

Hajime Ueno
上野 創
1971年東京生まれ。94年早稲田大学政経学部卒業後、朝日新聞社に入社。横浜支局在籍中に、精巣がん(睾丸腫瘍)が発覚し、肺への転移も明らかになる。2度の再発、3度の肺手術の経過を綴った記事が朝日新聞神奈川版に連載され、大きな反響を呼んだ。
上野 創 さん(朝日新聞記者)
今日と同じ明日が来るに違いない。よほどのことがない限り、そう思って私たちは生きている。しかし、生あるものは必ず死ぬ。その当たり前にして、非日常の事実に不意につかまえられる。上野創さんは、26歳でがんにかかり、死の淵をのぞいた。若くして死を見つめたからこそ気付くことのできた生の意味について尋ねた。
現在は半年に一回、国立がんセンターで血液検査と肺の検査を行っています。がんの発症した大元の部分は採ったので、転移した肺で再発がないかどうかをチェックしています。再発から7年経ちましたが、いまのところ問題はありません。

当時、新聞記者をはじめて4年目くらいで、それなりの自信を持ち始めた時期でした。最初、長野支局に配属されたら、松本サリン事件(注1)がいきなり起きて、激しい報道の第一線に放り込まれ、右往左往していました。あの事件では報道の姿勢が問われました。自分は下っ端で何も決める権限はなかったにしても、自社も含めた報道が人を傷つけてしまったのは確かです。権力を批判する側が一般市民をまるで犯人のようにミスリードした。そういう大きな事件でもあったので、記者として最初からハードに育てられた感じがします。
がんが発覚したのは、いまから思うと勘違いですが、「自分はある程度いろんな記事を書けるようになったな」と思い込んでいた頃でした。そういう慢心はありつつ、将来はもっといい記者になりたいという期待も強く持っていた。そんな時期でした。
自分に自分が試されている感じでしょうか。自分というものは、はっきりと「こうだ」と言えるものではありません。
けれど、悩みはあったにせよ、ある程度、仕事は順調にいっていたので、「明日も1ヶ月後も5年後も変わらず自分は記者として働いてるだろう」と思っていました。そういうときに、自分の手に負えない試練が突然やって来たわけですが、「いったいおまえはどれほどのもんなんだ。どんな人間なんだ。こういうときにそれがわかるんだよ」と言われている気がしました。
がんとの闘病は、抗がん剤の副作用との闘いでもあったわけですが、それは常に自分の弱さと向き合う時間でもありました。
はっきりしている目標に対しては、いくつもルートを考え、やれることはやるし、だめなら変えるといったように、とにかく目的遂行に向けて邁進するタイプでした。新聞ですから、特ダネ競争で負けることもあったけれど、いい記事を読者に届けるために明日またがんばろうという感じで、自分はめげることは少ないと思っていました。
最初は戦闘的でした。試されているなら応じてやろう。絶対に乗り越えて、生還してみせるといった高揚感というか鼻息荒いところがありました。
それまで困難は努力して乗り越えるものだと思ってきたからでしょう。報われないこともあったけれど、受験勉強や就職活動、スポーツでは、最大限の努力で結果を出してきました。だから、がんに対しても、そういう調子で乗り切りたいと思っていました。

努力だけではどうにもならないことを痛感しました。特にがんは個人差があって、ある薬を使っても、その副作用の現れは人によって違います。効くかどうかも個人差は大きい。そういう意味では、自分が努力したから、我慢したからどうなるというものではないと、つくづく感じました。
それに自分は思っていたよりも弱い人間だとわかりました。挫けたり、投げ出したくなったりしたのですが、それは認めたくない事実でした。気持ちが落ち込んだり、人を妬んだり、うまくいかなったらどうしようと、悪いことばかりを考えるようになりました。そういう弱い自分、ずるい自分は病気になる前からもちろん居たわけですが、たまたま直視しないで済んできただけで、正面から突き付けられたしまった。
さらに、「これでいい」と思っていた自分は果たして本当によかったのか。いっぱしの記者になった気でいたけれど、実は人や世の中のことを何もわかっていなかったんじゃないか。気付くのが遅いのですが、がんになって初めてそう思いました。
もし、最初の戦闘モードだけだったら、おそらく快復後、ばりばり働き出したでしょうが、手記など書くこともなく終わったかもしれない。
当時、私の病気の場合、最先端の治療において、最善の方策はある程度決まっていました。その結果どうなるかは、たとえば「あなたが10がんばったら結果にこう影響します」というものではありません。受験とは違って、治療はどこか運まかせのところもあります。私の場合、医師の説明を聞けば聞くほど、「しょうがない」とう言葉が増えました。これを乗り越えないと死んでしまうならしょうがない。この治療をしないとしょうがない。そこに選択はありません。
その状況で、よく言えばベストを尽くすしかない。あれこれ選んだり、努力すれば結果が必ずよくなるわけでもなく、また医師の指示に従順になればよくなるわけでもありません。単純な努力と成果の世界ではないのです。
治療がうまくいかないときがあって、そうなると死について考えざるをえませんでした。自分が死ぬってどういうことだろうと考えると、やっぱり「死にたくない」という思いが先立ちます。
でも「死にたくない」を突き詰めていくと、じゃあ60歳で死んだらまあまあで、80歳ならいいのかというと、そういうわけでもない。それに振り返るとこの26年は楽しかったので、若くして死ぬから嫌だというわけでもない。
私の感じた死の恐怖、つらさは、ひとつには、死んでいくプロセスにありました。
死が近付くまでの精神状況を考えました。症状が進んで痛みが出て、あちこち具合が悪くなって歩けなくなり、また尿が出なくなって、水が飲めなくなり、意識が混濁するようになる。そういう詳細なプロセスを想像すると、具体的に死に向かう自分を受け入れ、死ぬまで生きることのつらさをすごく感じました。
もうひとつは、大切な人と別れることのつらさです。闘病を機に結婚を申し込んでくれた人がいたので、結婚はしましたが、ちゃんとした2人の生活はまだしていない。この人と一緒に生きていきたいし、自分の人生をすごく愛していることに気付きました。いい友達に囲まれ、家族に恵まれ、仕事はおもしろいし、趣味のスキーも楽しい。生きる喜びをもっと味わいたい。失いそうになるとその大切さがわかります。自分が大切にしている人やものと離れないといけない。いちばん幸せにしたい人を自分の死で不幸にしてしまう。そのことがつらかった。
ただ、医師の中には、「がんで死にたい」という人がいます。突然命が断ち切られるのではなく、じっくりと最期の時間の過ごし方を選べるからだといいます。

