サミー前田 さん(音楽プロデューサー・DJ)
トランジスタラジオが友達だった。英語はビートルズで学んだ。交友関係はライブハウスで生まれた。誰よりもその音楽の成り立ちに耳を傾け、誰よりもその音楽のルーツに興味を持ち、誰よりもその音楽とまじめに向き合った。そうして、音楽に恋した青年は大人になり、21世紀の青年たちと音楽の話をしたがっている。「素敵な音楽はこんなにあるんだぞ」。彼の音楽偏愛はとってもピュアで、止まることを知らない。
僕は東京でも郊外(立川)の出身なんです。立川というのは昔からデパートやお店が多い街で、あのころは米軍基地というのが大きな存在でした。立川と横田の基地ですね。父も母も基地の中で働いていたのでアメリカ文化が当たり前にある環境で育ったんですが、高校に上がる頃になると、ロックをはじめもっと日本のアンダーグラウンドな世界に興味が出て来ちゃって、新宿の文化的な匂いが肌にあってたみたいで、ほとんど地元では遊ばなくなってました。

中学までは野球をやっていたんです。野球とロックが好きな中学生。高校でも野球をやろうと思っていたんですけれど、入部説明会に行ったら、みんな僕よりも背が高くて坊主頭の気合いが入った連中ばかりで、自分はこの中で二軍にも入れないんじゃないかなぁって思っちゃったんですね。結局入部はせず、何をしていたかと言うと、ライブハウスとレコード屋通いなんです。毎日のように西新宿の「ロフト」やレコード街へ通っていました。70年代の末なんでけど、ライブハウスって子供が来るような場所ではないっていう雰囲気があって、まだ市民権を得ていないような時代で、パンクって言っても黒ずくめの地味な人たちが集まっていた感じです。結局そういうところにいた人たちが、今のインディーズ文化を作って来たようなところがありますね。まわりは年上の人ばかりでしたし。ジュース一杯で粘って、店で知り合った友達と一緒に平日でも朝までダラダラといるわけです。始発で帰ろうと駅に向かうと、高校の同級生で、どちらかというと「ツッパリ」と言われていたタイプの人間が歌舞伎町の方からやってきたりして。彼らはディスコ帰りなんですけど(苦笑)。
外で作る友達の方が楽しいし、大人の友人も多かったのでいろんなことを教えてもらえたんですよ。生意気な年頃だから、特権意識があったんでしょうね。みんなが同じ制服着て、同じような髪型で、流行をおっかけるみたいな高校生活ってつまらないものだって決めつけてましたね。
ライブハウスでは数えるほどしかお金を払ったことがないんですよ(笑)。今はもうこういうこともないのかもしれないけれど、たむろしているうちに店員さんが"顔パス"にしてくれたんです。最初は、裏から勝手に入ったり、アーティストが到着すると「おはようございます」とか言っちゃって楽器運ぶのを手伝ったり(笑)。一緒に悪いことする仲間とつるんでいました。でも、アルバイトもしていましたよ。中古車センターでワックスがけとか、近所の工場だとか…。欲しいレコードはたくさんありましたけど、高校生には高価でしたからね。一生懸命ラジオをエアチェックしたり、友達から借りたり。ライブだけでなく、とにかく知らない音楽をかたっぱしから聴きたくて仕方がなかった時代です。
基地が近かったせいもあって、幼少の時から父親がいつもラジオでFENをかけていたので、自然と洋楽が耳に馴染んでいったんだと思います。近所で野球をするときもトランジスタラジオを持っていって、ずーっと流しながら遊んでいた。小学校高学年になると、もっと意識的に音楽を聴くようになってきて、深夜放送が音楽ファンにものすごく影響力を持ってましたし、「歌謡曲も好きだけれど洋楽っていい曲がいっぱいあるんだ」ってことが段々解ってきたって感じです。最初はラジオのヒットチャートから入っていったんですが、中学に上がるころ、なぜか僕はビートルズを好きになって、2500円のLPをがんばって集めていきました。今で言うと"オタク"的なのかもしれないけれど、ビートルズを好きになったらビートルズを全部聴きたいって気持ちになるのが当たり前だろうと思って、とにかく全部集める努力をしていましたね。
本当に行き当たりばったりの人生だな、と未だに思っているんです(苦笑)。小学校の卒業文集に「将来のことはわからない」って書いて、親にものすごく怒られたんですよ(苦笑)。「風の向くまま気の向くまま」みたいなこと書いたから。中学・高校と遊んでばかりでしたから、どこかしらに不安があったことは確かです。このまま行って仕事につけるのかどうか?って。どんな大人になるんだろうか、不安だらけでした(笑)。クラスが進学ムードになっているときも、ヘラヘラしていたのは僕ぐらいでしたからねぇ。
でも、母親が大学にだけはどうしても行ってくれって言い出したんです。僕は洋楽が好きってこともあって、英語の成績だけは良かった。当時は3科目勉強すれば受験ができたから、他の科目は点数が悪くても平均するとそこそこの成績だったんですよね。義務的にいくつか受験したのですが、長文試験でちょっと反体制的な理屈っぽいこと書いたらなんと合格。本人もびっくりです。
それで1年はちゃんと通っていたんですけれど、2年目からは学外で音楽関係の友達と遊んでばかりで、大学から縁遠くなっていきました。そのうち1万5千円のアパート見つけて、実家を出たのが最後。引っ越したら大学に全然行かなくなっちゃったんですね(苦笑)。母親に謝りつつ休学にして、2年後にはギブアップしたんです。

