

Yasufumi Nakoshi
名越 康文
1960年奈良県生まれ。臨床をおこなう傍ら、テレビ出演やラジオパーソナリティ、漫画・映画評論、「殺し屋1」(4巻より)、スピリッツで連載中の「ホムンクルス」の原作ブレーン、文筆業など幅広く活躍中。
名越 康文 さん(精神科医)
何か凶悪な事件が起きるたびに専門家が登場し、病名をつける。鬱病が増えている。近頃の子供はヘンだ。私たちはそんなニュースにすっかりなれてしまった。本当に現代社会が心の病を次々と産出しているなら、そんな世界でどのように息をつないで生きればいいのだろう。今回はバラエティ番組で円やかな大阪弁での語り口が印象的だった精神科医の名越康文さんに尋ねました。
僕は小学校4年生以上の子供でコミュニケーションに苦労したことはないです。ただ、表情の硬さの目立つ子供が増えています。精神科で一番初めに習う診断法に「視診」があって、この「表情が硬い」という言葉は統合失調症(注1)の診断に使います。「硬い」といえば普通は緊張しているという意味ですが、専門家の言う「表情の硬さ」は統合失調症が視野に入っています。10年前なら「この人はかなり表情が硬いから統合失調症を視野に入れて診断せなあかんな」と思えたけど、いまはそうした基準が通用しなくなってます。

いろんな原因が考えられます。インターネットやゲームにどっぷり浸かるとか直接的なコミュニケーションがなくなってメールでやり取りするとか。家族の中でも直接的なコミュニケーションがなく、顔と顔を見合わさずに、母親はパソコンを見ながら、子供はものを食べながら話しているとか。もともと日本ではあんまり直接顔を見てコミュニケーションしませんでしたが、もっと顔を見合わせなくて済むアイテムや状況が出てきたことが原因ではないかと思います。
でも、いまの子はコミュニケーションが下手かというと、そうではなくてネットを通じてうまくコミュニケーションしています。だから今後どうなっていくかを否定的に考えたくはないけど、明らかに表情の硬い人が増えているのは確かですね。
いまの若い子がネット漬け世代なら僕らはテレビ世代で、これからはもっと違う表現が出てくるでしょうが、何かにつけて過渡期の時代です。
過渡期って1年で済むもんじゃなく、歴史的に見ても少なくとも数10年は続く。いまの高校生も人生の大半を「過渡期の時代」で過ごすと思います。そういう時代は精神的な病は増えるし、また形を変えて、次々出現してくるのでしょう。
でも過渡期の時代に失敗を恐れていてはいけないのではないかと思います。いまから2〜30年も前だったら失敗するよりも堅実に生きていけば、そうストレスが溜まらず生きられた。
たとえば60年代、大阪に千里ニュータウンという大規模な団地が建てられたけど、部屋はすごく狭い。洗濯機のすぐそばに冷蔵庫があるという感じ。でも元気に暮らせた。それは時代の閉塞感とフラストレーションがいまに比べたら少なかったから。目に見えるフラストレーションは、いまよりすごくて四日市ぜんそくや水俣病とか目に見える公害はすごかった。
いまは世の中が便利になったけど、目に見えないストレスがずっと増えている。そういう中で昔はいろんな不自はあったけど、生活を守り、終身雇用制の中でコツコツ仕事を積み上げてゆけば、「着実に発展を遂げていく」という一体感や社会に対する貢献度が感じられたから、「生活を守る」ことができた。

