羽立 昌代 さん(東京ウォッチテクニカム校長)
300年以上に渡り洗練されてきたスイス時計の技術と哲学の伝承を目的とし、2003年に開校した「東京ウォッチテクニカム」。 その骨頂は、技術を覚えるだけでは良しとしない厳格な教育方針と自由な思考の奨励にあるだろう。校長の羽立昌代さんは、とりわけ理論と哲学を重んじる。その信念の意味するところは何だろうか。
確かに時計というと、今ではスイスを思い浮かべますが、もともとはイギリスやフランスで発展しました。
その背景には、船の技術の向上があり、またそれに伴うヨーロッパにおけるスペインとイギリスを中心とした海外進出も関係しています。安全に航行するには、正確に時を刻む時計、マリンクロノメーター(注1)が必要で、それが発達を後押ししました。
なぜスイスで時計づくりが盛んになったかというと、ヨーロッパの宗教革命が原因です。これによってスイスにプロテスタント(キリスト教の一派)であるユグノー派が迫害を避け、スイスに逃れたのですが、その中に手織りや時計づくりといった手工芸者が多くいました(注2)。彼らが現在のスイス時計の始祖にあたります。

学生に接している印象で言えば、日本の学校で若者たちは、「どのようにするか」を教えられても、あまり「なぜ?」ということを問われなかったのではないかと思います。つまり、自分で考えて、自分で決めるという経験が少ないように思われてなりません。しかし、ここでは常に「なぜあなたはそうするのか? なぜそう思うのか?」が問われます。
一般的な専門学校のイメージは、「入学さえすれば資格を与えてくれる」というものですが、ここではそうではありません。教師たちは手取り足取り教えてくれません。ポイントは伝えても、基本的なスタンスは「自分で物事を解決する」です。そうでないと時計技術者とはいえません。
特別なカリキュラムはありません。やらなくてはいけない課題は決まっていても、時間割は決まっていないことからもわかると思いますが、それは個人の理解が基準です。そのために中間試験もありますが、あくまで学んできたことが身に付いているかどうかの確認です。教えられたことを修得しているかどうかは本人の問題です。「どういうふうにものを考えたらいいか」は学生の考えることです。
こういう教育はヨーロッパでは当たり前ですが、日本では珍しいようで、面食らう学生もいます。

まずヨーロッパ、特にスイスでは時計技術者の社会的地位は大変高いものがあります。時計づくりには、3世紀以上にわたる歴史があり、最初は手探りから次第に科学の発達にともない、物理学や数学、天文学が関わってくることで、現在の時計の形になっていきました。
そういう経緯があることから、スイス本国では、時計技術者は「たんなる手先が器用で、感覚だけで仕事ができる」位置づけにはありません。
時計には哲学が必要です、それはどういうことかと言えば、例えば、クロノグラフと呼ばれるストップウォッチ機能がついた腕時計は平均すると直径3~4センチの中に約360ピースの部品が詰まっています。すべて人間の叡智が集結され、理論的に組み立てられた機械です。一個一個の部品は、その動作と作用によって素材の硬度が異なります。それを考え出したのが人間です。
中には、例えれば髪の毛ほどの太さの部品もあり、それらを組み立てていく行程は、緻密な世界でありますが、それを見る視点は、宇宙的視野が必要です。そうでないと見るべきものは見えません。
つまり全体を見ながら細かい作業をしないと見えません。「視野を広く、宇宙から見ないと、あなたが抱えている問題は解決しませんよ」というわけです。しかも広い視野と同時に0.01ミリへの注意がないといけません。両方あわせて時計技術者になれる。つまりバランスのいい人間である必要があります。これがわからないと時計技術者になれないのです。
たかだか職人じゃないかと思っている人は多い。けれど、決して簡単な道ではなく、覚悟がないとできません。
覚悟とは何かと言えば、実際に独立して、プロの時計技術者として仕事を始めたとします。たとえば、時計の機械の中には隙間がありますが、それを詰めるのか空けるのか。また、どれくらい部品の先端を削るのか。0.1ミリでも失敗したら時計は誤作動を起こします。
それらを決断するのは、ほかでもない自分です。選択は「右か左か」だけでなく、ありとあらゆることが考えられます。しかも、修理を要する部分だけを見ればいいわけではなく、それに関連する部品がある以上、総体的に見た上で、「さあ、これだ。いくぞ」という決断をしなくてはいけない。そういう決断の連続です。
そこで必要な「決断できる」とはどういうことかと言うと、「確固たるもの」を持っているということ。つまり、自己確立ができているかどうか。あるいは、自分に心棒が通っているかどうか。
決断には、ものすごい覚悟がいります。幸い失敗したらやり直せるため、命に関わることではないにしても、時計技術者は医者のような存在です。だからこそ勉強をたくさんしないといけないし、場数も踏まないといけない。
追求して物事を考える時計技術者がスイスにはたくさんいて、時計産業を支えています。それがスイスの時計産業の実態であり、哲学です。

