

Taneki Mouri
毛利 子来
千葉県生まれ。旧制岡山医科大学卒。1960年、東京都渋谷区に毛利医院を開業、育児、教育相談に力を入れ、現在にいたる。主な著書に『たぬき先生の人生相談』『ひとりひとりのお産と育児の本』『子育ての迷い解決法10の知恵』『子どもが子どもだったころ』など多数。
毛利 子来 さん(小児科医)
どういうわけか客観的なデータを基準に物事を考えることが正しいとされるようになっている。考えてみれば、データはある見方に従ったひとつの事実に過ぎない。それが正しいと思えるのはなぜなのだろう。毛利子来さんは街場に小児科医院を開業、インフルエンザの集団予防接種に異議を唱えたり、科学的な育児教育に疑問を投げかけている。子どもは大人に教育され、はじめて大人になれる。当たり前に思われていることは、それこそ客観的な基準なのだろうか。
僕は子どもと大人をわける気がないんです。なぜなら私は76歳ですが、赤ん坊みたいな気持ちになって人に甘えてみたり、ワガママ言ったり、いたずらしたり、青年の客気にかられて喧嘩したり、世の中に文句を言ったりする。性別だって男にも女の要素があって、少女のような恥じらいもあるわけです。
僕の中には老人の達観もあれば、中年の嫌らしさもあって、いろんな年齢や性別をワープして生きている。制度上の年齢でなく、実際の気分としては赤ん坊から年寄りまでいろんな年代の気分を毎日くるくる変えて生きている。
いまはくつろいで話しているけれど、目の前に警察官がいたらそうはいかない。TPOで演じているわけで、そうなると「子どもと大人」とはっきりわけられないし、そもそも実情に合わないですよね。

親や教師が子どもだけを対象化し、客観的に見て、観察して、「どういう状態か」ということを推測するのは、大人の思う「いい方向」に向かわせたいからでしょう。そのために導きたい、叱りたい。僕はそうしたくないんだな。第一失礼ですよ。子どもだって大人の性質があるし、親の性質を持っている。親を慈しむことだって考える。そういう子どもに対し、上に立った立場で観察するのは失敬な話です。
僕は「子どもの心と体について」といったテーマでよく講演を依頼されるのだけど、そういうのは止めて欲しいって思ってしまう。
例えば、男ばかり集まって「30代の女性の心と体を勉強して女性をうまく操縦しよう」とか、あるいは女性ばかり集まって「男を上手にコントロールして出世させる方法」といった内容で講演するっていったら、男も女も怒るでしょう?
ところが大人は子どもにはそういう失礼なことをするんだな。調べるとか心理テストをするだとか。そういうことはすべきではないですね。
人間同士は触れ合がいがあって、だから腹の立つこともあれば、愛することもある。親なら生活の中で、教師なら学校の中でともに生きている人間同士として接する。専門家の「客観的意見」を聞いてから、その子どもに対するのは失礼な話でしょ。それよりも肉薄して、横並びでいいから「最近どうなんだ?」って感じで声をかけることのほうが大事だと思います。
子どもをわかりたいと思うのであれば、問いただすのではなくて、大人自身のうまくいかなかった失敗談や体験を話すほうがよほど響くし、肉薄できると思います。
導こう、教えようという意識が強いです。それは子どもにとっては嫌なことです。こうしなさない。ああしてはいけない。しょっちゅう言われるわけですから。自分がそういうことを言われたらどうですかね。子どもから「あそこが散らかっている」「台所が汚い」と言われたら、向かっ腹が立つでしょう。言うことも聞きたくなくなる。頭ごなしの禁止と命令が多すぎますね。ほっとかれるのも必要。まして高校生くらいの思春期になると、まずは自分自身がよくわからなくなって苦しい時期になるのだし。小学校のときはのん気でいられたけど、高校生にもなれば「自分が誰だ」って考えたってわからない謎にぶつかるわけです。哲学者や宗教家が考えてもわからない。デカルトの「我思うゆえに我あり」も、わかったようなわからない話だし、孔子も「未だ生を知らず。 いずくんぞ死を知らんや」と言ってるわけです。回答不能だから、人はそこをなんとか誤魔化して生きているので、何がしたいのかわからないのが当たり前です。進路を決めろって簡単な話にはならないわけです。医学部に行けばいいって話ではない。

