森山 開次 さん(ダンサー)
ダンスのソロ公演だけでなく、映画やテレビ出演などで話題を集めている森山開次さん。意外なことに「ダンスは特別なことではなく、赤ん坊の動きに優るものはないのでは?」と言います。感じたことを身体で表すことは、誰しも行っていても、素直にそれを表現できているとは限りません。自分をありのまま表現するにはどうしたらいいのか?森山さんに尋ねました。
兄が器械体操を始めたのをきっかけに僕も体操を習い始めました。技ができるようになったり、柔軟さが増して来ることに喜びを感じていました。そういう意味では身体を鍛えることにいつも向かい合っていました。兄は体操を続けていましたが、僕はいろんなことがやりたくて、サッカーや音楽などもやった上で、いまに至っています。

学生時代はすごく内面的で、どちらかと言えば暗いタイプでした。絵を描いたりすることが好きで、そうなると人との交流を遮断してしまうくらい自分の内側に入り込んでいました。でも、一方で人とかかわり合いたい欲求もあって、それを破れない自分がいる。もどかしさを感じていました。「これは自分の性格だから仕方ない」と思って諦めていた頃、気晴らしに兄に誘われてミュージカルを観たのです。舞台上で楽しそうに踊っている人たちを見てショックを受けました。踊る姿を観た時、自分はこれがやりたいんだ!と思ったんです。
人前で歌ったり踊ったりすることは恥ずかしい。けれど、心の奥底ではそうしたい自分が確実にいる。したいけれどできない。客席に座って、自分の殻を破れないでいる自分。何の目標もない自分に恥ずかしさを感じました。けれど、自分には何か表現したい思いがあるんだとわかったので、気づいたらミュージカル劇団のオーディションを受けていました。
確かに遅いのですが、ずっと小さい頃からダンスをしてこなくてよかったと今は思います。というのも、僕は器械体操やサッカー、バレーボールなどを経て、ダンスに出会ったので、身体を使うことに対する考えが柔軟になったと思うからです。「ダンスはこうでないといけない」という考えがそれほどありません。
今までやってきたことを思い返すと、器械体操で技を決めて着地した瞬間までの独特の間が、実はダンスの「静の間」に通じると思うことがあります。またバレーボールで回転レシーブをするときの感覚、サッカーだったらフィールド内でボールが動くにつれて人も動きますが、そうした空間を把握する感覚は舞台で相手がどこにいれば、自分がきれいに見えるかなどを把握するのに活きています。
クラブで踊った経験もなく、踊りは幼稚園の盆踊り以来でした。しかも盆踊りの輪に加わりはしても、最初の手のひと振りすらできない子どもでした。
ダンスでは、手や胸を広げるよう言われます。足も身体もターンアウトし、内股でなく外股にしないといけない。心が外に向けて開かないと身体はそういう表現になりません。ところが僕は内股で、歩き方もなよなよしているし、すり足に心地よさを感じます。がに股で手を広げる。そういう感情が僕には見当たりませんでした「自分にはこういう身体言語はあるのか?」と思い、そこから自分の身体と表現する身振りの意味との擦り合わせが始まりました。
僕が「気持ちを表現する」となると、内向きの表現になってしまいがちです。外に広がる表現ができなかった。でもミュージカルは外向きのほうが多く、それができるようになるのに苦労しました。またリズムをとることが苦手で、手拍子すら一緒にできませんでした。そうしたい気持ちもわからなかったのです。
身体は自由でいろんな動きができるはず。でも与えられた動きに自分の心を擦り合わせようと思っても、なかなかできない自分がいました。
でも楽しくもありました。「動きを揃えなければいけない」なら、なぜ揃えないといけないのか?と考えるわけですから、それがおもしろかった。試行錯誤しているうちに、オープンな表現も自分の中にあることがわかりましたし、それは自分の身体にとっての喜びになりました。
ダンサーはいろんな表現を模索します。身体を使って、舞台上で表現するわけですが、そこに嘘があったら気持ち悪い。楽しくないのに楽しい振りをすることほど気持ち悪いものもありません。だから自分の中のさまざまな表現の要素が明らかになるにつれ、次第に自分を素直に出せるようになって、そうなると「人の身体ってすごいな」と思えるようになりました。
誰しも幼い頃から自分の身体に向いあって生きているわけです。それを僕はひとつの踊り、動きとして表現していますが、これは特別なことではありません。

姿勢や顔の表情、身振り手振りといった普段やっている動きからインスピレーションをうけて、どれだけ舞台で表現できるかが大事なことだと思います。だから電車に乗っていても、他の人の身体を見て、「この人はこういう性格かもしれない」とか身体つきや姿勢、たたずまいを観察しています。