学生達は様々な情報を身に付けています。マスコミの影響で見栄えのいい情報も知っています。でも、真実を見据える力と覚悟が足りないように思います。たとえば「アトリエを構えて自分の時計をつくりあげる夢」を持っている学生は多い。しかし、そういう逸材は、スイス本国でも100人にひとりいるかどうかです。相当の努力とセンスと運がないとなれません。夢を抱くのはいいことですが、「それに自分がなれる」と考えるのは、短絡的です。
人の見ていないところで泥水を飲まないとプロになれません。プロになるのは自分の力であって、誰かに仕立ててもらうわけにはいきません。夢の実現の大変さが情報の氾濫ゆえに覆い隠されています。
器用だと覚えが早いのは確かです。ところが器用貧乏というように、器用であるからこそ自分の努力を怠るのです。人の半分の時間で覚えてしまうので、努力も「まあ、しなくていいや」と思えてしまう。
しかし、技術というものは、そんなに甘くない。壁がいくつもあって、小手先でやってきた人はぶつかるようになっています。そこで考え方を変え「何か自分は間違えていたんじゃないか」「ここはもっと踏んばろう」「もっと理論的に考えないといけないんじゃないか」と、気が付いた人は乗り越えることができます。だから器用であればいいというわけではありません。不器用な人のほうが大成することもあります。

そうです。手先の器用さで時計のすべてがわかるものではありません。全体と部分を見る必要がありますが、ヨーロッパの伝統技能の秀でている人は、だいたい両方の眼を持っています。
私は幸い、様々な分野の技能者と接すること機会を持てたのですが、優秀な技術者は人間的なバランスがよいものです。頑固一徹で、自分のこだわり以外は認めないという人は、やはり大成することなく途中で終わってしまっています。
才能がある時計技術者のものの見方は広い視野を持ち、知識が豊富でした。
どの業界の人も秀でている人は、自分の専門分野だけでなく、様々なことに興味を持って勉強しています。それだけに「ものを考える」ことについて影響をどれだけ与えられるか。いまの私の仕事は、即刻結論が明らかになるものではなく、100年後に出ればいいほうだと思っています。
ヨーロッパの技術に対する考えが培われたと思います。
「すべてのものに理論がある」ということです。それが彼らの教育です。調理も調理理論があり、食材の成分を学び、温度による化学変化を学びといったように理論を知った上で料理を学んでいきます。おいしい料理には、裏付けがあることを学ぶのです。
時計もそうです。授業は精密な作業を行うため工具を調整するにあたって必要な木片から始まります。そこには平面を出す作業がありますが、そこで「平面とはどういうものか」と問われます。平面を実現するためには、どういうふうに体を動かせばいいか。そのためにどういう工具が必要で、その工具は、どうなっていないといけないか。そもそもその工具はどうつくられているのか。それらをきっちり理解し、体で覚える。それで初めて次の段階に進めるというわけです。
私の場合、それを教えてくれたのは本でした。読んで、それに対する考察を文章上で理論的に展開させる訓練。これはすごく大事だと思います。
学生に論文を書かせることが多いのですが、書けない人が多いですね。「時計技術者として、自分はどうなりたいか」といったテーマで書かせるのですが、まったく書けない学生もいます。
恐らく、これまでの学校教育の中で、「自分を追い込んで考える」経験がなかったのではないでしょうか。また周囲も突き詰めて考えるよう要求しなかったのではないでしょうか。
幸か不幸か、この学校に入ってしまったからには、意識して「あなたは誰?何者?」と問い続けます。そうやって、これまでの自分を剥がしていくうちに芯が出てくる子もいます。
普通に読めばよく書けているけれど、改めて「なぜそう考えたの?」と掘り下げると答えられず、行き詰まってしまう状態です。一見、きれいに文章を書いてきます。つまり受験で覚えた論文の書き方はあっても、自分がない。日本の若者の特徴は、問いに対して「知っていること」を書くので、答えは正確なところです。
しかし、論点がないから筋が通っていない。質問に対する答えにいたる行程のつじつまが合わない。そういう場合、スイスから来た採点官は0点をつけます。どれだけ最終的な答えが合っていても論理の展開がなければ0。そういう訓練をします。
たとえば、サービス業から時計の仕事を始めようとした際、日本で師匠について習い始めました。「ドライバーはこう持つ」と教えられるわけですが、普通だったら、「ああ、そうか」と思って取り組むのでしょうが、「なぜこうでないといけない?」「なぜドライバーはこう研がないといけない?」と次から次へと「なぜ?」が浮かび、先生に聞くわけです。ある程度までは答えていただけましたが、そのうち「そうだから」と言われてしまうようになりました。「そうだから」と言われることへの不満がたまってきました。
そこで思い出したのは、フランスで料理をリサーチしているとき、それなりの人に問えば、必ず答えが返ってきたことです。なのに、日本では返ってこない。そこで本場に行こうと考えました。