フリーターが趣味の世界を持って、生活と趣味とを行き来していて、それで満足しているならいいと思います。ただ、彼らが生活をいざ守りだしたとき、見えないストレスを溜めていくのではないか。親の世代と同じように、堅実に生活して行こうとするとき、目に見えるストレスはとりあえずないから、「これに納得して生きてゆけばいい」と思って暮らし始めたとしても、たとえばクリエイティブな素養を持っている人は、しだいに強烈なストレスを溜め込んでしんどくなったり、鬱っぽくなってゆく可能性はあると思います。
自分の中のストレスを見えないようにしている同調圧力的なものがあります。「みんなと一緒にやっておいたほうが安全で、突出したことをやるのは危険」という圧力は、実は前世代が無意識的に持っていたものです。無意識的に持っていたものこそを僕らは引き継ぐわけです。前世代の人が基本的に持っていた「同調性の中で生きていくのが安全である」ことのリスクの面が精神的な病に出ていると思います。
分裂病が統合失調症という呼び方に変わったアカデミックな理由は知らないけど、僕は感覚的には統合失調症という言い方が好きですね。分裂病は完全に分裂して、くっついている部分が全然ないとイメージされるけど、統合失調症はその人と会話は一応成り立つとしても、全体的なバランスや文脈が失調しているところがあるというイメージをもてる。
失調気味の人を見ていても、昔に比べて分裂病というよりは「統合の失調」という感覚のほうが近くなっています。病気が時代の中で変化してきたのかもしれないのと、効き方のバランスがいい薬が出てきたこともあるでしょう。
人格障害については、20世紀の人格障害といえばボーダーライン(境界性人格障害)」という時代がありました。ボーダーラインの目立つポイントは他罰性と同時に自罰性があることです。すごく自分の体を傷つけたり、破滅的な行為もするけど、復讐的な行為が目立っていた。
相手を傷つけるためには自分を破壊してもいいといった復讐的な他罰性が前面に出ていました。そういう傾向が高いものをボーダーラインの範ちゅうに入れていたけど、それが影を潜めて、自罰傾向の強いボーダーライン性を持った人が増えてきた。人に対して非常に配慮するし、なんとか人との友達関係を築こうとするけど、それは無理している偽りの自分で家に帰ると自分が何者かわからない。解離状態になって現実感がなくなり、不安や恐怖でパニック状態になって自傷に走る。基本的な心性はボーダーラインと似ているけれど、出方がかなり違います。親しくなった恋人には、他罰性が高くなって攻撃性を丸出しにする場合もあることはあるけれど、明らかにレベルが以前席巻したボーダーラインとは違います。

社会の趨勢とリンクしていると思います。この世にフロンティアがなくなったとことと関係しているのかもしれない。
たとえば西部劇の頃のフロンティアは現実の荒野だと言われていたけど、やっぱり地図の上でバーチャルに描かれていたわけです。本当か嘘かわからないけれど、白人がネイティブ・アメリカンに「これがこの大陸で、ここらへんがお前の土地なんだけれど、10ドルで買いたい」といった話があります。紙の上に書かれている線で囲まれた絵と実際の地面が対応していることを、ネイティブ・アメリカンはわからない。わからないまま何万エーカーという土地が取られた。
その時代から「フロンティア」はバーチャルの走りで、ともすればバーチャルな世界で人間は凶暴性を発揮します。何万エーカーという土地は何百世帯という人が住んでも広すぎる。それでも「隣のやつらはもっと安い値段で広い土地を手に入れた」と聞いたら、それを地図で検証して自分達の所有地を、ちっぽけだと思う。実際には地平線の彼方まで自分の土地なのに、地図の上では米粒に見える。そしてもっと大きな土地をむしり取りたい欲望にかられだす。これがバーチャルですね。自分の欲望が完全にバーチャルな世界に取り込まれたとき、人間は途方もない攻撃性を発揮する。
80、90年代に、日本企業がニューヨークのビルをたくさん買って、自分の中のフラストレーションを外への攻撃性として発揮していた部分があったと思うんです。そのときにボーダーラインが隆盛を極めた。
ところがそういうフロンティアはもうなくて、日本には借金しかないとなったとき、自分の中のフラストレーションを人はしだいに自分自身の側に向けていく。そういう傾向がリンクしている感じにも見える。これは僕がつくった物語に過ぎないけれど。
そこは微妙なところで、そういうことを精神医学はほとんど解明できていない。ただ、すべてがそうかというと疑問だけど、往々にして現実的な夢や希望は、現在の自己認識に対して、強烈なフラストレーションを持ってるからこそ「理想や夢を持てる」として昇華されているところはあると思う。
僕は自分の欲望は、バーチャルな世界から直接的に読み取るのではなく、現実の宇宙的な世界や存在論的、形而上的な世界を個体の人間を窓にして獲得していかないと、ものすごく攻撃性を秘めたり、あるいは論旨ばかり先行して、いびつな欲望になってしまうのではないかという直感的な確信があります。
ひとつの論理に感動して、その美しさだけを追う。あるいは「お金を手に入れるとこれだけのことができる」という思いだけで突っ走ると、凡庸な言い方だけど、人間性の崩壊につながる。理想や夢、希望は自分が感情移入できる人格、人間を通じて、その人を出窓にすることではじめて、ある中庸が保たれるのではないか。
たとえば、メカが好きでメカの本ばかり読んでいるとします。ある時期まではそれでいい。でもある深度以上のものは、たとえばそれに自分の夢を馳せた青春を送った人物に出会わないとそれは地に降り立たないんじゃないか。その人の人格形成のバランスが取れなくなるんじゃないか。そういう人物に出会うことを「師に出会う」と呼ぶんだと思います。
どれだけ情報の流通があっても、自分が抽象的な世界に夢を馳せる憧れを持っていても、ある人格に結びついた出会いがないと、その憬れを持っている人の中に結実していかない。次の世界に行けない。もっと高みに達することができない。
第一は発心、第二は師に出会うこと。僕は生きた人間との出会いが幸せだと思う。人間が窓になる。自分にとってより広い宇宙や地平を見られる窓になれる師。それは盲目的に信じる師ではなく正にひとつの窓で、その窓を通じて世界を見ることがすごく大切。それが精神のリレーになるし、自分の精神が死んでも人から人にリレーすることができる。それを間違えるとカルトになりますね。

