

Hiroshi Deguchi
出口 汪
1955年東京生まれ。関西学院大学日本文学研究科博士課程修了。現在は東進衛星予備校講師、大学受験予備校S.P.S主宰、出版社水王舎社長。受験現代文に「論理」を導入し、客観性と正確な妥当性をもたらした「出口の現代文」は、受験生から絶大な信頼を得ている。
出口 汪 さん(予備校講師)
学力を劇的に向上させる装置「論理エンジン」は、いまや全国の私立高校の10%が導入するなど、注目を浴びています。
出口汪さんは、予備校の教壇に立つ中で現代文の論理性に気づき、「論理エンジン」を開発したといいます。
そのいきさつ、また論理とは何か?についてうかがいました。
われわれがコミュニケーションを行う上で必要なのは論理です。相手と正確に意志の疎通を行うためには、筋道の通った会話が必要です。この物事の筋道を論理だと考えています。
論理と聞くと「感情の機微を排した冷たいもの」と思う人もいますが、そうではありません。
まず論理には2種類あります。ひとつは数学などで使われる人工言語。僕の言っている論理は自然言語で、人工言語ではありません。
自然言語の論理はむしろ相手を理解し、自分をわかってもらうための言語ですから、温かいものです。どれほど親しくても、互いは別の人間ですから、完全にわかり合うことはできません。だからこそ人は筋道を立てて話す必要があります。

認識、思考は「自分が理解する」ことを指します。ひるがえって論理はコミュニケーションツールです。「自分の理解したこと」を相手に説明する上で必要な手段です。この「相手の説明を理解する」ことが、教育に限らず、いまの社会の中で非常に欠けているところだと思っています。
たとえば受験問題でも、出題された文章を読むのは、相手のメッセージを理解し、説明して答えるためです。コミュニケーションを返していく行為です。だから相手が理解できるように応答する必要があります。それはまさに論理の働きであって、認識ではありません。
こうしたコミュニケーションは受験に限らず、あらゆる場で必要とされます。論理力を鍛えれば、当然勉強や仕事もスムーズにいくのではないかと思っています。
他者意識が低いと論理力は伸びません。おもしろいことに英語や古文だと文法や構文などを念頭に置いて、「書かれた意味」を読みとろうとします。ところが現代文になると、たいていは自分勝手に読んで、筆者の筋道を無視してしまい、読解をセンスや感覚に転嫁してしまう。
これは現代文といった受験に限った話ではありません。相手の言っていることを理解するには、好き勝手に読み取るのではなく、論理を追わないとメッセージを把握できません。相手の言わんとすることを理解すれば、筋道を立てて説明することができます。そのやり取りがコミュニケーションです。
自分の理解していないことを人に説明できませんし、まして答案で文章化できません。だから論理が必要なわけです。つまり僕はごく当たり前のことを言っているにすぎません。

論理とは正反対と思われていましたね。だから、「現代文は論理だ」と言ったとき、周囲から理解されませんでした。それどころかペテン師扱いされました。いまは変わってきましたが、最初は本当に孤軍奮闘でした。
いきなり生まれたわけではありません。予備校の講師として現代文を教える以上、生徒の成績を向上させなくてはいけないという具体的な課題があります。その課題を達成するために、ある問題を解決するとその奥にまた問題が見えてきて、その繰り返しの中で次第に全体像が見えてきたという感じです。
現代文の問題は、筋道を把握することだと気づいたとき、論理に着目し、教えるようになりました。そうしていくうちに、もし現代文が論理ならば、あらゆる科目は論理によって成立しているから、共通点はあるだろうと考えました。
実際、僕の講義を受けるなり、本を読んだ子どもの成績は、国語以上に数学や英語で向上するケースが多いのです。
論理と言語について関心を持ち続ける中で、もしかしたら論理力とは、コンピュータにおけるOSではないかと思うようになりました。
暑いという言葉があります。暑いとは、皮膚や神経が感じ取るものです。犬や猫は言語を持たなくても人と同じように暑さを感じます。しかし、言葉がないとそれを「暑い」と認識できません。言葉で認識できない状態を混沌と呼んでいいいでしょう。
言葉にできないから、それが無いわけではありません。有る無いは、人間と離れています。たとえば、机を認識するときに「つくえ」という言葉がないと、それは認識できません。しかし、人間がいてもいなくても、それは有ります。
暑いも寒いも眠いも、そういったものが存在するのではなく、言語によって認識し、整理することで、感覚や思考が生まれます。その認識、整理する力がOSではないかと思います。
だから言語処理能力を高めないとソフトが動かないように、それにふさわしいOSでないといくら勉強しても意味がないのではないかと気づいたのです。
誰でもシスティマティックに訓練できて、そのことで感性を高め、論理力を鍛えることができるはずだ。そう考え、出版社を立ち上げ、周囲の協力を得る中で作成し始めたのが「論理エンジン」です。
いまは塾や学校を中心にした「教育を変えていくためのツール」として考えていますが、今後は社会人にも向けたトレーニングの方法を展開しようと思っています。