現場の組み立て工場に、初日から入れられました。そこのチーフにとにかく「これはどういう意味か」と食らい付いて尋ねていました。「私はこう思うがどうなのだ」と議論をふっかけてもいました。実はそれは試験だったのです。どれくらい食い付いてくるかを試すもので、4日目に「合格」と言われ、それから4か月向こうで基礎からトレーニングを受けて、実際の修理工房で体験もしました。
ダメでしょうね。まず、見てもわかりません。それで「これとこれを組み立てて」とは言われます。「はい」と言って、格闘しているだけで終わったら、不合格になったでしょう。「どうしてなんだ?」「なぜこうしないといけないのか?」と、あらゆる行程、作業について質問しました。でも、誰も嫌な顔をしませんでした。
私がこういう考えになったのは、帰国子女だったせいもあります。スイスでの学校教育は、とにかく意見を言うことが基本です。疑問に思うことは言わないと、理解したとみなされます。小学校1年から留年制度があるので、理解できなかったら留年です。
知識を貯めるのではなく、わかるための努力が必要だから、意見を言うのです。それが当たり前の教育を受けてきたので、日本に帰ってびっくりしました。
また、議論が日常にあった家庭環境だっただけに、いっそう驚きは大きかったと思います。「なぜそう思うのか」「人が納得するように説明しないといけない」「もっと地球全体を見なさい」とよく言われましたから、時計の部品を尋ねることは、恥ずかしいことでも何でもありませんでしたね。
日本を知る上で、非常に大切な時期でした。外国で育っただけに、「日本人として生きる」ことについて敏感になったと思います。日本の善いところ悪いところを冷静に分析していました。
自分の将来を考えたとき、それは「日本人として生きるとはどういうことだろう」とつながっていました。それは人間として形づくられていくときに、ヨーロッパにいたので、外見は日本人でありながら、中身は半分外国人であったため、「日本で生活していくとはどういうことだろう」と根本的に考えざるをえなかったせいでしょう。
10代の若者にどうしたらよいのかを尋ねられたら、「自分を知ることに努力して欲しい」と言いたいです。情報が氾濫し過ぎて、あたかもやった気分になれます。疑似体験で「自分はたぶんこれができるだろう」と、本来の自分が見えないまま、そう思ってしまえる。
己を知らなければ、何もできません。知るには、本でも映画でも、芝居でも何でもいい。そういうことを通じて、「自分は何者で、何が得意で、何が好きか。どういうふうに物事を考え、見ているのか」。
もっと深く自分を探求して欲しいと思います。

(注1)
15世紀に大航海時代が始まり、16~17世紀にかけて、スペイン、オランダ、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は版図拡大と植民地獲得の競争を展開した。当時は海上を制することが国力増強に重要な意味をなしたが、洋上にいて緯度は計測できるものの、経度を測定することができなかった。安全な航海が最大の課題となっており、16世紀には海上の経度測定法の確立が国家レベルのプロジェクトとなっていた。
その頃は、地球の大きさも実像もまだ知られていなかった。地球は丸く、経度が360度であること、地球はほぼ24時間で1回転すること、つまり、1時間は経度15度に値することは分かっていた。そこで、母港の正確な時刻を海上で分かるような時計があれば、経度が計測できると考えられていた。揺れに強く、気候や温度変化、湿度にも強い時計、「マリンクロノメーター」の開発には多額の懸賞金がかけられていた。
(注2)
ルターによるキリスト教改革運動はヨーロッパ各地に波及した。フランス語圏での宗教改革の中心人物であったのは、カルバンであり、フランスではカルバン派の新教徒を「ユグノー」と呼んだ。カトリック教会とユグノーの対立は、内乱に発展。これはフランス国王が1598年、新教徒の信仰の自由を認めるナントの勅令を発布したことにより終結したが、多くのユグノーは宗教的迫害を恐れ国外へ避難した。ユグノーの多くは絹織物、染色技術、印刷術、そして時計製造術を身に付けた手工業者であった。彼らの多くが逃げ込んだのはスイス・ジュネーブであったことから、後のスイスにおける時計産業の隆盛につながったという。
Masayo Hadate
羽立 昌代
自ら技術者として時計の本場スイスメーカーで修行を積んだ経験を経て、2003年4月に開校した時計技術者育成スクール「東京ウォッチテクニカム」で校長を務める。日本ロレックス株式会社が時計業界に人材を還元する目的で運営している。
東京ウォッチテクニカム
http://www.tokyowatchtechnicum.jp/