スーフィー(イスラム教神秘主義)の言葉に「砂漠のように乾いた心を持つ人は必ず師に出会える」というのがあります。自分が強烈な精神の乾きを持っていたら水がーこれは師のことですけどーすっと自分の中に入って来る。乾きはハングリーさや愛情が枯渇しているとかじゃなくて、なんといえばよいかもっとスピリチュアルな枯渇です。そしてその渇きを感じとるためにはそれ以外のことに「満足」していないと難しいんです。
残酷な言い方かもしれないけど、「自分はひどい目にあっている被害者だ」と親や友達のせい、社会のせいにしている人は師と出会う確率は低いと思う。「それでも自分は恵まれている」と思えるというのは、ある程度の成熟と精神力がないと得られない境地です。いつでも何かが足りない、それは他人のせいだという人は必ずとり逃がしてしまうと思う。ある程度のものを獲得したから、これで満足できるはずなのに依然として心の奥の方に何らかの乾きがある。それが師と出会うチャンスになる。これをわかってない人は「もっと足りないからくれ」と貪欲になって、「俺に何か教えてくれ」というから間違った選択をしてしまう。
自分が実は満ち足りていることを知っていて、その上でなおかつ乾きがある。そうした不可思議な乾きを認識したときに師に出会うチャンスがあるんだと思います。
自己評価が低いとは、ある種ひとつの要因になっているけど、それがすべてではない。僕も実は自己評価が低いですが人のせいにしたくない。それをむしろチャンスと思いたい。
僕の場合は、とりあえず他人に合わせることはやめよう。自分のやりたいことをやろうと思いました。いま、夢を持とうとしても、自己評価が低すぎるから断念してしまっている人がたくさんいます。
本当にやりたいことがあるといいことがあります。それは夢を実現させることではなくて、周りが見えなくなることです。周りが見えなくなることって大切なんです。でもそこで変なものに引っかかるとしたら、根本に他罰性があるんだと思う。手前勝手に誰かのせいだと思っていて、一方向にしかエネルギーが向いていないから紛いものに引っかかる。どこかで手っ取り早く自分を評価してほしいと思っている。
本当にやりたいことに向かって没入することの良さは、自分が錬磨されるとか新しい自分に技術が身に付くとかじゃなくて、そういうのは結果としてついてくることで、一番はつまらないことに惑わされないで済むこと。全身全霊のエネルギーを炸裂させるから他が見えない。その味を知ったらこっちのもん。その集中している時に「自分は自分だ」という感覚、そこに存在している感覚を得られる。ガッと集中したときには、まったく自由な世界が展開されていて、それはボーっとしていても手に入らない。何かに集中しているときに本当に自由な感覚が出てくる。

