

Seiichi Watabe
渡部 誠一
1935年生まれ。会津高等学校卒業後、木彫家・増子泰氏をはじめとした作家に師事。1969年、第1回個展開催。評論家 寺田千墾氏より、「伝統工芸の洗礼された技術を有ちながら、なほ、芸術性と彫刻の迫力を具えたユニークな作家が日本に誕生した」と評される。
渡部 誠一 さん(木彫彩漆工芸職人)
渡部誠一さんの彫った作品は不思議だ。たとえば木の葉の茶さじだ。ただ普通の木の葉に見えて、一見すると存在感がないように感じる。表現とは、いかに人に訴え、新奇さを表すかと思われている中で異様だ。渡部さんは言う。「さあ見て下さいなんていうのは邪魔です」。渡部さんの思う美について尋ねました。
生涯の仕事を選ばねばならない時がきたとき、若者は大いに悩みますが、私がこの道を選んだのは、実は第三希望だったのです。第一も第二も不可能になってしまったからです。その話をする前にまず両親の話をしなくてはなりません。
私の母は会津藩の武士の出でした。会津藩には、子どもが身につけなければならない指針「童子訓」「婦女子訓」がありました。訓辞の締めくくりは「ならぬことはならぬ」というもので大変に厳しいものです。母はそれを叩き込まれ育ちました。
いまでは武士道とは「葉隠」の「死ぬことと見つけたり」というようなものとして理解しがちですが、武士道とは権力を持った者が身につけねばならない絶対の倫理観です。権力を持てば持つほど、他人の幸せを考える人間にならねばならないからです。だから町人を無礼討ちなどとんでもない。あれは小説家がおもしろおかしく書いただけで、実際は刀の下げ緒(刀を帯に巻くための紐)をほどいただけで始末書を書かされていたほどです。サムライは威張るものではありませんでした。ちなみに町の政治、経済は町人の自治に任せられていて、武士が取り仕切っていたのではありません。
そういう教えを受けてきた母は、また熱心な仏教徒でした。何かというと「仏様だけは本当のことを見て下さる」と言っていました。
母は蒔絵師で職人を15人ほど抱えていました。日本国の使節が外国へ行くときに持参する土産の器などは、母が描いていました。高松宮様が御成婚で新婚旅行をかねた外国訪問旅行の際の船、秩父丸の船室内の装飾、女人舞踊図三枚を命じられたのも母でした。
高校生のみなさんは知らないかもしれませんが、職人さんの中には、色々な人生を歩んできた人がおりました。一匹狼のヤクザや大好きな仕事を捨てねばならなくなった相撲の呼び出しさん。尾羽打ち枯らし家族を食べさせてゆけなくなった日本画の画伯さんなどです。何しろ65年も前の日本のことです。
一方の父はと言えば、「あなたのお父さんはよろず相談引き受け所という看板を掲げたらどうか」と言われたくらいのお人好しで、公的機関ではどうにもならないような問題を抱えた人や民生委員も見放したような人々のために「あんたを助けないとあんたの子どもたちが不幸になるから」と言って力を尽くしていた人でした。
当時、日本は戦争をしていました。第二次世界大戦中の開戦半年後、日本がミッドウェーで大敗すると敗戦への道をたどることになり、物資がなくなっていきました。私には6歳下の弟がいましたが大腸カタルにかかりました。横浜中の病院をまわり、場末の施療院でブドウ糖を注射してもらって何とか助かりました。それからはブドウ糖の注射液アンプルを大量に入手して、発作が出るたびに母はそれを打って、弟は生き延びたのです。
「戦前の日本はよかった」。「道徳的に立派だった」などと言う人がいますが、本当にそうでしょうか。いざという時にこそ皆で助け合うことをせず、簡単に壊れてしまう道徳などは偽物です。
高校生のみなさんには、本当のことを知って欲しい。なぜなら私は若者を大切にしたいからです。でも、いまどきの若者は大嫌いです。大嫌いな若者にしたのは、われわれの年代の大人がしたんです。人々がよく若者を批判しますが、誰がこんな世の中を喜んで受け取りますか? 物事の価値を、損得のモノサシでしか計らない社会。人はひとりひとり大切な人生をもって生まれてきたのだから。だから私は本当のことを率直にお話したいのです。
