

Miho Cibot
美帆 シボ
早稲田大学西洋史学科卒。1982年にフランス広島・長崎研究所を結成。日本でアニメ「つるにのって」を製作、普及。また、世界平和を希求した巨大な綴れ織り「世界の歌」の日本展示を実現。2000年度、朝日歌壇賞受賞。
美帆 シボ さん(作家・平和活動家)
平和と聞くと、誰もが大事だと思うだろう。しかし、平和活動と聞けば、実生活と離れた夢想的な印象を持たないだろうか。世界では悲惨な出来事は毎日のように起きている。だが、誰にとっても大切なことを考え、その実現に精力を傾ける人がいるから、世界は惨状に覆い尽くされないのかもしれない。
今回はフランスを拠点に、原爆のもたらした実相を伝える活動をされている美帆シボさんに登場いただいた。その活動の経緯や核に対する考えをうかがった。
自分が核兵器の問題や平和活動に従事しているのは不思議です。というのも、私は高校時代、悪夢を見続けたせいで、原爆に関わることを意識的に避けてきたからです。
その夢というのは、こういうものでした。「これから5分後に原爆が投下される」という声が天空から聞こえ、しかも「壁の向こうに子供がいるから助けなさい」という内容です。たった5分で助けられはしないし、おまけにその壁というのが万里の長城みたいにひたすら長い。
迷っていると目の前に木戸が現れて、そこを抜けたら一面の平原があり、裸の男の子と女の子が遊んでいた。そばに自転車があったので、ふたりを乗せて私は走ります。
自転車を漕いでいくと踏切があって、その脇に小屋があり、書類を書かないと通れない。「あぁ、もう5分経ってしまう」と焦っているうち目が覚める。そういう夢を繰り返し見たことで、原爆について考えるのがほとほと嫌になってしまったのです。

ちょうどその頃、ベトナム戦争が激化し、アメリカは核兵器を使うことも辞さないという態度を見せました。しかも日本の基地からアメリカの爆撃機B52が飛び立ち、盛んに北ベトナムを爆撃していたことも影響したのでしょう。
ともかく悪夢を見続けていた頃、「原爆が落ちたら、どうせ私も死ぬのだ」と虚無的になっていたことは確かです。
大学卒業後、1974年にフランスへ行き、フランス人と結婚して子供ができました。1980年のある日、友だちの子供ニコラを預かりました。彼は8歳でしたが、戦争ごっこをしていて、突然「今度は原爆投下だ」と叫びました。その瞬間、長らく忘れていた夢を思い出したのです。
当時、ヨーロッパ大陸は冷戦の真っ最中であり、ソ連は東ヨーロッパ側に、アメリカは西ヨーロッパに中距離弾道ミサイルを配置しました。
戦争が始まったら、5分程度で相手の陣地を壊滅させることができる。けれど、アメリカとソ連は互いに被害がなく、両国を除いたヨーロッパが核戦場になってしまう。そういうことからフランスでもミサイル配置に対する反対運動が盛り上がっていたときでした。そこで「あと5分」という夢がさらにありありと思い返されたのです。
私にはふたりの子供がいましたから、もうそのときは「どうせ死ぬんだ」と思えませんでした。自分ひとりならまだしも、幼い子供がいるわけですから、戦争のない世の中であって欲しいと願うようになっていました。
新婚旅行で夫は「ヒロシマへ行きたい」と言ったので、その理由を尋ねたら、広島の街が一瞬で消えたことは聞いていたけれど、「何が本当に起こったかは知らないからだ」と言いました。
理解の一端として例をあげるなら、当時のフランスには兵役義務があり、夫は1年間の軍隊生活中に、「原爆が落ちたら机の下に隠れろ」と教えられたそうです。[ヒロシマで事実を知りたい]という彼の希望で広島へ行きました。
資料館の中に熱でくっついた茶碗が展示されていました。彼はそこで足を止めて見入った。茶碗は日常で使うものだし、くっつくというのは、尋常ではない、ものすごい熱が加わったわけですね。夫は「茶碗を見ていたら、それを使っていた人たちの声が聞こえてくるようだ」と言いました。
資料館を出たところに、外国人が感想を書ける大きなノートがあり、どんな国の人が書いているのだろうと思って見たら、英語圏とロシア語圏の人が多かった。フランス語を探したら、たったひとつありました。ノートには「誰のせいだ」と書かれていました。
それは「日本が戦争を始めたからこういう結果になったんじゃないか」という意味にとれました。