コミュニケーションといっても、うなずくばかりが取りえじゃないし、たとえ無愛想な人でも、実は真剣に話をきいてくれている方がいいわけで、マニュアル化されたコミュニケーションなんかむしろ学ぶ必要はないと思う人です。
僕が相手に共感し、相手がわかって欲しい部分ばかりとりあげても、駄目なわけで「あなた意外にこうでしょう」というところがないとカウンセリングになりません。でも、「相手の気付いていないところをこっちは気付いている」という物語ができたとして、それで相手の心をわかることになるのか、そうでないかは微妙なところです。「よくわかってくれている」と思うことに限って、何か月か経てば、「結局わかってくれてなかった」と幻滅されることもありますから。
真実を言えばー真実は身も蓋もないもんやと思うけどー、一所懸命カバンつくる人がいて、学生がなけなしの金で買って帰ったとします。その後、そのカバンがどうなるか職人はわからない。でも、カバン屋は心を込めてカバンをつくる。カウンセリングも究極はそういうところがあります。
カウンセラーのもとにある日クライアントが来なくなった。カウンセリングが必要なくて止めたのか幻滅したのかは決してわからない。治療を終結したといえる場面もあります。診療室に来なくてもよくなった人の顔色を見ていると、「自分の体で生きている。感覚的に自前で生きている」感じがします。自分で生きている感覚が出てきたら、表情も身体も変わります。

ニーチェの言葉で「朝起きたときに、その日の体調で紅茶にするかコーヒーにするか。紅茶ならミルクかレモンか、蜂蜜にするかに時間をかけるのは人生において全く正しい。しかし人生の重要な決断に関して逡巡する人は、人生を真剣に生きてこなかったと自戒するべきだ」というような意味の言葉を読んだことがあります。
感覚的に何が大事かをどこかで意識している人は、重要な場面でチャンスを逃さない。とにかくチャンスは捕りに行くものだとばかり思っている人は、本当のチャンスを逃しているんじゃないか。
チャンスは待つもので、来た!と思った時に逡巡していたら通り過ぎてしまう。人生のこまごまとした部分で「今日はケーキにしようか。フレンチトーストにしようか」は迷っていい。
でも、大事な場面で逡巡するのは、お勧めしない。そんなこと3日考えてもそれまで考えてこなかった人が考えられないでしょう? 心の奥底で意識しているものであって、そのチャンスをじっくり待っている人は身体全体が熟慮しているからその決定的瞬間に決められるものなのだと思います。
(注1) 思考や行動、感情を1つの目的に沿ってまとめていく能力が長期間にわたって低下し、ある種の幻覚、妄想、ひどくまとまりのない行動が見られる疾患。
Yasufumi Nakoshi
名越 康文
1960年奈良県生まれ。臨床をおこなう傍ら、テレビ出演やラジオパーソナリティ、漫画・映画評論、「殺し屋1」(4巻より)、スピリッツで連載中の「ホムンクルス」の原作ブレーン、文筆業など幅広く活躍中。著作に「スプリット」(甲野善紀氏、カルメンマキ氏との共著・新曜社)、「キャラッ8(パチ)」(幻冬舎)、「14歳の子を持つ親たちへ」(内田樹氏との共著・新潮社)など。
【名越 康文さんの本】

『スプリット』(新曜社)

『キャラッ8(パチ)』(幻冬舎)

『14歳の子を持つ親たちへ』(新潮新書)