

Takeo Saijo
西條 剛央
1974年、宮城県仙台市生まれ。1999年、早稲田大学人間科学部人間基礎学科卒業。2004年、早稲田大学人間科学研究科にて博士号取得。現在、日本学術振興会特別研究員(PD)。新しい超メタ理論である構造構成主義の体系化、応用、普及を行っている。
西條 剛央 さん(日本学術振興会特別研究員)
科学の最先端の研究や見解が日々新たに登場し、これまでわからなかったことが判明したとき、世界はよりクリアーになったように思える。
しかし、世界は昨日と変わることはない。ただ僕たちの見方が変わったことに気付かず、自分の考えが正しいと思ったとき、真実の探求はときに誰かの真実の否定につながる。人や世界を捉える科学も正しさの名の下に多くの問題を生んできた。
西條剛央さんは、人間科学における正しさを巡る信念対立を克服すべく「構造構成主義」というあらゆる学問の原理となる理論を体系化した。事物をどのように見ることが重要なのかについて尋ねた。
従来の科学は細かく見ていけば真実にたどりつくといった考えに基づき、対象を細分化し、分析することでその真実を追求していこうとします。ですから扱う対象に応じて学問領域も細分化し、専門化していきます。
20世紀には、そうした科学の限界が明らかになりました。たとえば環境問題は科学が発達したからこそ生まれた問題です。人間が幸福になるための科学も、科学のための科学になり、全体を見る視点を失ってしまった。そこで、細分化された領域を集めることでこうした限界を超えるべく「人間科学」という総合領域が作られました。
しかし、僕が人間科学の内部で見てきたのは、生物学者は社会学や心理学に対して「そんないい加減なものは科学ではない」といい、それに対して「遺伝子だけみても社会や心はわからない」といったようにお互いに批判しあっている姿でした。
また、僕は人間科学部で心理学を学んでいたのですが、大学院に入り学会に行くようになると、心理学会でも同じように、量的研究者と質的研究者が対立していたんです。
量的研究とは、対象を数値化し、統計などを用いる方法で、一方の質的研究とは、そうした方法では捉えられない意味世界などを捉える方法論です。それぞれの領域のトップの立派な研究者たちが、そうした信念対立に陥り「話の合わない連中は放っておこう」といったことになっていたわけです。理性的と思っていた研究者がそのような信念対立に陥っていたのですから、衝撃的でした。
そのためそうした状況に強い違和感を持ちました。量的研究でしか、あるいは質的研究でしかわからないこともあります。それはどちらが絶対的に正しいという問題ではないはずですし、どういう研究がよい研究かは、関心によって変わってくるはずだと思ったんです。

そうした包括的な枠組みは体系化されていませんでした。僕は大学院では発達心理学を専門にしていて、お母さんと子どもの抱っこの研究をしている中で、心理学をするための方法論に関心を持ちました。方法論というのは、料理でいえば、料理法です。それがどういうものかによって同じ対象(材料)を研究(料理)しても結果が変わってくるため、方法論は重要です。
しかし、その頃、人間科学では質的研究と量的研究を包括するような体系的な方法論はなかったのです。方法論に関心を持っているうちに、哲学的な問題を解決しなければいけないということに気がつきました。
たとえば、さっき述べた質的研究と量的研究の信念対立は、そもそも「科学とは何か」といった前提が異なっていることから生じていた部分もあるのです。ですから、そもそも「科学とは何か」を問い直す必要が出てきた。それは科学論と言われる、哲学的な問題です。
そこで質的研究も量的研究も包括する科学論を作れないだろうかと思っていたときに出会ったのが生物学者である池田清彦先生(注1)の著書『構造主義科学論の冒険』(講談社)でした。そこでは、科学についてこう定義していました。「科学は真理を追求するのではなく同一性(構造)を記述する」。
つまり、起きている現象をうまく言葉で説明していく。その追求が科学だと。言われてみれば当たり前の話ですが、従来の科学論にはない画期的なものだったので「これでいける」と思ったんです。科学とはあくまで「同一性の記述」だとすれば、質的研究にしても量的研究にしても現象をうまく説明できる構造を明らかにしていけばよいことになります。この池田清彦先生の本を読んで、科学とは一部の天才や専門家にだけ許されているものではなく、誰でもやっていいことなんだと確信しました。
そのときに、構造主義科学論は、構造を構成していくということですから、構造主義というよりも、構造構成主義という名の方がふさわしいのではないかと思ったのです。これが新しい理論を作る端緒でした。
哲学には、近代ヨーロッパ哲学における最大の難問として「主観・客観問題」と言われる難問がありました。これは、認識(主観)と認識されたもの(客観)のズレに関する問題群なのですが、主観を重視する質的研究と客観を重視する量的研究の関係をどう考えればいいのかといったのと同じ問題が人間科学にもあることに気づいたのです。
それをどう解くのか。その原理的な解明を僕に与えたのが現象学でした。現象学と聞くと難しそうですが、そのエッセンスは自分が正しいと思っていることを一旦括弧に入れて置いておき、そうした確信はなぜ、どのような経験を経て構成されてきたものなんだろうと考える一つの「思考法」なのです。
こうした思考法は、自分の確信を絶対的なものと思いこんでしまって、自分の正しさを安易に他人に押しつけないためには重要になります。これを意識的に使えるようになると、冒頭で述べたような信念対立に安易に陥らずにすむのです。
他にも、あらゆる事象に導入可能なように、ロムバッハの構造存在論、ソシュールの一般記号学といった哲学のエッセンスを組み入れて、「存在とは何か」「コトバとは何か」といった難問にも答えられるものにしています。
あえて構造構成主義を一言でいえば、「信念対立を巧みに回避しつつ、さまざまな理論や方法論を駆使し、科学性を担保することを可能とする原理的な理論」といえると思います。

