

Sugok Shin
辛 淑玉
在日コリアン3世。東京生まれ。1985年、人材育成会社(株〉香科舎設立。1996年、「人材育成技術研究所」開設。管理職研修、評価プログラム開発を行う。大学、専門学校、ビジネススクールなどで講議、公開講座を担当し、テレビ・ラジオにも出演。
辛 淑玉 さん(人材育成コンサルタント)
人に対して怒りをぶつけるのがなぜか不作法に思えたり、かっこ悪いと思ったことはないだろうか。でも、どうして素直に感じていることを口にするのにためらいを覚えるのだろう。嫌われたくないから? 人との調和を乱したくないから? もし、あなたが知らないうちに学習した結果、怒りの感情を抑制していたとしたらどうだろう。ちょっと恐くないだろうか。今回話をうかがったのは人材育成コンサルタントで『怒りの方法』を書かれた辛淑玉さん。怒りとは愛から発するもっとも人間的な感情であることを話してくれました。
暗黙の了解によって言葉がないままに物事が進んで行く、霊感師でなければ生きていけないような世の中ですよね。
言葉にするとは、言葉を介して人と人とが連帯するということです。
ところが権力者は、人々が連帯して手をつなぐことを嫌います。孤立させておけば支配とコントロールが簡単だからです。だから支配者にとって、人々に怒りの感情を持たせないのはとても大事なことなんです。「おまえと同じ考えを持っている者などいない」「(そんなことに怒る)おまえはおかしいんだ」というメッセージを吹き込んで、分断していく。
「これは何かおかしい」という怒りを持たせないように、システムがつくられているんです。興味のある人にはチョムスキーの『メディア・コントロール』を勧めます。支配する側が個人をいかに分断し、恐怖に陥れるか。それが手段として確立されていることがわかります。
例えば、大人が子どもを殴るとき、「そこまでしたおまえが悪い」などと言います。でも、「そこまでやったこと」と「殴ること」は別です。この二つを別々に考えることのできる認識や論理が、殴られた人の中で確立されないように支配者は仕向けます。