敗戦の色が濃くなってくると私どもは食べ物すら十分にとれなくなりました。そうなるとたとえば薬屋は病人に薬を売ってくれなくなりました。けれど夜になると裏口から物々交換を行って、暴利をむさぼっていました。本当の道徳があったら、困っているときは助けあうものでしょう。戦争は悲惨なものです。その人の本性がむき出しに現れるのです。
やがて横浜も爆撃が次第に激しくなり、連日、家を焼かれた人々が逃げ落ち延びていき、母はそれらの人々の中に乳飲み子が背負った若い母親を見つけると「気を強く持って、このこのためにがんばるんだよ」と声をかけ、弟のためのブドウ糖注射を打ってやっていました。
戦争が激しくなり、私は小学校3年のとき会津の親族のもとに疎開させられました。負けるのがわかっていたから次世代を残すための国の措置です。疎開する前、私は母にこう言われました。「貧乏な人はよい医者にかかれない。おまえは医学部に行って、貧乏な人のために尽くす人になって欲しい」。私はその道を目指すことを約束し、列車に乗り込みました。戦後になってからもそのつもりで勉強しました。
ところが大学の受験票まで手に入れたのに、高校卒業間近になった時、大学進学を諦めねばならない事態が生じました。ある男の命を救うために、父は破産以上の目にあってしまったからです。当時の社会状況は、高校の先生でも給料だけでは生活できないほど、日本は貧乏でした。それから2カ月考えて、思い付いたのが美術の道でした。美術は好きでしたし、この際、やりたいことをやろう。誰がなんと言おうと自分の道をまっとうしよう。時流や人の世がどうであろうといま自分が選んだ道を全うしようと思いました。この道に入った以上、本当の美を生涯かけて捜すんだとかたく思いました。
そこでまず浮き彫りを得意とする先生に弟子入りしました。とにかく短期間で覚えたいから、一日一種類を教えて欲しいと先生にお願いしました。聾唖の先生で筆談でしたが、初日は笹竹、孟宗竹の笹と幹を教えて下さり、それを覚えました。次の日は梅でした。花の全開、側面、裏面、若枝などというふうに次々と覚え、ついに45日目が翁面でした。面を彫って先生にお出ししたら、先生はノミで机をトントンと叩いて「口もとが足りない」と指摘されました。翁面をお爺さんとして彫ってしまっていた。あれは神なんですね。彫り直したら「よい」と言って下さって翁面が終了となりましたが。そうしたら先生は「私が知っているのはこの45種類だけです。もうあなたに教えることがありませんから卒業です。これからはあなた一人でやっていきなさい」と言われ、この先生の下を去りました。
それからは毎日スケッチブックを持っての独学の日々です。今日は西に行こうと決めたら、会津若松市の西に向かう街道を西に向かい、その間に見た兎や山羊、草、木でも何でもスケッチし、それを帰宅してから板に彫る。そうしたら植物を知りたくなって図書館に通いました。母の用意してくれた握り飯と水筒、スケッチブックを肩から提げた私は農村地域のよろず屋の縁側に腰掛けつつ道路工夫さんたちと並んでブドウ割り焼酒などを飲んでいました。

目標はこの道に入った時から変わらぬ「本当の美」を見つけることです。それにはまず第一段階として、何でも彫れる技術を100%獲得したい。そう思い、その努力をしました。
独立してからは会津桐の一木から鷺草を彫り出してみました。この頃には、技術としては何でも彫れるようになっていました。何でも彫れる技術を身に付けた時、あることに気付きました。それは私がしゃにむに描いて、考えてきた対象についてです。私は今遂に鷺草という草を一木から掘り出したが、雑草と言われるもの一つとっても、薄くて幅の少しある葉というものが何枚か取り巻き、その中央に細い茎があり、その頂上に白い花がついています。しかも、その花は5つの小片が中心からきれいに外に向かって並んでいて、色は白、葉と茎は緑。人間が無の中に置かれ「何でもできる能力をあげるから何か造ってごらん」と言われた時、こんなすごいものが考え出せるだろうか。雑草すら美の極致ではないか。空の朝焼けからやがて青になり、夕暗色になる。この地上のあらゆるものが、赤と黒のドロドロに混じった色であっても不思議ではないのに。いや、色そのものを人間が考え出せるだろうか。色だけではなく、距離や温度、位置、体積そして、命、愛。何もかもが人間風情の想像を絶するもので我々の世界は充満しています。こんなすごい宝物で満ちている。人の言う「汚い色」すら色です。人は自分たちで創り得ない、想像すらできない貴重品をいい加減に使ってはならないし、いい加減な気持ちで対してはならないと思います。人はもっと謙虚にこの貴重品を使わなければ失礼だと思いました。

