

Min Tanaka
田中 泯
1945年東京生まれ。舞踏家。学生時代からクラシック・バレエとモダン・ダンスを学び、モダン・ダンサーとして活動した後、73年から一人だけの活動に入る。78年に「身体気象研究所」を設立し、以後、内外の舞踊祭・演劇祭への招待参加、独舞、グループ作品の公演を始める。
田中 泯 さん(舞踏家)
「僕の中にマグマがあって、踊らないと自分が分裂しそうな気がするんです」。舞踏家の田中泯さんはインタビュー中、そう漏らした。その言葉を聞いてイメージされるのは、激しいパフォーマンスだろうか。それとも優雅な舞いだろうか。舞台に立った田中さんの姿は、「ただ、いま・いる」ことに尽くしているように思える。尽くして生きる踊り。田中さんにとっての踊り、そして身体について尋ねました。
子どもの頃、僕はずっといじめられ続けていました。空想の世界に生きているような…いま思うと赤面することばかりの根拠のない、どこか夢見ているような状態で生きていたせいかもしれません。ぼーっとしてはいても、バスケットだけには夢中で、大学でもやりたいと思い進学しました。
でも、上には上がいて、どうも僕がやることじゃないなと思い止めました。その途端、「踊りをやろう」と思ったんです。踊ることは子供の頃から好きでした。けれどバレエやモダンダンスを習い始めた瞬間から「これは変だぞ」と思うようになったのです。

どうして「みんな同じように動かなくてはいけないか」がわかりませんでした。だから「はたしてこれは自由なことなんだろうか」「身体にとって自由とは何だろう」と思ったんです。それに「この人たちのやっていることはスポーツじゃないか」とも思いました。踊って汗を流すのが大好きな舞踊家は多くて、それならほかのことでもいいはず。
自分がどこまでも拡大できるものとして踊りはある。実際は飛んでいないけれど、人に「飛んだ」と思わせる世界。それが芸術だと思います。比べて、汗を流すのは疲労することでしかなく、自己確認でしょう。客席を鏡にして自分の姿を映しているだけ。僕は客席を突き抜けた向こうに何かを見たい。
19世紀の終わり頃から、自分の中にあるものを踊りとして外に出すことが大事な踊りの要素だと言われてきました。でも10代の自分の内側にあるものなんてないわけで、「自分の中にあるもの」と思った瞬間に恥ずかしくなってしまう。自分で所有できないものが踊りでないか。それは「私の踊り」というよりは、やった結果そこに踊りが残った。そういう表現のほうが踊りらしいなと思えたんです。そういう意味で「身体」についてずっと考えていましたね。踊りは間違いなく身体のことですから。
「自分はどこにいるのか」「私は本当にこの身体といっしょに生まれて育っているのだろうか」といった疑問も含めて、「踊りとは身体のことだ」とずっと思っていました。
踊りを習っていた頃、踊りとは「自分の中の思考、感情を身体を通じて表現するものだ」と考えられていました。僕にとっては、身体そのものが表現する。それが踊りで身体を使ってどうこうするものではなかった。
身体を使っているつもりが、実は身体のほうが私より表現してしまっていることはたくさんあるわけで、そこを踊りと言いたいんです。自分が捉えているものを踊りと言うのではなく、捉え切れないものも含めて踊りと呼ぶのだから、かなり勇気がいりました。ようやくそういう踊りができるかもしれないと思い始めています。