洋楽が聴いていたからでしょうね。先生からは嫌われていたんだと思うんですよ(笑)。たとえば中1のときにビートルズのレコードを買ってくると、ずーっと歌詞カードを見ながら歌うわけです。そうするとスラングだとか、文法的におかしなものが出てくる。たとえば『涙の乗車券』という曲の中で、"she don't care"っていうフレーズがあるんですが、中学英語だと"She doesn't"にしないとおかしい。『これはどういうことなんですか?』って先生に聞きにいくと、苦い顔をされちゃうんですが、そんな風に英語への興味は人1倍あったのかもしれません。ちょうど『ビートルズで英語を学ぼう』みたいな本が出てたりして、楽しみながら勉強になったんだとおもいます。
知り合いのミュージシャンのツアーについていって、ローディーっていうか雑用みたいなことをしたのが、最初の音楽の仕事なのだと思います。大学に行かなくなった19歳のときで、こういうことで収入を得ることもできるんだって思いましたね。21才くらいの頃にカルチャー系の情報誌でバイトを始めて、音楽担当として編集技術を学んで、なんとか生計を立てられるようになっていった。それまでは土方やったりゲームセンターでバイトをしたり、という生活だったので、ちょっと落ちついたわけです。でもこのころから、音楽関係の仕事をやっていきたいっていう意識も芽生えてきました。そのあと音楽雑誌の編集者を経て、大手レコードメーカーに入社したわけです。
もう親はびっくりですよ。「育て方を失敗した」って泣かれたこともたくさんあったし、大学は辞めちゃうし、たまに米を取りにくるだけの息子ですから。外見も派手だったし、雑誌の編集やってる時でさえ、親戚の集まりなんかでは『何をやっているかわからない愚息』だったし。それが大企業に入ったって言うんで大喜び(笑)。『どんなに嫌なことがあっても、会社員としてやっていくという生き方もあるのよ』って真顔で諭されましたから(苦笑)。

逆にインディーズの可能性が広がっていることをすごく感じたんです.1枚のCDを売るために、大手だったら宣伝やら営業も含めると100人近いスタッフが動くわけです。でもインディーズの場合はほとんど、メンバーとスタッフで10人もいない状況なのに、驚異的なセールスをあげる人達が次々と出て来ましたよね。音楽業界が何十年かかかって作り上げたシステムを塗り替えてしまったともいえる冴えてる連中なわけです。逆にメジャーのレーベルには単なる会社員で音楽に興味のない人もたくさんいるわけで、クリエイティブな話ができないことも多かった。上司にアイデアを出しても「お前はマニアックだから」とか否定されてしまう。音楽の仕事しているんだから当たり前じゃないですか、音楽に詳しいのは。でも結局は、今流行っているバンドみたいな新人アーティストをつれてこい、ということになってしまうから、ちょっと情けなかったですね。文化を創っているという感覚がないんですね。自分にはメジャーな会社はあわないなと思いましたね。
今やっている作業でもあるのですけど、60年代、70年代、もっと以前でもいいのですが、昔の日本の音楽、ロックや歌謡曲だったりを、今の若い人にきちんと聴いてほしいなという思いが強いです。ここ10年くらい、いくつか復刻版のシリーズを出して来ているんですが、若い人に反響があって、「これをきっかけに目覚めました」と言ってもらえるのはやっぱりうれしいですね。僕の子供のころなんかは、60年代の音楽を聴きたいと思っても、なかなかレコードが手に入りませんでした。特に邦楽に関していえばCDの時代になってもなかなかCD化されずに埋もれていたんです。
やっぱり若い人たちですね。この類いの音楽は"懐メロ"としてしか取り上げられてきていないので、今までは"売れない"というレッテルが貼られていたんですが、きちんと若い人にアピールしたいんです。だからこそ、『昭和40年代の日本のロック』『和製ガレージパンク』という切り口にしてつくってみました。
僕はミュージシャンではないので、自分の顔は出なくてもいいと思っています。いつもそのスタンスですね。客観的で資料性の高い内容にしたいので、監修者として名前が出ちゃいますけれど、自分が凄いのではなくこんなに凄い音楽が40年前にあったってことを知ってほしいわけですから。DJなんかで顔を出すと、まったくイメージが違いましたって、よく言われます(苦笑)。
音楽業界を嫌になったことはありますけど、音楽から離れたいと思ったことはないですね。キツいのはセールス的なことだけですかね(笑)。