まったくそうではなりません。私は二か月の煩悶の末、決心した美術の道を生涯の仕事とした時の「本当の美を見つけよう」は今も変わりません。そのために私は3人の先生に習いましたが、3人目の先生は日本一の偽作家でした。具体的な技術指導は受けていませんが、私はこの先生に一種の尊敬の年を抱いています。明治の石川光明、高村光雲から平安時代の仏像まで彫ってしまう人でした。名前が世に出ることはなく、生涯陰を歩んだ人でした。しかし、実際には弟子たちに造らせても平気で己の作のサインをする作家たちがのし歩いている世の中です。とにかく偽作者は本物以上の技術がなくては仕事師にはなれません。ある時は本物以上に本物らしく造らなくてはいけないのです。
その先生に習った後は独学です。技術的には何でも彫れるようになって、鷺草を彫り上げた時、大いなる不足を感じました。それは修練で得た技術で、どんなに本物そっくりに彫り上げても、鷺草は水を吸い上げることはなく、萎れることもなく、ただの死んだ木材によるコピーです。そっくりというだけで生きていないのです。
技術的には何でも彫れるようになってからの私の課題は、作品は「生きていなければいけない」でした。それで「石」を主題に彫ってみました。無生物の石でも生き生きとした体積に彫れないと嘘だと思ったのです。次に貝殻に挑戦してみました。
それから竹を彫りました。竹は生えているときも、切って死んだ後も形は同じです。死んだ木材を使って彫るのに、死んでいても生きていても同じ形態をしているものは、「そっくりそのまま」彫っても生死の区別はできないはずです。
だから竹を生き生きとして彫れたらこれが達せられると思い、挑戦したら自分では「彫れた」と思いました。客観的には「こんな竹があるか」というような形態です。そうすることで初めて死んだ木材を使って生命が彫れたと思っています。
次は筍に挑戦しました。孟宗竹は一晩で30センチ伸びると言われています。この生命感が彫り上げられたらと思い、黒松を使って彫りました。筍がガッとなった姿になった。自分としては明日になれば30センチ伸びる筍になったと思ったんですが、自分が思っているだけでは困るので、やっぱり誰かに聞く必要がありました。だから第1回目の個展に出したら、ハワイ大学の東洋美術研究者が、その筍を指差して「生きてます」と言ってくれたので、できるようになったんだと思いました。

抽象的に言いますと、「きれいを超える」ことです。きれいで止まっていますと形骸化した美しさでも「きれい」になります。きれいを超えなければ、生きている美は彫れないと思いました。つまり美そのものが生き生きとしたもの、生きている美を彫るための独学を行ってきました。ここで若い方に申し上げておかねばならないのは、独学についてです。独学とは己一人の力で全てを学ぶということではありません。私たちの先人たちが何千年もの長きに渡り、積み上げてきた努力をまず知る必要があります。一人一人がその人生を生きた跡を頭による知識だけでなく、自分の身をもって感覚でわかって欲しい。知識だけでは、本当のことは何もわかることができないのです。
そうしたら「本当のもの」には、相反するものが同在していることを知りました。たとえば本当の「静か」は、その内に激動を秘めていなければ、本当の静かにはならないことがわかってきました。だから作品もそのように思って造っています。「きれいを越える」ことは、自分ではできたと思います。では、最近は何をしているかというと、たとえば真っ直ぐという言葉がありますね。直線ではありません。真っ直ぐのものが彫りたくなって茶勺を彫りましたら、どうしても曲がりました。