高校生4人が盗んだ車で国道を走り回り、パトカーとカーチェイスの果てに捕まったことがありました。捕まったのは、民族・国籍、家庭の経済的事情など、それぞれ少なからぬハンディを背負った子たちでした。
最初に返された子を私と彼の担任とで引き取りに行ったんですが、彼はその時「オレ、退学だろうな…」と呟いた。私も、そうなるだろうと思いました。
でも、その担任の教師は、「警察に捕まったからって、なんで学校やめなきゃいかん? お前は学校行きたくないんか?」と彼に向かってずっと問いかけた。そして、「学校は勉強しに行く所だろ? おまえはもう警察と社会から制裁を受けたのに、なぜもう一度学校から制裁を受けないといけないんだ? おまえたちが窃盗をして車を運転したことと学校で勉強できなくなることがなぜリンクするんだ?」と。それを聞いて、はっとしました。その教師はさらに、「なんでおまえひとりだけ返したと思う? 警察はおまえを出すことで分裂させようとしているんだ」と続けたんです。
その教師は、「町内だけで走り回っていれば捕まらなかったのに、なぜわざわざ国道で走ったと思う? ここから国道を抜けて向こう側に行きたかった、どうしようもなくて、辛くて、この町から逃げたかったんだ。そういう思いにさせたのは大人だろう」と言ったんです。そうだなぁと思いました。分断させて、声をあげることを許さない社会に私たちはいるんだと思いました。
最近の事件で怒りを抑える巧妙な罠だと思ったのは、イラクで殺害された香田証生さんの一件ですね。大人の言うことに逆らうと「こういう目にあう」と言わんばかりの報道のされ方だった。100ドルしか持ってなかったとか、短パンだったとか…。でもそんなの、若者だから無謀なのは当たり前です。
それを見事に、「あいつは殺されても仕方ない」と、怒りを持たせないように仕向けた。あれが怒りの抑え方です。一度でも逸脱したら終わりだ、大人に逆らったらこうなるんだ、という見せしめですよ。ああいうふうにして怒りが抑えられるんだと思いました。
「なぜかわからない(うまく言葉にできない)けれど、これはおかしい」と言うことが許されないのは、「論理的でないのは稚拙なことだ」と思わされているからでしょう。感情表現が「女子ども」の世界に追いやられているんですよ。
でも、感情を表すことは稚拙ではない。ハッと怒る瞬間はもっとも人間的な瞬間です。人をなぜ好きになるか、考えてみてもわからないでしょう? 理論はあとからついてくるものなんです。ところが、相手にとって都合の悪いことは、「よく考えてから言え」と言われる。おいしい食べ物を前に、「考えてみよう」とは言われないのに。
「よく考えて言え」というのは、人間の本質的なものへの挑戦で、マインドコントロールでもある。それによってどんどん「こうあらねばならない」という枠の中に追い込まれて、そこからの逸脱が許されなくなっていく。支配者は、「みんな一緒でないといけない」と言うものです。
ここで言う支配とは、いわゆる絶対的支配者だけでなく、上司から部下、大人から子ども、男から女といったもので、つまりあらゆるものが階層になった、強い者が弱い者を支配する構造のことです。
そうした支配の罠に騙されるのは恥ずかしいことですよ。騙されていたから自分には責任がない、と思う人はたくさんいます。「知らなかった。教えてもらってない」と開き直る。でも、平気で「教えてもらってない」なんて言うのは恥ずかしいことです。
平気で「騙された」というのは、責任をとりたくないからでしょう。騙されたと言えばすべての責任から逃げられると思っている。この社会では責任をとることを教えない。それから、強い憎しみと向き合うとか、他者の感情と向き合うことを教えない。だから、例えば泣いている人をどう慰めていいかわからない。
日本のお葬式で不思議なのは、遺族は悲しみに暮れているから話しかけてはいけない、と淡々としていることです。私は、自分の知人が死んだら簡単に気持ちが整理できないから、葬式では遺族に話を聞いていいかと尋ねて、「最期に何を食べたのか。何を話したのか」とか、いろいろ聞きます。そうして話を聞くと、だんだんと納得できていきます。聞かれた遺族もいっぱいしゃべります。それは話すことで自分自身の中で整理されるからで、何も語らないうちに焼かれてしまうと気持ちの収まりがつかない。死んだことを認められない感覚が続くわけです。遺族も聞けば話すのに、この社会にはそういう、人とつながっていくためのコミュニケーションがないんです。

それぞれの役割を逸脱してはいけないというのは、「人とつながってはいけない」からでしょう。「みんな分をわきまえて、お上のほうを向きなさい」ということ。イラクで今井紀明さん、郡山総一郎さん、高遠菜穂子さんが拘束されましたが、この3人は自己責任だといってさんざん叩かれた。中でもメディアによるバッシングがひどかったのが、高遠さんと今井さん。つまり「女子ども」ですよ。女や子どもが自分の頭で考えて行動することを許さない。そして、分をわきまえないといって徹底的に叩く。これが分断のやり方です。与えられた枠から逸脱した人を見せしめにして制裁することで、政府に怒りの矛先を向けさせないのです。
処理できない思いを溜めて行くのはとても危ない。その怒りはどこへ行くかと言えば、自傷行為やドメスティックバイオレンス(以下DV)です。テロすらできない人がDVを行う。DVは、自分の支配できる相手にだけ暴力を向ける。ある意味ではテロより悪質です。
子どもの頃から「なんでみんな怒らないのか」と思ってました。与えられた、決められたことをやるのがなぜ苦痛じゃないのか不思議だった。私には自分で考えることの楽しさがあった。「実はみんな指示を待っているんだ」と気付くのに40年かかりましたよ。
私は小学校もまともに出ていない。というのは、学校の、あの中で生き残っていくには自分を殺さなくてはならないと思っていたから。高校までの12年間学校へ行ったら、傷つかない子はいないんじゃないですか。まず公平さは絶対ありえないし、まっすぐ立って「はい」と返事しないといけないとか、やたらルールがある。そんなことに従順になっていたら、絶えず変化するマーケットに向き合う人材の育成なんて仕事はできないですよ。知識の伝達は興味を引くことができなかったら終わりだし、そもそも教える側が王様でいたいようでは、人を育てることなんてできないです。
私と高等教育を受けた人たちとの差は、嫌なことをやり続けることができるかどうかです。それは私にはできない。嫌なことをいかにおもしろくするか、はできます。でも、彼らはおもしろくないことでもずっとやり続ける。そういう習い性がある。これは偏差値の高い学校に出た子に見られる行動様式です。