ダンスだけを毎日行っていると、つい「ダンスはこういうものだ」という固定した考えになりがちです。幸い自分はダンスをやりながらも、舞台だけではなくテレビや雑誌・映画などいろいろな分野の方と交流できたり、またイラストや文章をかいたり、教えることなどを通じていろいろな考えに触れることのできる立場にいますが、それでも縛られてしまうこともあります。
でも、日常の中に溢れている動きは自由です。例えばカメラを構えている動きも、何かをフォーカスするような振り付けを考えているとき、ヒントになります。何気ない動きを見つめることが発見になり、新しい動きに発展していくわけで、そういう身体の感覚を持っていることが大事ですね。
僕には2カ月になる姪がいますが、赤ん坊の動きを見ていると、身体表現者が表現したくてたまらなくなるような魅力的な動きをします。そんな動きをしたいがために身体を鍛えているのにかなわない。
また母はリウマチで身体の節々が痛むので、自分の手で無意識のうちに身体を摩ります。自然な動きをする赤ん坊と自分の身体を自然と摩っていたわる母が居合わせる。かつて誰もが赤ん坊だった。やがて老いると誰もが痛みとつきあっていかなくてはいけません。そういう姿を見ていると、いろんな感情がわきます。ずっと同じ身体で生きていく。それをいたわっている姿は感慨深いですね。
両方あります。頭の描くイメージに身体がついていけないこともあれば、身体が勝手に表現していることに頭がついていかないこともあります。それがあるから踊りをやっていると思います。
踊りはイメージと身体表現の両方が必要です。何気なく動いてみたあとにひょっとしたら今のはすごい動きだったかもしれない、と思っても、それは言葉では説明ができなかったりします。自分の中の感覚にしか残っていないので全く同じには二度と繰り返すことがでません。舞台なら見た人の感覚にしか残せない。踊りは一瞬にして消えてしまうから儚いものです。でも身体はそういう一度しかできない凄い動きができる力をもっています。
怪我をしたら勝手に治るし、物を食べたらエネルギーに変わります。血が流れ、心臓が動き。理解できないくらい小さい細胞があって、精密な動きをしています。身体は頭で考えなくても働いてくれる。そう思うと、人間の頭で考えられることは大したことではないと思うことがあります。つまらないことで悩んだりしますが、身体はそれが悩むに値しないことを知っているんじゃないかと。
だから踊っていると身体が先走って表現したことに対して、どうして、どうやってその表現をしたのか、理解できない、言葉では説明できないということが起きるわけです。僕はそのギャップに追い付いていきたい。
精神状態が影響します。怪我で身体の動きが少々悪くても、気持ちで随分変わることがあります。逆をいえば身体から気持ちは変えられるとも言えます。
元気のないときに拳を握りしめ、上に手を突き上げてみてください。そうやっていると何だか力が出て来ます。身体の動きにともなう感情がわいて、いつのまにか自分そのものになっていく感覚が現れます。元気のないときに呼吸をして身体と気持ちを一緒に広げてみるのもいい。でも、そういうことは暮らしの中で、誰もが意識せずやっていることだと思いますよ。

私自身もそんな時期はありましたね。僕は幼稚園のころから中学3年までの間、あだ名が『シロブタ』だったんです。肌が白くて、ぽちゃっり気味だったんですね。
明るい方ではなかったですし、地味めという感じで… そう呼ばれている自分には、到底自信なんて持てませんでしたし、びくびくして生きていました。女の子達の目も正直気になりました。『シロブタ』って呼ばれる事が本当はやだったのに、呼ばれるとつい向いてしまうんです。自然と私は消極的になり、不安にかられていました。でも、何か自分の胸の奥にある、叫びみたいな「何か」があって、それを吐き出したかったんでしょうね。気づいたら、中学のクラブ活動の一つに軽音楽クラブというのがあって、ドキドキしながら担任の先生の所に入れてほしいとお願いしに行っていたんです。自分を変えたかったからか。「何か」を叫びたかったのか。とにかくひたすら練習しましたね。エレキギターを初めて手にしたときはすごい震えました。
その頃、ちょうど数ヶ月後に文化祭があって、全校生徒の前でライブをすることになってしまい、しかも、何を間違ったのか、ギター兼メインボーカルを務める事に…。とにかく必死で歌いましたね。音程も外したし、ギターソロも間違えたけどとにかく必死で歌いました。しかも3曲。夢のまた夢のスポットライトを浴びた舞台で、『シロブタ』と呼ばれていた男が、全校生徒の目の前で、ぶるぶる震えながらながら大熱唱! 音痴だったかもしれないけど、笑っている生徒もいたかもしれないけど、私は胸の奥の想いを思い切り叫んだ!