中学、高校、大学とテニスに打ち込んでいて、ものすごくメンタルなスポーツだなと実感したことが心理学に興味を持つきっかけでした。たとえば,高校のとき最後の大会の団体戦では初戦でいきなり負けてしまったんです。わりと強いチームだったし、僕は部長をやっていたこともあって「みんな厳しい練習をしてきたのに理不尽だな」と思いました。それと同時に「ここまで影響を与える心ってすごいな」と思ったんです。
それで大学のときは、自分なりに編み出したメンタルコントロール法に、大学で学んだ認知行動療法など使えそうなものを加えていって、パフォーマンスを最大化するための独自のセルフコントロール法を作っていきました。当時、早稲田はうまいけれど強くないと言われていたのですが、僕が3年生のとき幹事長になってから、自分なりに作っていた「こうすれば勝てる」という方法論を伝えるようにしました。そしたらみんな勝負強くなって、主要なタイトルはすべて取ることができたんです。
プレイ中に「集中しろ」と人はよく言いますが、どうすれば集中できるかを教えられる人はいませんでした。
あと1ポイント取れば勝てるのに、テニスではそれを意識した途端、引っくり返されることがあります。もともと自分のほうが強いから優位に立っているのですから、そのままやれば勝てる。だからそういうときは「あと1ポイント取ろう」ではなく、「あと10ポイント取ろう」と思えば、次の1ポイントは特別な1ポイントではなく、10ポイントをとる過程の中の1ポイントということになります。一例に過ぎませんが、そういう考え方一つでもだいぶ違ってくるわけです。
よくプラス思考が良いと言われていますが、極限の状況ではプラス思考は役に立ちません。本当に極限の状況では、プラス思考しようと思ってもおもわずマイナスの思考が浮かんできてしまうためです。「ここでポイントを取られたら…」といったネガティブなことを思った途端に体が緊張して、それまでならぎりぎり入っていたボールが入らなくなります。そういう場合には、いかに何も考えないかがポイントです。そのために「過去や未来の余計なことを考えそうになったら頭を振って思考を消す」といったことをしていました。人間は急激に脳が揺れると考えることができないのです。そうやって数々の方法を編み出していきました。
その頃は自分で理論を作っているという自覚はなかったのですが、今から思えば、本に書いてあることや、自分で独自に生み出した技術をまとめて、独自の実践理論を作っていたんですね。
大学3年までは臨床心理学のゼミにいたのですが、4年生からもっと基礎的な発達心理学のゼミに移ったんです。そこで研究しているうちに、さっきも述べたように方法論や認識論、科学論といったより根本的な問題を考えるようになりました。河に喩えれば、下流をいくら綺麗にしようとしても、上流に汚染源があったら根本的な解決にはならない。だから上流の根源的なところから問題を解消しようと思ったわけです。
でも今から思うと大学のテニスでもそうだったように、独自の理論を作るという意味では同じことをやっていたように思います。
誰でも「なぜこういうことが起こるのだろう?」「どうすればうまくいくのだろう?」と問いを立てることはありますよね。その問いに対する答えに出会ったときには、ストンと頭に入る。勉強は「強いて勉める」わけですが、学問は「問いを立てて学ぶ」ことです。そうした学問は愉しい。だから勉強嫌いの僕も学者になれたんだと思います。
人間は、意識してやっているかどうかは別にしても、自分の考え方の軸となる考え方、理論や方法論を作りながら生きている。だから、どんどん自分に役立つ理論を作っていいんです。
ただ、一度作ったものに固執するのではなくて、良い考えはどんどん取り入れて、うまくいかないなと思ったらその都度修正していく。そうやってバージョンアップしていくこと自体に楽しさを見出せば、柔軟に成長していけると思います。