まず、いまの世の中では、自殺がすごく増えていて、大きな問題だと思います。その一方で簡単に自殺がなくなるとも思えません。自殺を試みる人は、自分が死ねば家族や周囲が悲しむと知っています。だから「ごめんなさい」と残して死んでいく。いちがいに心が弱いとか、自分のことしか考えていないと責めるつもりもないのは、私もそうだったからです。追い詰められて出てくる言葉は「許してほしい」「ごめんなさい」です。
私も死ぬことばかり考えていたときがありましたが、思いとどまれたのは、自分の死体を家族や友人が見つけたときのことを想像したからです。周りがあれだけ応援して、支えてくれたのに、私のそういう姿を見たらどう思うか。がんで死んだらしょうがないにしても、自殺という結論を選んだその後に、周囲の人々はどう思い生きていくんだろう。なぜ助けてやれなかったのかとか、精神病棟で落ち着かせればよかったとか、一生悔やむかもしれない。だから、「死ぬならがんでないと駄目だ」と自殺を思いとどまりました。
いま思うと、死ぬことばかり考えていた時期は、異常な精神状態だったと思います。「超大量化学療法」というのを行い、これは3倍くらいの抗がん剤を投与して一気にがんを叩くという治療法ですが、その副作用もあったのか、鬱状態になりました。病室といった閉塞された空間にいたら、精神が崩れていってしまうのもしょうがない。がんだけでなく、精神的に治療が必要な状態だったのだと思います。
そういう経験からすると、もっと精神科、神経科の医師が患者にかかわり、抗うつ剤をうまく使う必要があると思います。本当に落ち込んだら、自力で回復するのは無理です。こんなに落ち込むのは絶対におかしいと思いながら、坂道をくだっていった感じです。
「とりあえず、いま自殺しなくてもいいんじゃないか」と思えるようになったのは、家族のおかげでした。外泊したものの、気分が塞がって、寝転がっていたら、隣の部屋で妻と母と妹がケーキを買ってきて食べていました。「このモンブランおいしい」とか「やっぱりアール・グレイだね」としゃべっている隣で、「どうやって死のうか」と考えている。なんだか妙だなと思ったら、「何も自分から死ぬことはないな」という気分になっていました。
かといって、モンブランとアール・グレイで鬱状態の人みんなが復活するとは思えませんし、私自身あれはひとつのきっかけだったと考えています。
そうではあっても、あんまり視野が狭くなって、病気のことだけを考え、将来おそらく来るであろうひどい痛みだけを考えていると、結局は死ぬことばかり考えることになります。
ちょっと視線を外したり、空の上のほうでも眺めてみれば、「無理をしなくても、どうせ人は死んでしまうんだから、とりあえずいま死ななくてもいいじゃないか」とか「未来に苦しいのなら、未来に死ねばいい」といったようにずらして考えられるようになりました。
正面から「あなたは大切な存在だ」といわれても、わからないときもあります。だから、「とりあえずケーキを食べてから死ねば」くらいのズレ方がいいのかもしれません。