通常「踊り」と呼ばれている要素をどんどん削いで行って、そしたら裸体になりました。裸で人前に立つことから始めました。恥ずかしいし、手も足も出ない。何をやっても嘘に思えて、しばらくしたら立っていられなくなり、地面に寝ました。気が付いたらやっていたのはブリッジで、お腹を上にあげて地面にアーチを描いてました。音楽にあわせて踊ることもない。劇場も必要ない。観客席もいらない。自分の身体の機能と構造を同時に考えるような踊りを8年くらいやりました。
僕の踊りには連続性がなくて、瞬間のつながりでしかない。つながって流れるとどうも駄目なんです。本当に自分で「いまいい」と思えるような状態が細かくつながっていて、だから突然何が入り込んでもいい。いつでも断絶できる。それがいい状態です。完全にオープンだから誰かが咳払いしても聞こえるし、踊りながらその人のことを考えられる。
僕の師匠、土方巽(注1)も大勢で話しているときに、隅にいた人に向けて突然「それはね」と意見することがありました。それでいて、目の前の人との話が希薄になるわけではない。それだけ身体はアンテナを張りめぐらせている。そういう肉体の状態に憧れますね。
生まれてきて、この身体の中に自分はいます。身体が私にとっての最初の環境で、その環境とどうやって暮らしていくかが最大の命題であるはず。でも学校や家庭では教えられない。
僕らは生まれてすぐから無意識の時間を何年間か味わいます。なぜ人間は最初の記憶を消されているのか? その後、意識を持って生き始めるけれど、無意識の生活は奪われてしまった時間で、ひょっとしたらそこにとんでもない宝が潜んでいるのではないか。赤ん坊は骨も弱く筋肉もないのにむずがると抱きとめられないくらいの力を持っています。無意識の時代の子どもは天才的だけど、それを失ってしまう。無意識の暮らしは数年でも、これまで生きてきた意識的な時間と同じくらいの重さではないかという感じがします。
いま自分がいる場所は、「自分が意識できる」ということだけど、それもよく考えてみると危ういのではないかな。いま、こうして話していても、自分の意識が「頭の中に確実にある」となかなか思えない。時々、ここらへん(頭の脇の空中を指して)にある気がしますね。

身体の中にあるものが私のすべてだとすると、どういう意識で私の場所を確保、認識しているのかすごく興味があります。身体の中のどこに私はいるのだろう。身体はどこにあるのだろう。そう思考するとき、間違いなく言語が動いているのは確かでしょう。それにしても肉体化しない言語だけがやたら増えてますね。
基本的には自分の身体が消化できる言語を持つべきだろうと思います。最初から消化できない言葉の中で育ってしまうと、たぶん身体はそういった言語に対して距離をとってしまう。
僕の職業は言語を不用としているかのようだけれども、言語がなく自分の身体が動いているかというと、それはあまりない。たいがい思考しながらやっていて、思考の枠外に踏み込んで行くようなことはとてもわかるし、そうありたいけど、踊りとして表現するとものすごい言葉が動いて、その中で踊っているんです。
そうです。いろんな記憶、感覚も言葉を動かすことで保存できる。でも、記憶は捏造であるから、そのままの記憶ではありません。
記憶とは身体のことだとしたら、身体を語ることはみんなしているけど、身体を剥ぎ取っていくことはしていないから、それができたらおもしろいと思う。
現代では舞踏家の生活と言えば、観客の存在が頭の中にあって進んでいるわけですが、できることならそうした区切りのない舞踊そのものの踊りをしたい。人前で踊るのは、ずっと続いている自分の生活、生命のある部分に過ぎない。
多くの場合、踊りは日常と断絶していることが多くて、そこに僕は飽きがきています。そうした踊りがもたらすような経済的、社会的な影響や有名性や芸術のあり方にはとっくに関心を持たなくなっています。

常に言語が流れていて、フッと感覚的に何かがイメージされたとき、「なんでこういうことを思い描いたのか」と分析します。頭の中に川があるなら言葉がそこをぷかぷか浮いていて、踊っているときにそれらがバッと支離滅裂につながったりする。それが僕の踊りにとっての「いい」とき。
理詰めに言語を整理するのではなく、「なぜ?」という言語以前の疑問があって、それを考え続けているのは確かだけど、理詰めではなく踊っていけば自然とそれがつながっていくのではないか。それが僕のいまの言語性です。
多分に責任のとれない言語を活かしていて、もちろん最終的に責任をとるのは僕の身体だけど、それは意識が統御している身体ではない。身体そのものがやっていることを見てくれたらいいなと思います。
言葉の先にあるような行為はそんなにないと思います。「考える」とは、いつからそうなっているかわからないけれど、身体の中の細胞が生きているのと同じくらい常に起きている。だから自分というものが自分にとってうるさいわけでしょう。
それをつかもうとすると面倒だし、それは「身体の中にあるんだ」ということでいいんじゃないかと思ってます。流れている言葉を釣って、ほとんど感覚で体を運んでいるようなところがあるから、僕の体の中に入り込んできている言葉とか思考は本当はどこにいるかわからない。
例えば、子どもを殺した子どもについてあれこれ言うけど、その子の中でどんな言葉が流れ、入り込んでいたのか。とかく個体の責任にしていくけど、これだけのメディアが言葉を氾濫させているのに、子供がそれを整理できるはずがないし、どの言葉に釣られても不思議ではない。言葉の氾濫の中で選択肢を持てなくなってきているから、身体が大きな器に変化しないと大変なことになりますね。

