佐伯 剛 さん(『風の旅人』編集長)
その雑誌には「世界の現実はこうである!」と声高に叫ぶ声もなければ、写真の風景を確認するためだけに旅に出ようと思わせるような安逸さもない。「心の旅」へと誘う『風の旅人』は1枚1枚の写真を丁寧に掲載している。予め抱いているイメージや先入観に従ってそれを見ることを許さない。ページをめくるうちに、実は世に溢れているたくさんの写真を掲載した雑誌は、固定的な視点を与えようと躍起になっているのではないか?と思えてくる。与えられた視点ではなく、自らの目で世界を見ること。その大切さについて、編集長の佐伯剛さんに話をうかがった。
もともと私は編集の経験はありません。弊社は旅行会社ですが、4年前に店頭上場したのを機に、ビジネスモデルの中に出版事業を位置づけようとして始めたのです。

海外旅行が一般的になったといっても、ハワイやグアム、韓国のグルメツアーなど安・近・短の旅に出かける人の数がまだまだ多いのですが、そういうありきたりの地域ではなく、「自然と人間と文明を見つめる旅」をテーマに仕事をしてきました。ギアナ高地やパプアニューギニアなど秘境からヨーロッパの田舎まで、世界120ヶ国以上のネットワークを持ち、旅を企画していましたが、10年以上前は、その種の旅はビジネスとして成り立たないのではないかとよく言われました。
ただ、日本には現在8000社くらい旅行会社がありますが、そのうちの90%はハワイとかグアムを扱っています。世の人々の関心はすべてそちらに向いていると思ってしまいがちですが、中にはアンコールワットに行きたいと思う人もいます。関心を持っている人はいても、手掛ける人が少ない。そこをきっちりと押さえたらリピート率は高まることがわかっていました。またハワイやグアムに行く人の多くは浮動層です。
旅行に参加したからといって旅にのめり込むわけではなくて、次の消費活動に簡単に移ってしまいます。しかし特定のテーマを持って旅に出て世界を見るようになると、人の関心はよりいっそう深まっていきます。
旅行会社が扱う「ありがちな旅行雑誌」をやるつもりはありませんでした。雑誌のなかで旅を表面的に扱うとたんなる知識情報になる。中途半端な知識情報は、見る人に固定的なイメージを与えてしまい、結果的に旅の醍醐味を損なうこともあります。知識情報より、生身の体験の方が遙かに素晴らしい。でも、全ての人が、どこにでもいけるわけではない。だから、旅に出ない時に、雑誌のページをめくりながら、旅と同じ臨場感で世界と向き合うことが大切だと思ったのです。
ただ、旅の臨場感というのは何かと考えると、出会いであり気づきなんです。そうすると、旅をするとは何も飛行機に乗っていろいろな国に出かけることだけでなく、日常の身の回りのことについても、それを見る視点次第で、旅と同じ発見や歓びがあるということになります。FIND THE ROOT 根元を求めよというコンセプトは、地球上を飛び回れということではなく、今、此処にある自分の根っこを掘り下げてみよ、ということにもなります。
根元とか本質を求めることと一番逆行する表現が、表面的な情報の切り売りだと思うんですが、そういうものを雑誌では作りたくはなかった。
知識情報の切り売りがいまの世の中を混乱させているという思いがあります。旅にしても、意図的に切りとられた情報に従って土産物屋へ行き、教えられた名所で写真を撮るといった振る舞いは、知識情報の確認でしかなくて、その国のことは何もわからないわけです。そこへ行ったというだけで知ったかぶるようになると、知らない謙虚さより悪いのではないかと思います。
切り売りされた知識情報が山積みになって目を曇らせていると思います。マスコミとか雑誌編集に携わっている人の多くは、そのことを自覚していないのか、情報を切り売りすることが情報を伝えることだと思っているようなのです。