家族や妻がいないとがんばれなかったのは確かですが、友達にもずいぶんと支えられました。友達というのは不思議な存在で、どんなに私のことを心配しても、毎日、普通に仕事をしています。心配だから仕事ができないわけでもありません。ある意味、家族よりはるかに、自分からは遠い存在です。でも、その距離がすごくよかったりします。
家族や友達、同僚、後輩というように、いろんな距離感の人がいて、自分がいるんだなと思いました。自分が苦しいと、つい自分のことだけを考えるなど、ベクトルが内向きになります。それが悪いわけではないにしても、自分は世の中にいろんな人がいる中でのひとりでしかなく、そういう人と支えあっている。
ひとりで死んでいく。だけどひとりでは生きていけない。人間はドーナツの穴みたいなものだという言葉を知っていますか。穴なんて空間ですから、実際には存在しません。周りにドーナツがあってはじめて存在します。
「自分とは○○です」を1万項目並べても、その人は立ち上がってこない。どうやって立ち上がるかというと、周りの人の言葉を集めるとなんとなくわかってくる。人ってそういうものなんだなと思ったとき、友達やかかわってくれる人々が自分の人生をつくってくれているんだとしみじみ感じました。
自分も誰かにとってのドーナツで、生きるとはそうやって誰かとかかわること。たとえ敵対する相手だとしても、ドーナツの一部です。人とつながることでしか生きる意味は見いだせない。恥ずかしながら病気になってそのことを知りました。
いま性教育はけっこう行われていても、死についてなかなか取り上げません。だけど死を突き詰めるのは、生きることについて考えることですから、やったほうがいいと思います。
エデュケーションと聞けば、教師が一方的に子どもに死を教えるイメージですが、教師も死を知らないのだから、答えはわかりません。だからこそ、教師と生徒が共に学ぶ機会になると思うのです。まして、死生観は聖書やコーランを読んでつくっていくものではなく、自分の経験の中から見つけていくものです。
そう思うと、いまの時代、大人こそ学ぶべきものではないでしょうか。死を想うと、幸せのハードルも下がるし、文句も減って、世の中もよくなるんじゃないかと思います。

そういう人には、「本当にそれで幸せなのか?」と聞くでしょう。それは人の不幸に成り立つ幸せでしかない。自分はすごく欲しいものが手に入ったけれど、目の前の人は泣いている。それは本当に幸せなのか。それを聞いていくしかないでしょう。
道徳教育は教科書をつくって教えることではなく、対話と気付きなんじゃないかと思います。頭ごなしに「そういう考えはよくない」と責めるのではなく、人間をいろんな方角から見て、それを伝えていく。
自分の快楽のために人を傷つけてもいいか。ホームレスを襲撃してもいいか。カツアゲしてもいいか。駄目なものは駄目だと頭ごなしに言っても通じないかもしれないけれど、本当に大人が真剣に話せば、子どもの心に何か届くと思います。それは明日からの行動が即座に変わるようなものではないにしても、人の心に残ると思います。
高校時代の初めの頃、自分だけの何かを見つけたいと思いながら悶々としていました。「これがいい」というものを見つけられなかった。結局、春と冬にスキー場でアルバイトしたことがきっかけで、スキーがかけがえのないものになりました。そこで、大学生と一緒に働き、夜は話を聞かせてもらった。学校にはない世界がそこにあった。
大人になることがけっこう楽しいのは、世界の広がりを知ることができるからです。高校時代の人間関係だけで、大人になってもやっていくなら苦しくて仕方ないですが、世の中に出ると「こうあるべき」という考えを崩してくれる人が必ず出てきます。
自分が何をしたいかわからないのは苦しい。それは確かです。でも、それは普通でもあります。高校生で悩みがなくて、ハッピーでいるのは悪いことではないにせよ、遅かれ早かれどこかでぶつかります。人間はそう単純ではなく、人生にはおもしろくないこともあります。でも、その分、喜びも大きい。
良寛さんじゃないですが、悩むときには悩めばいいし、辛いときには辛くなればいいし、死ぬときに死ねばいい。
自分の経験から言えるのは、いろいろ模索し、いっぱい悩むことをおかしいと思わなくていいってことです。いろんなことに手を出してみる。将来、何が役に立つかわからないし、少しでも興味もったらやってみるのがいい。その人の将来にプラスにこそなれ、マイナスにはならないと思います。

(注1)1994年、長野県松本市で猛毒のサリンが散布され、死者7人のほか多数の重軽傷者を出した事件。事件の第一報者であった河野義行氏について、あたかも犯人であるかのように印象付ける報道がなされた報道被害事件の側面もあった。
Hajime Ueno
上野 創
1971年東京生まれ。94年早稲田大学政経学部卒業後、朝日新聞社に入社。長野支局を振り出しに、事件を中心に担当。横浜支局に在籍中に、精巣がん(睾丸腫瘍)が発覚し、肺への転移も明らかになる。2度の再発、3度の肺手術の経過を綴った記事が朝日新聞神奈川版に連載され、反響は1500通を超えた。著書『がんと向き合って』(晶文社、朝日文庫刊)。
【上野 創さんの本】

『がんと向き合って』
(晶文社および朝日文庫)