アナログの感覚ですね。10代の頃からぶらぶらと街をさまよって出会ったものや掴んだもので自分の人生は成り立っている、と思っているんです。それってすごいアナログっぽいなあと思います(笑)。デジタルに頼り過ぎるのは良くないことです。現代はアナログと両立すべきなんです。昔の寺山修司の映画で「書を捨てよ街に出よう」って大好きなんですけど、現代に置き換えると「パソコンを捨てよ」ってことですかね。情報を信号で頭にいれるだけでは半分しか理解できないんですよ、実際に直接経験した方が本質が理解できるだろうし、人生おもしろいし、役立つんですよ。バンドをやるんでも、PCでお互い通信して音楽作るのもいいんですが、人と人が顔を突き合わせて真剣にやるから予想もつかないおもしろいものが作れるわけです。
音楽をやるならルーツを大切にして、かつ今の自分の感覚と融合させていくべきだと思っています。自分は歴史なども含めて、その音楽がどういう成り立ちでできているんだろうということが気になるんです。そういう事を調べたりしていると、深みが増すというか、必然的にディレクション能力も変わってきますから。"今流行っているからこのサウンドをやる"っていう理由だけじゃダメなんですよ。ロックが生まれて50年と言われていますが、50年分の音楽を把握するのは大変な作業ですが、宝の山なんです。それがすごく大切なんじゃないかと思っているのですが、そういうスタンスで音楽に関わっている人が意外にも少なくて驚いています。音楽学校に行けばミュージシャンになれると考えている人も多いみたいだし。だからこそ、あえて濃厚な世界を若い人に向けて発信したいと思っています。
Sammy Maeda
サミー前田
1964年、東京都立川市生まれ。80年代は音楽雑誌編集、90年代はソニーミュージック・グループにてレコーディングからイベントまで、さまざまなことを手掛ける。これまでに関わったアーティストは、遠藤賢司、及川光博、クレイジーケンバンド、小室哲哉、サニーデイ・サービス、近田春夫、渚ようこ、ネーネーズ、フラワーカンパニーズ、他多数。現在はインディーレーベル「VOLT-AGE records」主宰およびプロデューサーとして活動、現役アーティストだけでなく、古い日本の音源の復刻活動に力を入れている。昨年末にメジャーメーカー7社から発売されたオムニバス『昭和元禄トーキョーガレージ』シリーズには、日本のロックの黎明期を飾ったガレージ・パンクがたっぷりと収容。なぜこんな曲がメジャーで発売されていたのかと耳を疑うような珍曲も多く、邦楽の新ジャンル(と言っても古いのだが)として大注目されている。同時期には豪華アーティストによるカバーアルバム『昭和元禄NOW! 第1集』もプロデュース。

オムニバスCD『昭和元禄NOW!第1集』
税込定価¥2,300 BQGS-7 発売中
発売:VOLT-AGE records/ZEST MUSIC 販売:ウルトラ・ヴァイヴ
サミー前田さんプロデュースのオムニバスCD。
GS、ニューロック、アングラフォーク、ディープ歌謡、ラウンジミュージックなど、昭和40年代を中心に、当時の名曲群の中でもカルト的な作品を中心にカバー。
若手から大御所のベテランまで、ルーツミュージックをこよなく愛する現役アーティストがオリジナルを昇華した名演集です。