テーブルのような直線はつくられた直線です。木は放っておくと曲がります。無理に削って直線にしてあるのです。私は本当の真直(まっすぐ)をつくりたかったので、そこで茶杓を思い浮かべました。
台風の通過した翌日、家の庭に欅の枝が落ちていました。その枝を手に取って見ていたら、曲がって凸凹した枝に真っ直ぐの線が突き抜けているのを感じ、これを茶杓にしようと思いました。茶杓を彫ったところ、客観的には曲がっていても、目に見えない真っ直ぐが、果てしなく突き抜けているんです。手に持つと曲がっていることは皮膚に感じますが、その感じている中に真っ直ぐを感じる。「できた」と思いました。
目は便利ですが、単に目に頼っては見誤ります。頭に詰め込んだ知識というものが素直に見ることを邪魔するからだと思います。人は脳だけでなく身体中で考えていると思います。私が身体全体と言うのも、それは肉体というだけではなくて、生きて来た人生でもって見なくては、ものの本体、本当のことは見えない、ということです。
特に作品を見るには、知識だけで見ても見えないでしょう。その人が生きてきた人生でもって見るのが一番いいでしょう。最近は名利、名声や利益獲得に役立つ力を能力と言うようになりましたが、ひどいことです。果てしない人の欲望と便利さの追求に合ったものが商品価値のあるものとされます。そういう市場主義は人間の善い能力を殺し、人を不幸にしていきます。秋風に枯れた落ち葉がカサカサと鳴る音を素敵だと耳を傾けるのも人間のすばらしい能力じゃありませんか。初夏の苗代の上を、風は吹くのではなく、渡って行くのです。風の渡る様に心打たれるのも人の持つ素敵な能力です。名利につながらない能力を認めず、損得のモノサシでしか計れないなんて寂しいことです。
一つしかものがないなら分け合えばいい。自然の規矩を超えた欲望や便利さは、不幸という代償を支払ってまで獲得せねばならない宝物なのでしょうか。
私は「殺らなきゃ殺られて、つぶされてしまう」なんていう経済と捨てるほどの食糧に恵まれなくてもよいから、人の持つあらゆる能力が能力と認められるのんびりとした社会をこそ望みます。
人を蹴散らして生きるのがいいのなら、倒されたほうはどうなるのでしょう。雨漏りを直す人の仕事が遅くて雨が降ってきたら困りますが、でも、その時は家の中で傘をさして、晴れるのを待ちましょうよ。個々をみんな認めたらいい。そう思って私は生きています。つまりそれらが全部作品につながっているというわけです。私は今年で71歳です。でも、本当は71歳ではないのです。生まれて物心ついて、今に至るまでずっと途切れることなく続いてきた、ただ一つの人生が今に至っているだけなのですから。その時、その時を懸命に生きてきた一つの人生です。
この道に入ったとき、「これを懸命に一生行ったら本当の美が見える」と思いました。ところが技術を手に入れ、きれいを超え、形骸した美ではなく、生きている美を彫るところまで来たとき、一生やれば本当の美がいつか見えるというのは間違っていたことに気が付きました。それは努力して生きて近付けば近付くほど、自分の目は遠くまで見えるようになるからです。以前は見えなかったことも見えてくるので、さらに遠くまで見えるからです。本当の美を見るには一生ではなく二生か三生が必要だと思います。いまは生きている間にやれることをやるしかないと思っています。

Seiichi Watabe
渡部誠一
1935年生まれ。会津高等学校卒業後、木彫家・増子泰氏をはじめとした作家に師事。1969年、第1回個展開催。評論家 寺田千墾氏より、「伝統工芸の洗礼された技術を有ちながら、なほ、芸術性と彫刻の迫力を具えたユニークな作家が日本に誕生した」と評される。1987年第2回個展開催。東洋美術研究家 リン・ツァン氏(ハワイ大学)より、日本文化を紹介するペガサス・プレス発行マガジン誌上に「日本の伝統を重んじつつも、何派にも属さず独自の道を歩んできた彼の作品は、他に類例がなく、或るものは強く激しく又あるものは静かに優しく、その格調の高さと深さは私共に"芸術"を提供してくれている」と評される。