そもそも人は自分の意志と努力で生まれてきたわけでなく、一対の男女が性行為で子どもをつくったのであって、これは不条理です。自分の意志と努力にかかわらず無理矢理与えられた生命です。それが人生なんです。親を選べないし、性別も選べない。名前も姿形も選べない。こんな不条理はない。だから髪を染めたり、ピアスをしたりと変身したくなる。親の世代の価値観通り生きても自分はできない。
自分をつくるためには、まずは親や教師の言う通りにならない。先行世代の言う通りなら自分ではないし、今の世代の価値観に逆らいたいのは当たり前。むしろ親や教師の言うことを聞いているほうが気になるね。不条理を克服する気持ちを抑圧しているわけだから。
秘密を持つことが大事だと思うんです。隠し事をしないで正直に話しましょうって言うけれど、秘密を持つことこそ自分で、秘密を持つということは、親に知られない自分を持っているってことです。
自分がわからなくなってくるから苦しい。だから先行世代に反抗して、自分を必死につくっている。そっとしておかれるのがいい。部屋に鍵をかけるのもいいかもしれない。
親からの相談で、リストカットとかプチ家出をしている子に来てもらうけれど、だいたい親がうるさい。それが理由ですね。部屋に勝手に入ってきて引き出しを開ける。ある子は自分宛の手紙を読まれて捨てられる。自分にかかってきた電話も切られる。携帯も買ってくれない。中には拒食症になって死にかけた子もいます。それは死にたくなりますよ、自分がなくなるわけだから。存在する動機がなくなる前に、親や教師に知られたくないことは断固として守ったほうがいいし、どうして聞きたくないことは逆らったらいい。我慢しているから切れるんでしょう。我慢して切れた挙げ句、人を殺したりしないためには、自分が気楽でいることが大事で、それには言いたいことを言うのがいい。言いたいことを溜めるといきなり刺すとか無謀なことになってしまう。
それでも親や教師に勝てなくて、いくら言っても無駄なら時を稼ぐのも必要だね。

「あれはいけない」と繰り返すのは、言ったことは通したいという思いがあって、それは沽券や意地でしかない。何が何でも言うこときかせたい。親がそう言い出したら子どもとしては「ああ、またその心理が出てきた」と思って、「親もつらいな」くらいに思っていたらいいんじゃないかな。
ただ、今は親と学校が嫌になっても行く場所がない。私のところに相談に来た子は、学校へ行きたくないもんだから、朝家を出て山手線に乗ってぐるぐる回ってそれから帰っていたのを繰り返していた。数日後に学校から家に連絡があってばれたんだけど、僕は彼女に「学校へ行くのが嫌だったら映画館でも行けばよかったのに」と言ったら、必ずおばさんとおじいちゃんに声をかけられて通報されるから電車に乗っていたという。電車に乗っていたら通学途中だと思って声をかけられないんだという。
どこにも行けない。そういう追い込まれ方はつらいでしょうね。だから、そういうつらいことになっているんなら直接反抗したほうがまだ楽じゃないかと思います。

小児科学では「成長発達がある間は小児科の対象」だと定義していますが、僕は子どもと大人はわけられないと思っているし、相談内容もカウンセラーの域のものかもしれないけれど、話を聞くのは技術ではないですね。夫婦や親子がカウンセリングの技法で接しないでしょう? 生でぶつかるほかない。
だから学校にカウンセラーを置いたりするのもおかしいし、問題があると思われたら、すぐ精神科にまわされたりする。それは生きにくい。やっぱりできるだけ秘密を持っておかないと精神的に追い込まれてつらい。つらすぎて犯罪に走るのはもっとつらいし、損だね。楽しく生きた方がいい。

大人になることはないんですよ。僕は大人がもっと子どもになればいいと思う。大人になることに価値を置くのは好きじゃないね。これはいい悪いじゃなくってね。概して「大人になる」って社会規範に妥協していくことでしょ? まあ偉人や傑物は違うんだろうけど、普通は「世の中こんなもんだ」ってんで、我慢して生きている。
だから大人になることと成熟することは違うんです。赤ちゃんの成熟も老人の成熟もある。赤ん坊が未熟なわけじゃない。裸の王様がそうでしょう。「王様が裸だ」と見抜いたのは子どもです。
大人に価値を置く世の中は、生産性が高く、障害のない青壮年期をよしとするわけだから、子どもと老人をみじめにさせます。子どもは修行時代にされていて、勉強しなさい、挨拶しなさい、ルールを覚えなさい、と言われ通しで人生の1/3を過ごす。年をとったら目が見にくくなる。手足が不自由になる。だから福祉の対象にされる。でも、見えないものが見える経験値がある。生産性や健康に価値基準があるから、子どもと老人の時期は人生から奪われている。
「できること」にやたら価値を置いていて、物がつくれる。速くできることがいいという価値観に染まってきたけど、もうそろそろ変換してもいいんじゃないか。強く、逞しく、速くなんてのはもういい。こんな辛い生き方はないって気付いているんじゃないかな。
できないことのよさもあります。できないことで「別のやり方がある」と考えたりできるわけです。案外、勉強ができて姿形もよくて家柄がいいのが本当に悪いことをしたりすんだから。コンピュータの計算処理能力はすごいけれど、ご飯は炊けない。だから全面発達は求めないで、偏っていてもできることをしたほうがいい。なんでもできるようになるのは無理だし、つまんない人間になるよ。

Taneki Mouri
毛利 子来
千葉県生まれ。旧制岡山医科大学卒。1960年、東京都渋谷区に毛利医院を開業、育児、教育相談に力を入れ、現在にいたる。主な著書に『たぬき先生の人生相談』『ひとりひとりのお産と育児の本』『子育ての迷い解決法10の知恵』『子どもが子どもだったころ』など多数。
「たぬき先生のお部屋」 http://www.tanuki.gr.jp/
【毛利 子来さんの本】

『ひとりひとりのお産と育児の本』(平凡社)

『子育ての迷い解決法10の知恵』(集英社)

『子どもが子どもだったころ』(集英社)