学校へ行くのは変だ、と感じたのは、そこにいたら自分のことを愛せなくなると思ったからですね。それに、自分の勉強の仕方は人とは違うとも思っていました。ドレミもわからなかったけど、音はわかった。ある日、笛をもらって「ミ」の吹き方だけ教わった。そしたらドレミファソラシドがわかって、すぐに1曲吹けるようになった。つまり、私はそういう感じの学習の仕方であって、それでいいと思っていた。結果としてできているわけだから。みんな同じパターンで勉強しないといけないと思っているけど、人それぞれなんだから同じパターンで理解できるわけがない。
学校という空間の中で我慢していられるほどのこらえ性はなかった。あそこにいるならひとりのほうが楽でした。ひとりは孤独でさみしいこともありますが、凛としたすがすがしさがあるのです。仮面クラスメートとして学校にいるほうがぞっとする寂しさがあると思いますよ。ひとりのときに勝ち得た自分の人生と空間と時間には、何物にも替えがたい価値がある。
みんなと一緒にいなくてはいけない、みんなと同じことをしないといけないというのは、コントロールする側の思うつぼですよ。
学校教育に疑問を持ったので、もっと多様な生き方を伝えたかったし、そのためのひとつの場として企業内研修があったんです。私は朝鮮人だから国籍条項によって学校の教師になれませんからね。
この道は駄目だから諦める、のではなく、この目的を達成するにはどういう道があるかを考える。それでやってきて、20年経ちました。学校に行ってないし、朝鮮人で女だし、独身で何も肩書きがない。だから何でもやらないといけなかった。
だから、10代の頃にやったアルバイトは数えきれないですよ。物品販売からヤクルト配達、皿洗い、アサリの行商と、若くてできる仕事はなんでもやりました。ひとつも手を抜いていないから、それがいま役立っています。仕事の上での経験が学校で勉強する以上の学びを与えてくれた。つまり、社会に働きかけるとは何か、役に立つとはどういうことか、を学ぶことができましたね。
夢があったわけではないし、生き甲斐なんて考えていられるほど暇ではなかったですよ。家族の生活を支えなければならなかったし、生きるために日々があった。考えている暇などなくて、とにかく生き抜かないといけなかった。
その中で学んだのは、何でもやれば何か当たるということです。私の喧嘩の勝率は1勝9敗。強い相手とばかり喧嘩するから、ほとんど勝てない。勝てないとすぐみんな諦めるんだけど、それは数をこなしていないからです。数をこなしていると、たとえ9割が失敗でも、それが経験になることがわかります。失敗が楽しいのは、次はどうやって勝とうかって思うから。
他人に評価されても何もおもしろくないんです。学歴というのも人からの評価でしょう? 私は今から英語を勉強しようと思うんだけど、それは英語ができないと国際社会で人を救えないからなんですよ。難民キャンプで地雷を踏んで怪我した子どもを救えない。医薬品はあったのに、説明が英語で書いてあって意味がわからなかった。その時、ああ英語をやっておけばよかったと思った。

愛しているからこそ怒るのだし、怒りがあるから闘える。自分の大切な人が叩かれたら許せないよね。愛していれば、怒りは自然と出てくる。
でも、周囲を見ると、愛されたい人ばかりで、愛していないんだよね。
「あなたにとってかけがえのない私」にはなりたいけれど、『私にとってかえがえのないあなた』とは考えない。だから、相手が自分が想像するとおりに愛情を返してくれないと不安になったり、不満を持つ。これ、自己愛なんだよね。多くは存在証明なんだろうな。でも、誰もあなたの思う通りになんかならないよ。相手には相手の人生があるんだから。
自分にとってかけがえのない人(こと)のためなら、力も出てくるよね。
そして怒りは、環境を変えるための力なんです。
相手との関係を切ってしまうのではなく、より良い関係や環境を作るために、これでは嫌なんだと伝えるのが怒りなんです。その怒りをきちんと表現することが、人を愛することにもつながるんだと思います。

『怒りの方法』韓国語版表紙