物事を知ったつもりになっても、実際には知ったことにはなりません。「知ったつもりになる」という固定観念がうまれるだけです。知れば知るほどわからないことが増え、深みに入っていくのが自然だという気がします。でもそうして、人間の意識の地平が広がっていく。狭い意識の器に情報を集めて貯め込めば貯め込むほど、世界と自分の距離が遠ざかっていくのではないでしょうか。
『風の旅人』に掲載されている写真には、いろんな風景がありますが、「どこの場所なのかわかるよう地図を載せて欲しい」と要望する読者もいます。でも、私は、敢えて読者に不親切でいようと思います。説明をできるだけ簡略化し、地図も載せないのは、そこにあるものと裸の魂で向き合って欲しいからです。地図や細かな説明を読んで納得することと世界のリアリティを感じることは、まるで別のことです。大事なことは、世界の表層ではなく、世界のリアリティを引き寄せることです。「ガラパゴスに行けばこれが見える」という感覚にしたくない。そこがどこであってもかまわなくて、私たちが今生きている地球上のどこかにあるひとつの不思議。そう いうものが現在進行形であり続けることがかけがえないと思えることが大事なのです。
ビジュアルを重視するというのは、映像の力によって説得力を持たせることで、映像の数が多いのは重視していることになりません。1枚の写真の力を信頼するなら、1ページの中に写真をごちゃごちゃ入れないでしょう。1枚1枚が弱いから、そうなってしまうのです。
知識情報を「世界の現実だ」として押し付けてくる諸々の力がありますね。現在の学校教育がそうかもしれないし、親が子どもに接する場合でもそういうことがある。実際に体験する前から、「現実はこうだ」と押し付ける傾向があって、「だからいい学校へ行け」とか「資格を取れ」と言う。生身の現実に向き合って発見する前の段階から情報知識の中に押し込んでいく。でも、そこで与えている現実は本当に現実なのか?
大雑把に言うと5年単位くらいで世の中の流れは変わっています。「今これが大事だ」と言っても5年後その保証はありません。
知識情報を過度に重視することの弊害がどこにあるかというと、知識情報によって生命力とでも言うべき生きる知恵がそぎ落とされていくからです。知恵というのは、「現実はこうだ」と押し付けるものではなく、この世界の中でよりよく生きていくための方法論の積み重ね方で、それを自分なりにつかみ取っていくことです。昔なら長老だとか爺さん婆さんがいて、自分たちの環境のなかでよりよく生きていくため、深遠な方法論を神話的に語ったりしながら、頭で理解できるレベルではなく、意識の深いところに向けて伝えていった。

語れる人がいなくなったのではなく、知恵を伝える声は人から人へ小さな声で伝えていくもので、学校教育やマスコミの声は大きいから、かき消されてしまう。また、年輩者も大きな声の前で自信をなくしてしまいがちで、自分の中から出てくる信念の力強さがなくなって、説得力がなくなってしまう。でも、わかりやすく大きな声で語りやすいハウツー的な知識情報を身につけても、環境が変わった時に太刀打ちできません。変化に対応する地力みたいなものが知恵であって、今日のように変化の激しい時代だからこそ、知識よりも知恵の重要性に気づかなければならないと思います。
子どもたちの可能性は、知識よりも知恵の育成にかかっているのだと思います。
でもそれはコンピューターでもできることですね。情報処理というのは、ひとつひとつの記録を整理し、カテゴリーにわけることでしかないわけです。現在問題になっている日中韓の歴史教育のことでも、どの事実が正しいかという事実の記録の仕方が争点になっています。でも、未来につながっていく思考というのは、なぜそういうことが起こってしまったかを洞察することであり、その答えが正しいか間違っているかではなく、洞察し続ける態度が大事だと思うのです。こうしたことは、コンピューターにできることでしょうか。
すぐに答えを出すこと。決められた答えを、できるだけたくさん覚えること。できるだけたくさん知っている方が素晴らしいことだと教えられ、競争させられ、その競争に勝った人が人の上に立って、ますますその傾向を強めていく。
でも、おそらくほとんどの人は、自分が獲得した知識情報と世界のあいだにギャップがあることはわかっていて、そのギャップが不安になっているんだと思います。不安になりたくないので、自分の知識情報以外のことを見ないようにする。それでも、自分の知ったことが生身の自分の人生と結びついていないという実感も自分のなかに残り続ける。
今本当に求められているのは、情報処理の高さではなく、自分の知らないことやわからないことに道筋をつけて対応できる能力ではないかと思います。そうした時、コンピューターは、フリーズ状態になってしまうでしょう。