危機感を強烈に持っています。政治家やテレビに出ている人の話し方を見てもそれはわかります。小泉元首相はワンフレーズの感情語を話しはしても、完全に論理を喪失していました。それは意図的だったかもしれません。
しかし、それにいとも簡単に迎合するマスコミや世論を見ると、論理を持ってない様子がよくわかります。
感情語は赤ん坊や動物の鳴き声と変わりません。感情語は、うまれつき持っている言葉で訓練の必要がなく、もともと肉体にこもっている言葉です。
赤ん坊はなぜ泣くかといえば、誰かが何とかしてくれると思うからです。誰も何にもしなければ、むずがるしかない。感情語とは、そういった泣き声が言語に変わるだけで、それもときどきの流行に従います。他者意識も必要ないので誰でも話せます。「むかつく・好きだ・嫌いだ・眠い」の表明には、何の訓練もいりません。
それしかしゃべれないとしたら、赤ん坊がむずがるのと一緒です。周囲がその人に対し、何もしなかったらキレるほかありません。
互いを理解しようというベクトルがないから、互いの不満を言うことに終始し、それでも何となく共鳴すれば安心は得られます。理解しようという意識がないから、互いに愛撫しあうだけで満足できます。これは若い子のことを言っているのではなく、大人もやはり論理力を失っていると思います。
そうした状態で生きていくこともできますが、言語という視点から見ると犬や猫と同じで人間の人生ではありません。まして教育や学問という場では使えない言語です。

いきなり論理力を身につけるのは無理で、一定の期間のトレーニングが必要です。他者を意識して、自分の言葉の使い方を意識してみる。自分はどのようなしゃべり方をしているか。また、相手の話の筋道を把握していく中で、「あなたの言いたいことは、こういうことですか」と論理の飛躍を補ったりする。そうすれば言葉の使い方は変わるでしょうね。
他者への意識が少ないどころか、人から自分がどう思われているかというベクトルそのものがありませんでした。学校の先生や同級生からは「あいつは宇宙人だ」と言われていました。最初から周囲はすべて他者で、自分は誰もわからないし、誰も自分をわからない。人間社会の中に一匹の猿が舞い込んだくらい、本能のまま生きてきたと思います。当時は、自分が変わったことをしている意識はなく、振り返ってそう思います。
たとえば、僕が育ったのは京都で冬はとても寒いのです。僕は本当にものをよくなくしていたのですが、その筆頭が傘と手袋でした。特に手袋は脱いだらもうおしまい。ところが冬に学校へ行くとき、手袋がないと手がかじかむわけです。そのときの僕は「どうしたらいいか」と考えた末、ごく自然に「足は靴に保護されているから外気にあたっていない。靴下を脱いで手袋にしたらんいいんじゃないか」と思いつき、それを実行しました。それも2時間目くらいに遅刻して、その格好で登校するわけです。すべてがその調子だったので、まわりは唖然としていたらしいです。でも、そうした周囲の反応にも僕は気づけなかった。何か大きなものが欠けていたんでしょうね。
そこまで変だと、周りは遠くから眺めているだけです。それを孤独とも感じませんでした。それどころか学校中の変わり者が尊敬してくれて、そうなるとますます普通の人は近寄ってこないんですね。職員室では毎日僕の話題が出たそうですよ。
小説家になることしか頭にありませんでした。自分は天才だと思っていました。典型的な文学青年ですね。本気でご飯が食べられなくてもかまわない。自分の作品を書こうと思っていました。でも、どんなに一所懸命書いても誰も理解してくれない。今から思えば、ひとりよがりな内容だったのでしょう。
大学院まで進みましたが、予備校の講師を仕事にすることを決め、そうなると小説どころじゃなくて、その後10年は生きるために必死で受験の世界に入っていきました。