構造構成主義では、「ルールも人間が作ったものだから絶対的に正しいものではない」と考えるのですが、最近のマスコミは、内実を問わずに、とにかくルールに抵触した人は徹底的に叩く傾向が強い。もちろん他人を傷つけたり、本当に悪いことをしている人は罰せられるべきですが、内実をよくみれば誰も傷つけたわけではなく、むしろルールの方がおかしいときもあるわけですから、何でもかんでもルールや社会的常識に反したから叩けばよいというものではない。
マスコミは「いじめはいけない」といいながら、叩いて良いとなったら相手が病気になっても自殺しても徹底的に叩き続ける。子ども達は、そうした大人達の姿を毎日テレビでみています。それでいじめはなくなるでしょうか。
そうすると、「だからマスコミがすべての元凶だ」とか考えがちですが、これでは「諸悪の根源は誰かを探すゲーム」をしているという意味ではマスコミと同じレベルになってしまいます。「あいつが悪い」というのは簡単です。けれど、現実はそう単純ではありませんから、そういうナイーブな世界の見方のほうを疑ったほうがいい。
たとえば、マスコミはなぜそういう報道をするのだろうか。マスコミは視聴者の欲望を反映しているわけですから、実は僕たちの欲望が今のマスコミのような「怪物」を育てているのではないだろうか。だとしたら僕らの欲望のあり方から変えていかなければいけないんじゃないか。そんな風に問いを深めていくことは、正義の名のもとで無闇に他人を傷つけないためには大切になります。
多数派が正しいという根拠はないのです。戦時中に「戦争反対」といった人は少数派だったため、「非国民」と言われて国民全体から叩かれた。今はそれと同じ様な状況になっているように思います。極端な話「状況によっては戦争行為もやむを得ない」と言う人を「非国民」といって有無を言わさず糾弾するようになったなら、それは戦時中に「戦争反対」と言った人を糾弾した人と「やっていることは同じ」ということを自覚する必要がある。
現実的な状況が変われば多数派と少数派は簡単にひっくり返ります。ですから、戦争を起こさないためには、少数派の人も意見を言えるような雰囲気をいかに保つかが本質的に重要なことなのだと思います。
テレビはマジョリティ(多数派)の意見を反映するので、みんなが何を考えているかを知る上では役立ちますが、逆にいうと、マジョリティ側からしか物事を見られなくなります。自分の頭で考えているつもりでも、多数派の意見と同じ考えにしかならない。
その点、本は多数派の意見だけじゃなくて、少数派の意見のものも出ていますから、ときに目から鱗が落ちるような本に出会えることがあります。たとえば、今は環境ブームで「エコ」とか流行っていますが、ペットボトルは回収しているだけで、ほとんどリサイクルはしていないし、リサイクルすると余計エネルギーがかかって環境に悪い。ではなぜ続いているかといえば、税金が一部の人に流れ込んでいるという利権の構造ができあがっているためです。「環境」という錦の御旗のもとでそうした暴挙がまかり通っている。たとえば、こういうことが『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)といった本には書いてあるわけですね。
「客観的で中立的な報道」を謳っているNHKがこういう意見はほとんどとりあげないことからも、テレビだけみていたら「マジョリティに偏った情報」しか得られないことがよくわかると思います。少なくとも今テレビで報道されている見解と違った考えがある、ということを知るのは大事なことです。
もちろん本の内容を鵜呑みにするのも違います。僕は高校の一時期心酔していた本があったのですが、母が「この本ちょっとくどいわね」と言ったことがあったんです。ほんの何気ない一言なのですが響くものがありました。
それまではなんとなく「本は偉い人が書くものだから、本には正しいことが書いてある」と思いこんでいたんです。でも、その母の言葉を聞いて、本も僕たちと同じ人間が書いたものだから、正しいことも間違っていることも書いてあるという当たり前のことが分かった気がしました。
それからは本を読んでも鵜呑みにするのではなく「ここはもっともだけど、この辺はちょっとおかしいな」とか「ここは役立つけど、ここは今の自分にはあわないな」といったように批判的に吟味しながら読むようになりました。
構造構成主義では、テレビでも本でも「情報」は客観的なものではありえなくて、人間が関心に応じて作ったものだと考えます。ですから、特定の情報を鵜呑みにせずに,いろいろな観点から吟味しながら、腑に落ちるところと,そうじゃないところを意識的に捉えていく。そうしたことを心がければ,多数派と少数派のどちらに回収されることもなく,自分なりの考え方が持てるようになると思います。そうすると多数派が信じている「正義」が実は間違っているかもしれないと気づけるかもしれない。