例えば、ある武術のトレーニングには、「ただ立つだけ」というものがありますが、そういうことはすごくいいと思います。立っていれば、足の裏のどこに重心のポイントがあるか。足首、ひざ、胃の位置がどこにあるかわかってくるでしょう。それは踊りの中でも感じることで、僕は内臓感覚というけど、内臓に自分の感覚がしっかりおよんでいく、つかめるようになる。そういうことに夢中になる人が増えてほしいですね。
自分の身体と付き合おうとした瞬間に逃げる人が意外と多いのです。処分保留にしてきたことが、自分と向き合った途端にわかるからです。それは本人にとっては恥ずかしい記憶かもしれない。でも、身体とともに何とかしないといけないんじゃないかな。
学校までが個性的であれと言い出したけれど、個性は本当はきついものです。表面的な個性を語るのは大嘘なわけで、本当は深いところにあって、恥ずかしくて本人にとっては恐いものであったりする。「個性を認識しよう」ならともかく「個性的であれ」というのはおかしい。
踊りだと、そういうものを全部取っ払う。みんな身体が個なんです。でも、記憶している自分らしさに人はこだわる。何もしないそのまんまで個です。
だから踊りの極地はそこにいて、「あ、いた!」ということでいい。「そこにいること」を確認したとき、その人が踊りを感じられたらそれでいい。見せるとか見られるという関係もない。

踊りのワークショップに参加した人の中に、痛いとか不快とか安定しないといった理由で身体を動かすことに消極的な人がいます。「不快だ」と言ったら、僕は「それはいいね」と言います。それは、その人に起きたことがない事態だし、無理に気持ちよくなる必要はないからです。なぜ不快なのかと認識する。ちょっと我慢してやってみる。気持ち悪いとか、不愉快だとか。それが自分にとって何か。目を背けない体験を増やしたほうがいいのではないでしょうか。
僕の父親は警察官で、男女が河原で自殺したりするのが流行ったとき、父は強引に僕を連れて行き、死体を見させた。ものすごくいやだったけど、そのうち死体から目を背けることはなくなった。特別何か考えることはなかったけれど、その光景が焼きつけられました。
だからみんなにも死体を見ろというのではなくて、「自分が目を背けていることは何か」と問うことはしてもいい。事実、いまの世界は大半が死体だらけで、居心地の悪いことばかりです。それをないものにしては世の中の矛盾がわからない。
人はまちがいなく死ぬ。死ぬまで人は変わり続ける。昨日に対して責任とれないくらい変わる。私の思いと身体はごろごろと変わるのだから、それがちゃんとわかっていたら自分の死にも驚かないですむ。
きっと日常に驚いて生きている人は、死を驚かなくなるんだと思います。きれいな花が咲けば驚く。それは自分の身体の中から好奇心が飛び出して行くような感性です。好きな子と並んでいて、手は動いていないのに、感覚では手をつないでいる。そうしたことが日常になれば身体はもっと広がるでしょうね。
(注1) 「暗黒舞踏」という新しい表現形式を確立した舞踏家。70年代に重心を低くとりガニまたで踊る独特の様式を完成させるなど他分野の人々にも衝撃を与えた。
Min Tanaka
田中 泯
1945年東京生まれ。舞踏家。学生時代からクラシック・バレエとモダン・ダンスを学び、モダン・ダンサーとして活動した後、73年から一人だけの活動に入る。78年に「身体気象研究所」を設立し、以後、内外の舞踊祭・演劇祭への招待参加、独舞、グループ作品の公演を始める。'80年代前半には土方巽に師事。85年に山梨県白州町で農業と舞踊を合わせた実践を開始。95年には「舞踊資源研究所」を設立し、現在、農事組合法人・舞踊団「桃花村」を主宰。2002年には初出演した映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞し、話題を集めた。