ナホトカ号が座礁した事件がありましたね。油が流れ出た映像が印象的ですが、あの時マスコミが大騒ぎしました。「風の旅人」の次の号で、その後を追い続けた写真を掲載します。それを見ると3か月後には草が生えて油が消え出しています。3年後には油の代わりにたくさんのゴミが目立ちます。油は年月が経つにつれ消えていくのに、ゴミはどんどん増えています。そういうことが伝えられていません。多くの人が知っていると思っているのは、油で汚染された風景だけで、その先は遮断されています。
ゴミの大半はプラスティックで有機的に分解されない。油は年月とともに分解される。そういう推移を知らされず、一過性の事実だけを伝える情報知識とは何なのか?
それをどう分析して分類したところで、人間の知恵にはなり得ません。
簡単に得られないから、大事なことなんでしょう。難しいからといって、その場しのぎで解消する手を打っても、問題の先送りでしかないですね。
例えば、栄養が足りないから安易に栄養剤を飲む。栄養が外から与えられるから、体内で栄養を作り出すメカニズムが損なわれ、さらに足りなくって外部から補充する。よりよく生きるためには、食べ物を栄養素に分解する酵素の働きをはじめとする身体のシステムが重要なはずで、そこを整えなければ、根本的な解決にならないでしょう。「1ヶ月で身に付く○○」というような「足りないスキルを早く身に付ける方法論」みたいなものが盛んに喧伝されています。安易な栄養剤に頼り出すと、身体の地力が弱くなってどんどん依存体質になっていきます。
苦しい状況の時は、敢えて簡単ではない方法で、取り組むべきではないかと思うことが多いです。「風の旅人」もそういうつもりで作っています。性急な人は、そうした考えを受けつけてくれないかもしれませんが。

「こうすればいい」というものが与えられないほうがいい。葛藤や軋轢が強いほど耐性がつきますから。モゴモゴした思いがないままやり過ごしてもツケはまわってきます。社会に出るともっと葛藤は生まれるし、知識情報で対処しえない曖昧な領域はたくさんあります。モゴモゴの中でなんとか思考の糸を紡ぎ出すようなトレーニングができていないとフリーズして思考停止になってしまいます。葛藤や軋轢を重ねると、曖昧な領域の中で曖昧なまんまバランスをとる知恵がつきます。右か左かと整備するような答えを与えられて、それがいいと思っていると、社会へ出てから実はそれが間違っていたと気付くことはいっぱいあります。
人が言っているようなことを頂戴して誰かに向かって言い切るのは意味がない。「親や先生がこう言っている」とか「新聞はこう言っている」なんてのを堂々と言われても面白くもなんともない。
そうではなく、自分の中から必然的に生まれてくる「どうありたいか」という思いを率直な言葉で伝えようとする時の言い淀みは、心に伝わってきます。
唐突なようだけど、例えば映像的な文章が得意でないと自覚している作家が「映像的な文をきっちり作り出すこと」と自覚して苦労して書いている文章が面白いという場合があります。自分にとって苦手なことだけど重要だと思っていることだから、すぱっと言い切れないモゴモゴした葛藤が文から滲み出てきます。書き手の映像を言語化できない葛藤がそこにはある。困難さを「自分事」にしている誠実さがあって、それも含めて読み手は受信しています。
多くの人が自分のなかに既につくりあげているイメージをなぞるような表現では、読む方の意識の地平は広がらない。
意識の地平の広がりは、新たなる展望を見出そうとする力につながっていきます。現在の複雑怪奇な情報化社会のなかで本当に必要な知恵とは、現状をなぞるのではなく、そこから展望を見出す力ではないかと思います。その為には、地理上の旅もいいですけど、それ以上に心の旅が必要なんだと思います。

Tsuyoshi Saeki
佐伯 剛
『風の旅人』編集長。ユーラシア旅行社 専務取締役。1962年1月1日生まれ。03年4月『風の旅人』創刊。
「風の旅人」http://www.kazetabi.com/