以前はフランスで原爆について語ろうとすると、「日本はアジアを侵略したじゃないか。だから原爆を落とされても仕方ない」と言う人たちがよくいました。原爆でどういうことが起きたか、聞こうともしない人もいました。
日本の被害だけを訴えるのではなく、なぜ原爆を語るのか説明できないと説得力を持ち得ません。自分の思想を確立しないとやっていけない。
原爆について調べていくうちに、長崎には連合軍側の捕虜や中国、韓国から強制労働で連れて来られた人もいて、彼らも被爆した事実を知りました。日本人だけでなく、いろんな国の人たちが原爆で亡くなっているのですね。
それに加え、広島の喫茶店でお茶を飲もうとしたら、その店のオーナーがお客さんと話しているのが聞こえました。ケロイドについての会話でした。
彼女たちは私に証言しているわけではなく、自分達の日常生活を話しているのを、聞いてしまったのです。
私は原爆のことについて多少知っているつもりでしたが、この人たちとって戦争はいまだに続いていることを実感し、背中に冷や水が流れる思いでした。
もし、原爆が日本人だけの問題で、しかもその場限りで後に影響のないものだったら、私はこのような活動をしたかどうかわかりません。けれど、いまだに地球を何度も破滅させるだけの核兵器があり、いまなお苦しんでいる人がおり、しかも二世三世と被害は続いています。その事実を知ったとき、この問題を伝えなくてはいけないと痛切に感じたのです。
最初に日本で出版された写真集「被爆の記録」をフランスで普及し、また原爆ドキュメンタリー映画のフィルムをポケットマネーで買い、夫と上映運動を始めました。
フランスで原爆の記録映画を見せると、それで終わりにはなりません。その後に議論が始まります。最初、私は聞いていただけだったのですが、その議論の中身を聞くうち、多くの人は爆発力の凄さについては知っていても、放射能の影響については知らないことがわかりました。しかも話題がずれてレバノン問題や戦争一般の問題になっていく反面、核兵器の問題からそれてしまう。そこで私が核兵器の投下後の人体に与える影響などについて説明をしたら、「ぜひ話してほしい」と各地の講演に呼ばれるようになったのです。
そのうち日本から被爆者を招いて証言してもらったり、貴重な資料も手に入れたりすることができるようになりました。そうした中で、長崎でアメリカ人の被爆兵士を助ける運動があることを知ったのです。
アメリカ軍は原爆投下後の長崎に来て、パトロールをしましたが、被爆地を毎日歩いて、具合が悪くなりアメリカへ帰された兵士もおり、癌になって死んでいく人も少なくなかった。
そのうちのひとりがアメリカ政府を相手に訴訟を行おうとしましたが、取り扱ってくれない。そこで長崎の被爆者が彼を助ける運動を起こしました。

ほかにも長崎では、原爆で死んだ捕虜の人たちの記念碑をつくる運動が始められるなど、違った形が現れました。そうした運動を見て、いろいろ工夫をしなくてはいけないと考え、本を出版することにしました。その本に被爆証言をしてくれた方たちが出版の翌年、フランスのテレビに招待され、原爆投下に加わった兵士や科学者との討論会に参加するといった出来事もありました。
フランスの教師たちが、小学生にどうやって原爆を教えていいかわからないということを知りました。
当時、私が講演などで小学生に話していたのは、広島で幼い頃、被爆し、成長してから白血病になった佐々木禎子ちゃんの話でした。彼女は千羽鶴を折りながら白血病を克服しようと努めていましたが、わずか12歳で亡くなりました。禎子ちゃんの死後、原爆で死んだ子どもたちを慰める像をつくろうという運動が始まり、「原爆の子の像」がつくられました。
1980年代のフランスでは日本のアニメが子供をとりこにしていましたが、暴力シーンが多いと、批判されていました。そこで、日本で平和(ピース)アニメを作ろうと思ったのです。原爆の爆発力だけを強調するのではなく、放射能は長く人を苦しめること。禎子ちゃんの死は悲しいけれど、彼女の友達が運動を起こして、原爆の子の像の建立につながったこと。また、そのときにいろんな国から励ましのメッセージが届いた。辛い事実を伝えながら、希望も与えるアニメをつくろうと思ったのです。
なんとかフランス語版と英語版もつくり、2005年にはNHKがラジオ・ドラマ化して24の言語で放送してくれました。さまざまな形で、原爆の実相を伝え、特に若い世代にこの問題について知ってほしい。そういう思いから、いろいろな活動に取り組んできました。

