

Toru Honda
本田 透
1969年兵庫県生まれ。高校を二度中退後、早稲田大学第一文学部哲学科入学。出版社勤務を経て、ライトノベル作家になる。主な著書に『喪男の哲学史』(講談社)、『電波男』(三才ブックス)、『萌える男』(ちくま新書)など。
本田 透 さん(作家)
人から承認されたい、モテたいと思ったとしよう。しかし、そのモテの要素とは、容姿やセンス、経済力だったりするが、実は既にある世の中の価値で量られたものでしかないのではないか? 人を好きになる行為が商品化されている。それを本田さんは「恋愛資本主義」と呼ぶが、その実態はどういうものだろうか。
昔は、お金と恋愛とはむしろ対立するものだったのですが、僕が大学生になった頃、ちょうど日本はバブル経済といわれるような、ものすごく景気のいい時代にさしかかりました。わかりやすくいえば、バブリー青田さんみたいに扇子を持って踊っているような人がたくさんいたわけです。
雑誌やドラマも「大学生は自動車を持っていないと女の子と付き合えない」とか「スキー場に連れていって、ホテルも取らないとモテない」といったことを煽り、そんな考えが当たり前になっていて、お金がないと恋愛できないという風潮ができあがっていました。そうやって80年代後半に恋愛が資本主義社会における商品と化していったのです。

恋愛が商品化されたということは、商品価値のない人間は恋愛できないということです。そして、恋愛できない人間は救われない、と言われる。
恋愛至上主義というのは、現代における宗教みたいなものです。
僕は高校を中退して、大検予備校に通っていました。そこに来ていた人はヤンキー系かオタク系。キャラクター的には両極端でしたが、みんないまの学校についていけないドロップアウト組でしたから、精神的にかなり不安定なわけです。
学歴社会のコースから外れたことが不安というか、十代で社会的に孤立してしまっているという実存主義的な状態なわけです。そこで恋愛みたいなことをして他者と繋がれば、自分の苦しさは救われるんじゃないかと思ってしまう。愛されないと価値がないという思いで切羽詰まっている人は多かったですね。
だからすぐに生き死にといった大袈裟な問題になってしまう。尾崎豊的な世界というか、コミュニケーションが下手なので、自分を保って人と付き合うことができなくて、人から承認されることばかり求めてしまうわけです。
大検予備校は大学を目指すのが目的の場所なのに、そうやって多くの仲間が人間関係でバタバタと倒れていきました。
僕はそういう状況を見ていたので「恋愛にこだわり過ぎるのもよくないから、そういうことは大学に入ってからにしよう」と。ところがいざ上京して大学に入ってみたらバブル真っ盛りで、お金がないと恋愛ができないということになっていた。お金なんて学費に使ってまったくありませんでしたよ。まあ、僕の場合は仮にお金があってもダメだったでしょうが。
つまり恋愛は70年代以後、大きな物語が崩壊した現代における宗教システムになっていった。そしてそれが産業と一体化したのがバブル時代だったのだと思います。
恋愛イコール現代資本主義ですから、資本主義的に「勝ち組」にカテゴライズされるパラメーターはすべてそのまま恋愛においてもステータスですよね。経済力とか、学歴とか。それと、なんといっても容姿ですよね。人間も生物ですから、これは当たり前といえば当たり前です。で、どちらもイマイチな人は、性格とか趣味といったコミュニケーションスキルを磨くということになる。そして80年代以後、これらの恋愛ゲームのルールを決めていったのは、広告代理店やマスメディアなんですね。「ホットドッグプレス」みたいな恋愛マニュアル雑誌が大量に売られたり、トレンディドラマやホイチョイ映画が大々的に流されていた。それらのコンテンツが、恋愛ゲームという「現実」を作ったのです。

