモデルを止めて、自分の能力によって自由に競争できるようにする。
だから封建制や身分制をなくし、市場を自由にしました。けれども、実際のところ、富豪の家に生まれた子は良い教育機会を得られる。貧乏な子は学校に行けない。能力があっても最初から差がついているので、現実には自由に競争できていない。封建制の不平等さの改善はされても、新たにつくられた不平等に関心は向けられなかった。
この問題は、自由競争が前提の社会では問題にされません。むしろ、はっきりいえば、自由競争は人間社会では実現できません。

人のものをとるような社会になっていてもそれが見えない。それが搾取ですが、「等価交換されて、すべてがイーブンである」ということになっているから実感できないのでしょう。
たとえば、時給800円のバイトをしていて、8時間働いたら6400円です。そういう契約をしているから、学生は「搾取など存在しない」と思っている。等価交換だから問題などないというわけです。
マルクスに基づけば、800円ではなく、それ以上のたとえば1600円分の労働をしているから企業に利潤が出るのです。しかし、「正当な経済学」では、等価交換ということになっています。
明らかな形での搾取はないけれど、実は搾取が行われているのです。等価交換の形を取っているにもかかわらず利益が生まれるとしたら、利潤はどこから生まれるのでしょうか。安いものを買ってきて高く売るからくりがあります。
労働者が100円のものをつくって、経営者が努力して120円にして売る。120円にしたのは経営者の能力だから、搾取ではないという。
しかし、全員が安いものを買ってきて高く売るようになったらどうなるか。みんながものをつくらないとすれば、このシステムは成り立ちません。
現実的には、誰かが安いものをつくらないといけない仕組みになっています。そうして、安いものはどうやってできているかといえば、常に誰かが損をしていることでできているのです。
人は働いたら、必ずものを買い、それで喜ぶ。結局、人がものをつくるのは、誰かのためです。それ以外にはなくて、互いが理解しあうために行っています。だから、経済はコミュニケーションなのです。
コミュニケーションというのは、本来ものをつくって享受しあうこと。そこで自分だけ何かを独占しようとすると、そのコミュニケーションが疎外される。それが利潤なのです。
マルクスの言った共産主義のポイントは、私たちの経済はコミュニケーションの手段であり、みんなが豊かに過ごせ、楽しんで生きることができるはずだ、ということです。それが本来の人の姿であり、誰かに富を独占されずに生きていける。
つくったものと売れるものが同じになり、過不足なく生きて行き、それをみんなが享受する。それが集団的動物としての人間の姿だということです。
この200年あまり、巨大な生産力をつくり上げることを目標とするあまり、人間は自らを血に飢えた動物のように仕立て、それに向けて駆り立てる社会をつくりあげました。マルクスは、そういう社会をシャッフルして平等にしようとした。

1968年のパリ五月革命や安保闘争、連合赤軍が尾を引いているのではないでしょうか。反体制運動は若者のガス抜きでしかなかったことを証明してしまった。
実際、日本では学生運動に関わった人の多くは、素直に企業に就職していった。また、そのかたわら権力の介入がさまざまに行われ、批判的な言葉を育む土壌が枯れていったせいもあるでしょう。
たとえば、昔の大学では警察が立ち入ることは考えられませんでしたが、いまでは学校で薬物禁止のパンフを配ったりします。学生が大学で集会を行うにも許可がいる。すべて矛盾はないから問題などないはずだという考えが前提にあるのです。批判するのは悪意があるからというわけです。
しかし、法や権力が間違っている場合があるのは、冤罪の例を見るまでもない。ましてあらゆる事柄を自由に批判できる自由が学問にはあるはずです。
今も昔も私のような研究は日陰の部類ですし、研究費もそれほどつきませんね。そもそも学問はお金に結びつきませんし、そのために行うものでもありません。
学問とは、運命として受け止めるようなものであり、それを選ぶのは宿命がやってきたようなものです。学ぶとは、そういうものではないでしょうか。
ユダヤ教の律法学者であるラビの中には3000年間、代々ラビを務める家系があります。その家に生まれた子どもは、12歳になると大人の前で問答をしなくてはいけません。「サパタ(安息日)にしてもいいこと」について問われたとしたら、「16世紀のラビはこういいました。しかしながら2世紀のラビはこう言いました。それらを踏まえて、私はこう思います」といったように答えます。
ここには、受験勉強や学校教育と相容れない何かがあります。学校教育はたかだか近代に始まったに過ぎませんが、一方は3000年の歴史を持っています。こうした宿命としての学問を育んだ土壌の延長にアインシュタインやマルクスがいます。
学問とは、そういうものであっていいし、だから若い人に言えるとしたら、みんなが「受験勉強だけがすべてだ」と思って取り組む必要はないということです。
人それぞれが「そうせざるをえないもの」を見つけることが一番大事なことではないでしょうか。
[文責・尹雄大]

Akihiro Matoba
的場 昭弘
1952年、宮崎市生まれ。神奈川大学経済学部教授。慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。主な著書に『とっさのマルクス』(幻冬舎)、『超訳「資本論」』(祥伝社新書)、『マルクスだったらこう考える』(光文社新書)など多数。
【的場 昭弘さんの本】

『とっさのマルクス―あなたを守る名言集』
(幻冬舎)

『超訳『資本論』』
(祥伝社新書)

『マルクスだったらこう考える』
(光文社新書)