いまでもフランスは核兵器を持っているし、原子力発電への依存度も高い。ただ、昔に比べて進歩があるとするなら、平和という言葉が市民権を持つようになったことです。かつては平和というと、「あなたはコミュニストか」と言われ、主義を持つ人の使う言葉というニュアンスがありましたが、いまはそうではなくなりました。レジスタンスに携わった人の中にも反核運動を支持し、平和運動に関わる人がたくさんいました。それだけ平和という言葉が認知されるようになったと思います。
フランスが核実験を行った際、日本からも抗議が起き、核兵器を自主的に廃棄してほしいといった陳情も行われました。
しかし、それだけでは通用しません。「では、日本はアメリカの核の傘から脱するのか」と返されて終わりです。そう聞かれたらどう答えるか、まで考えないと抗議になりえません。
また、さまざまな戦争被害があって、どれも悲惨だということを認識している被爆者はいますが、「あんなひどい兵器は他にない」と核兵器だけを特別に取り上げて、惨状を語る人もいます。
確かに核兵器はひどい。ですが、核兵器がなくてもアフリカで50万人も内戦で殺されています。たとえ核兵器がなくても、自らの手を汚して、人間が残虐なことをしてしまう状況が戦争です。戦争を体験しなくても、史実を知れば、核を平和の問題として位置づけ、ほかの戦争被害者と連帯していくことができるのではないかと思います。
先日、長崎の平和公園に中国人の原爆被害者の碑が建設されました。そこはもともと刑務所で、思想犯として捕らえられていた人が原爆で亡くなったのです。碑が建ったのは遅いけれど、いろんな状況に置かれた人のことを思いやる人が増えた証ではないでしょうか。
そのような人がもっともっと増えて、それぞれの国の人が「加害者であった自国の歴史」を知ることが必要だと思います。

でも、私も戦争を知らない世代ですよ。まあ、両親の体験談から戦争の疑似体験をしたと言えますし、小学生のときに原爆の詩や映画を教師が教材に使って教育してくれたことは大きい成果だと思います。
ところで、日本の若者に向けた講演では、質疑応答の時間に積極的に手を挙げません。フランスでは1時間では足りないくらい活発です。知らないなら尋ねてみればいいと思いますが、それがない。日本の教育自体に議論がないせいもあるでしょうが、議論を「人を傷付ける」行為と感じて、それを避けている気がします。
でも、ちゃんと考えている人がいないわけじゃなく、誰にも気兼ねなく話をする場がないだけかもしれません。
遠くから自分の国を見ることが良いと思います。日本国内でも沖縄に行って、沖縄の歴史を通して日本を知る。それも遠すぎる場合は、たとえば、日本にあるアメリカ軍基地に行ってみるのはどうでしょう。
今回、日本に向かう飛行機のニュースで、今後、羽田発の飛行機は遅れがなくなると聞きました。というのも、いままでは横田基地の上空には、飛行制限があり、空の狭い通り道のラッシュを避けて、待たなくてはならなかった。しかも、高く飛ばないといけなかったのです。その制限が大幅に解除されたから、遅れもなく、高く飛ばなくてよいので燃料も節約される。まだ制限地域はありますが……。
日本には118くらいアメリカ軍基地があります。そういう自分の国でありながら、知らないことが多すぎる。実際に足を運んでみてはどうかと思います。
報道されない事実はたくさんあります。日本の中の知らない日本を知ってみる。それは見ようとしなければ見られない。まずは現実を知る。それが大事ではないでしょうか。あとは自分でどうするべきか考えることです。答えは与えられるものではなく、自分で探すものですから。
[文責・尹雄大]

Miho Cibot
美帆 シボ
早稲田大学西洋史学科卒。フランス在住。1982年にフランス広島・長崎研究所を結成。日本でアニメ「つるにのって」を製作、普及。また、世界平和を希求した巨大な綴れ織り「世界の歌」の日本展示を実現。2000年度、朝日歌壇賞受賞。著書に『フランスの空に平和のつるが舞うとき』『核実験とフランス人』、歌集『人を恋うロバ』他。
【美帆 シボさんの本】

『フランスの空に平和のつるが舞うとき:私のパシフィスト宣言』
(柏書房)

『核実験とフランス人』
(岩波書店)