まあ異性にモテないという意味だけでなく、お金を持てないとか、そういう意味もあるんですが。つまり喪というのは「欠乏」ですね。欠乏した状態の人間が、その欠乏感をなんとかするためにはからずも努力してあれこれ妄想してしまう。そこから哲学なりなんなりといった文化が生まれ、発展していくのではないかという説です。異性なりお金なりにモテる人はたいてい現状を是とするわけですから、実存的な問題にとことん悩んだりすることはあまりない。
大学で哲学科を選んだのは、第一志望では全然なくて、実はそこしか入れなかったんです! ただ、高校を中退後、ニーチェやキルケゴールをはじめ哲学書はたくさん読みました。
僕はずっと学校という世界に不適応でした。いまでいう学習障害児に近かったので、常に不安定でした。授業を聴いていられないし、給食も食べられない。でも、テストでは満点とったりするから、教師にも同級生にもいじめられる。家庭でも不適応ですから、身の置き所が本当にありませんでした。
人間関係自体がうまくいかないし、女の子にモテない。キモがられる。そういうのが積み重なって、高校にはいられなくなって不登校になってしまった。モテの方向に行こうと思っても、鏡を見ればそれは無理だし、とりあえず自分の世界観を作り直さないと生きていけないなと思いました。それで何もかも疑うというデカルトみたいな人間になってしまった。「えらそうに現実なんて言っているけど、現象界なんてものは、しょせんは人間の意識に表象される観念の世界にすぎず…」なんて言いだしたらその人はもう立派な哲学者ですよ。
しばらくひきこもって、ずっとアニメを見てました。状況的には自殺してもおかしくなかったんですが、「最終回を見るまでは死ねないな」と。お金もないし、外にもいけない。ただペンと紙だけはあるから、倫理の教科書を元ネタに、哲学に関する概説のようなものを書いたりしてました。
イデアとか二次元の概念は、いわば哲学者にとってのハーレムアニメなのだ、とか。
哲学者たちが打ち立てた思想も、やはり個人の欲望や願望に結び付けられるのではないかと気づいたのです。フロイトが好きだったので。人間の考えていることだから、やはりまず自分の人生に不満があって、それでいろいろ考えるんだろうなと。
哲学者は生涯独身とかモテない人がやたら多い。ふられて野垂れ死にに近い最期を迎える人も多いのは、偶然じゃない。
現代は、恋愛にお金を使い続ける消費活動が人生のベースになってしまっています。熟年恋愛とか生涯恋愛とかまで言われて。結婚して子どもがいても、まだ恋愛せよ!という。こういう社会だと、愛されなかったり、人間関係をつくれないと自分には価値がないと思い込まされてしまいます。
しかし資本主義社会ですから、みんながみんな恋愛勝ち組になれるはずがない。ですからいまはニーチェやキルケゴールのように実存的な悩みを抱えている人たちが、大衆レベルで増えているんだと思います。
現代人はもうキリスト教によって精神の安定を得たり、かつてのように国家と自分を同一視して高揚するような、そうした大きい物語によっては救われません。自分で自分を救わないといけない。そうなると恋愛関係や家族など、小さい人間関係に安定を求めることになりますが、そこで救われないと自我が保てない。自分に価値がないと思ってしまう。
そこで一方ではヘーゲル的な大きな物語を復興させようという動きが、そしてもう一方ではそういう大きな物語はもう復興できないと考える人々から実存の問題がせり上がってきます。
実存哲学の先駆者ニーチェはルー・サロメという女性にふられて、「ツァラトゥストラかく語りき」を書きました。あれはいわば「永遠にモテなくても、それでも俺は生きていく」という内容です。19世紀にですよ。新しすぎたので理解されず、第4部はたった40冊しか刷られなかった。いまでいう同人誌で、認められようとは思っていません。いやニーチェ本人は思ってたかもしれないけど。ところがそれから100年、資本主義社会をそういうニーチェ思想が席巻しつつある。