どちらかが正しいということもあるわけですが、一概にどちらが正しいといえないこともあります。たとえば、「二度あることは三度ある」「三度目の正直」という諺は完全に反対のことを言っています。「昔の人は良いことをいう」なんて言いますが、じゃあこの矛盾をどう考えるのか。
構造構成主義では、こうした矛盾を「関心相関性」という概念から読み解くことができます。つまり「正しさは関心や置かれている状況によって変わる」という視点で見るとすっきりするのです。
たとえば、試合で2戦2勝している人は自分に「二度あることは三度ある」と言い聞かせるでしょうけど、対戦相手は「三度目の正直」だと思うことでしょう。自分にとって力を与えてくれる言葉を正しいと思うわけで、どちらの言葉が正しいかは状況や立場で変わってくることもある。
だから人は矛盾した「格言」や「諺」をいくつも持っているんです。そういう言葉を増やしていくと、自分の状況に応じて柔軟に対応できるようになると思います。
構造構成主義において「どのように見ていくか」には二つの意味があります。一つは、「世界がそのように見えている自分自身を見る」ということです。誰でも何かを正しいとか、間違っているとか思うことがありますが、実は「正しさ」といった価値は対象や相手にある属性(モノ)ではなくて、自分が“見出している”意味(コト)なんです。だから、自分の関心や目的に応じて、見ている対象が違うものとして見えてくることがある。
だからこそ、相手を正しいとか、間違っているとか思っている自分自身を見つめる必要がある。そうすることによって、絶対的な正義とか悪とか決めつけずに、本当の意味で相手を「見る」ことができるのです。
それから人間は何かに没頭すると周りが見えなくなるため、ときには「そもそも何のためにやっているのか」を振り返ることも重要です。たとえば基本的にはよく生きるための手段として勉強したり、働いたりしているのに、受験に落ちたから死んでしまったり、過労死したりすることもある。お金も大事ですが、お金のために死んだら元も子もないわけです。そうした本末転倒に陥らないためにも、ときどき我が身を振り返ってみる。
それから、何のために?を大きく考えて欲しいですね。それを「高き志を持つ」といってもいいでしょう。そうしないと、つい成功した隣人の足をひっぱってしまったりしてしまう。志を持てば、それぞれ果たすべき役割があるんだと思えます。それに志を高く持っていると、一見無駄なことのように見える出来事にも意味を見出すことができます。
「どのように見ていくか」の二つめのポイントは「状況や関心に応じて世界を見るための視点を意識的に選択して見る」ということです。ある視点では行き止まりにしか見えなくても、違う視点でみたら先に続く道が見えることもあります。
そうした「視点」は「無形量の眼鏡」みたいなものですから、頭の中にインストールしておけばいつでも意識的に立ち上げることができます。質の高い視点を増やしていけば、それがしなやかさにつながります。純粋さをなくすことが成長ではなく、純粋さを残しながらも、しなやかさを身につけて生きていく。それが上手に大人になることだと僕は思います。

(注1)
構造主義生物学(構造主義科学論)を唱える生物学者。バックナンバーを参照。
http://122.200.201.84/interview/archives/no123.html
Takeo Saijo
西條 剛央
1974年、宮城県仙台市生まれ。1999年、早稲田大学人間科学部人間基礎学科卒業。2004年、早稲田大学人間科学研究科にて博士号取得。2002年〜2004年、日本学術振興会特別研究員(DC)。お茶の水女子大学大学院、立教大学、東洋大学、首都大学東京、東京福祉大学などの非常勤講師を歴任。2007年現在、日本学術振興会特別研究員(PD)。養育者と子どもの「抱っこ」研究と並行して、新しい超メタ理論である構造構成主義の体系化、応用、普及を行っている。主な著書に『構造構成主義とは何か』『ライブ講義・質的研究とは何か』『現代思想のレボリューションー構造構成主義研究1』『構造構成主義の展開 21世紀の思想のあり方(現代のエスプリ)』『母子間の抱きの人間科学的研究』『構造構成的発達研究法の理論と実践』『エマージェンス人間科学』『科学の剣 哲学の魔法』などがある。
「西條剛央のブログ:構造構成主義」
http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/
【西條 剛央さんの本】

『構造構成主義とは何か : 次世代人間科学の原理』
(北大路書房)

『ライブ講義・質的研究とは何か』
(新曜社)