何かに夢中になって欲しいですね。いますぐ「役に立つ・立たない」という発想は好きではありません。無駄と思ったことも将来役に立つこともあります。先のことはわからないけれど、青春時代に夢中で取り組んだことで役立たないものはひとつもないと思います。計算して「これが将来的に役立つ」と思っても、それはただ勉強しただけで終わるでしょう。
先頃、僕はようやく『水月』という小説を書きあげました。30年前に考えた小説です。その頃、モヤモヤした思いがあって書いたけれど、理解されませんでした。文学や予備校、論理は、それぞれまったく関係ないものと思われがちだけれど、小説家になろうと思いながら正反対の論理を教えてきて、30年遠回りはしたものの、あのころモヤモヤしていたことがようやく書けました。学生時代に妄想として考えていたことや小説家になろうと思っても違う職業についたことも、どれも無駄になっていません。だから「これをやれば将来、役立つ」と考える発想は、あまりお勧めできません。可能性は自分にも人にもわからないものだと思います。
そこは微妙です。僕は王仁三郎が嫌いなわけではなく、心のどこかで慕っていました。しかし、宗教的な雰囲気が嫌でたまりませんでした。というのは、幼い頃、僕は祖父母の家で育てられてましたが、周りは信者ばかりなので、それこそ皇太子みたいな扱われ方でした。たかだか小学生が「○○様」と呼ばれるわけです。
そういうことが嫌で、浪人を機に家を出て、10年近く帰りませんでした。僕は宗教的なものを売りにするつもりもなかったし、むしろ論理というまったく正反対のものを自力で切り開いてきました。そういう意味で影響はあったかもしれません。
ただ、50歳を過ぎて、王仁三郎の書いたものを読み始めると、正直にすごいなと思えるようになりました。若い頃読んだらきっと「先祖の書いたものはすごいから、俺もすごい」と変なエリート意識を持ったかもしれません。
ある出版社から「スピリチュアル関係の本が売れているけれど、安易だったり、変な考えを持つ人もきっと増えるだろう。だからこそ、しっかりした内容の本が必要だ」と出版を依頼されました。
いま僕なりにスピリチュアルとは何かを考え、改めて王仁三郎にいい意味で真正面から挑んでみようと思ってます。

(注)
神道系新宗教で、1892年出口なおが創始、出口王仁三郎が教理を体系化した。1935年、天皇制を否定するとみなされ、王仁三郎は不敬罪と治安維持法違反容疑で逮捕。翌年、治安維持法に基づく解散命令によって解散。教団施設は全て破壊された。1946年愛善苑の名で再建。1952年、教団名を「大本」として現在に至る。
Hiroshi Deguchi
出口 汪
1955年東京生まれ。関西学院大学日本文学研究科博士課程修了。現在は東進衛星予備校講師、大学受験予備校S.P.S主宰、出版社水王舎社長。受験現代文に「論理」を導入し、客観性と正確な妥当性をもたらした「出口の現代文」は、受験生から絶大な信頼を得ている。
「現代文実況中継」「システム現代文」シリーズなど、書き下ろす受験参考書はどれもベストセラー、『「論理エンジン」が学力を劇的に伸ばす』など著書多数。また初の小説『水月』で作家デビュー。