でも、注目されても辛いだけですよ。ずっと見られることを意識するわけですから。さりげなく生きるほうがいいですよ。
人との関係で自分のすべてが決まるというのが、いまの世の中なのかもしれない。でも、本当はそうじゃない。自分が「これがいい」と思えば、それでいいはずです。
ニーチェの提示した「超人」という概念も、あとでナチスに取り入れられて違ったイメージを持つようになりましたが、もともとは権力を持つことを指したわけじゃありません。「何があっても気にせずに、俺の人生はこれでいいと本気で思える」。つまり自立する人を意味した。近代的自我の確立というか、精神の自給自足ですね。
人の目や顔色をうかがっても、実はいいことはない。どこまで行っても終わりがない。異性で言えば、秦の始皇帝なんて阿房宮に数千人の美女を集めたりしたけど、ちっとも救われてない。ずっと死に怯えてるわけです。資本主義という思想は、幸福という目的を「無限の生産・無限の消費・無限の拡張」という作業行程そのものにすり替えてしまっている思想だと思います。しかし本当は、幸福というのは脳の状態ですよ。
とはいえ、「脳の状態ですよ」という言葉でなんとかなるようなものではない。ひとりで生きるためには、確固とした何かが必要です。
そのためには、月並みながら、とりあえずは本当にやりたいことをやろうとするしかないんじゃないでしょうか。

机に座って仕事ができないから、とにかくサラリーマン以外の仕事につくしかなかった。子供の頃は漫画家になりたいと思いましたが、どうも絵が電波っぽいというかキモいんで断念しました。かわいい女の子を描きたいのに、ぜんぜん描けなかった。絵にはメンタル面が漏れてしまうのかもしれませんが、なんというかガロ系になっちゃう。それで以後は、文章に転向です。
大学卒業後は出版社に勤めましたが、案の定適応できなくて、すぐ辞めて、その後は、ニートとかフリーターです。
かまぼこ工場で働いていたときなんて、親方に「そこの機械、うっかりすると指が飛ぶから気をつけて」と言われたんですが、そう言う親方自身、指が足りてない。「キーボードを打てなくなったら終わりなんで」と土下座してやめさせてもらったり。
まあそんな感じで大変だったんですが、インターネットやオタク趣味のおかげでなんとか食べていけるようになりました。いま思えば、脱オタしなくてよかったなと思います。
大学では、あんまり身になることはしてませんでした。むしろ、高校に行かずにひきこもって、本当にひとりぼっちだったときに、貯金を貯め込んだ気がします。あの頃はひたすら本を読み、思うところを書きました。そのときは、もう自分には先がないと思っていましたが、いま思うと、ひきこもった経験がよかったのかもしれない。ハードな脳トレを積んでいたというか。そのときは全然そんなふうに思えませんでしたが。
人間なんて、何が先につながるかわかりません。だから追いつめられたら、とりあえず死なないで逃げるということをお勧めします。
好きなことをとりあえずやればいい。自分の好きなことを突き詰めれば、何とかなるから、趣味に劣等感を持つ必要はないと思います。僕も当時は「アニメなんか見てていいのかな」と思っていましたが、そのおかげで生きてこれたわけですからね。

現代ではマルクス主義が衰退して、極端な格差社会に戻りつつあります。どうすればいいのだろうとは思いますが、とりあえず資本主義に無理して乗っかることばかりに努力を向けなくても、生きる方法はあります。
ただ、寝てては食えない。最低限生活費の問題さえなんとかすれば、自分の内面に楽しみを見い出す生活ができると思います。
モテるとは肩書きやお金を持っていることで、それによって自分を支えることだとすれば、資本主義は人々の「モテへの意志」で成り立っています。
しかしそのルールで勝ち負けを競っても、ほとんどの人が負ける仕組みになっています。だから自己充足の生き方もアリじゃないでしょうか。
とにかくいま辛い目にあっている高校生がいたら、「生きている間は死にはしない」と。学校に行かなくてもこの世の終わりではない。生き延びれば、そのうち状況が変わる。生き延びるということを第一のルールに据えれば、一時的に不登校になろうがニートになろうが、実は負けではない。学校に行くのがイヤで自殺しちゃったり学校で暴れて犯罪者になっちゃうよりはぜんぜん良いんです。
世界の中心は、学校ではないし、ましてお金や恋愛に置く必要もない。だから好きなことに没頭したらいいと思います。