何かに挑戦できたことが、私の劣等感や不安を吹き払ってくれました。あの時の舞台の体験が今の自分を生んだと思います。そして、あの時から始まったこの挑戦は、今もまだつづいています。
ひとつのことを極めるなら、練習を重ね進化していくことが一番大事かもしれません。でも僕は進化だけでなく変化もしたいんです。今はいろんなことにこの身体でチャレンジしたい。映画もそのひとつの試みで、新鮮でした。ダンサーだからこうでなくちゃいけない、という固定概念に縛られず、フットワークを軽く、自由に、いろいろな分野に挑戦することで、幅をひろげ、最終的に自分の表現活動にかえしていけたらいいな、と思っています。
タイトルのKATANAはKARADA(体)、つまり刀に体のイメージを重ねています。刃は磨かれ、研ぎすまされていきますが、それはダンサーの肉体の鍛錬と重なる部分があると思います。身体を磨いていく中で生まれる精神を表せたらと思っています。
どこまで自分が自分に追い付いているかを試される公演だと思っています。お客さんにも自分の体と向き合って、何かを感じてもらえたらと思います。

10年後、自分がどんな身体になっているか興味がありますね。身体は衰え、肌の張りも今よりはなくなっているでしょう。でもどういうふうに変わっているか関心があります。
あとはやっぱり子どもの動きですね。大事なことを一番教えてもらっているかもしれません。子どもは言葉より先に動きの表現があります。生まれたばかりの赤ん坊を見たことありますか?
僕はそれを見たとき、踊りを止めようかと思ったほど衝撃をうける震え方をしていました。真似してみたけれど、全然表現できない。ただかっこよく身体能力のすごさを見せつけているだけのようなダンス、つくられたダンスなんて大したことではないなと心底思いますね。だからこそ、もっと身体を使った表現が見直されていく時代になっていくと思います。
Kaiji Moriyama
森山 開次
1973年12月19日 神奈川県生まれ。2001年英国にて「最も才能あるダンサーの1人。彼1人のために観にいく価値あり」と評された後ソロ活動開始。しなやかながら直線的で、空間を切り裂くような独特の動きと、和の世界を用いた作品世界で国内海外の舞台を中心に活躍のほか、NHK教育「からだであそぼ」、映画「茶の味」「ナイスの森」出演、写真作品のモデルをつとめるなどのほか、絵本やイラストの執筆などさまざまな表現活動に積極的に取り組んでいる。
http://kaijimoriyama.com
@インフォメーション
「キリンダンスネットワーク・森山開次『KATANA』」
・ 東京 9月1・2・3日 スパイラルホール
・ 名古屋 9月6日 愛知県芸術劇場小ホール
・ 広島 9月8日 アステールプラザ多目的スタジオ
・ 大阪 9月10・11日 HEP HALL
・ 札幌 9月13日 札幌市教育文化会館小ホール
(問)オフィス ルゥ 03-3413-4172
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