

Katsumi Hirakawa
平川 克美
ビジネスカフェ、リナックスカフェ社長。早稲大学卒。1977年渋谷道玄坂に翻訳会社アーバン・トランスレーション設立。2000年、ビジネスカフェジャパン設立。01年、秋葉原にリナックスカフェを設立。現在両社の代表。
平川 克美 さん(リナックスカフェ社長)
ニュースやコマーシャル、書籍とメディアで脅迫的に繰り返されている文言が、「勝ち組」「負け組」という二分法だ。負けないためには競争相手より優位に立つ戦略的振る舞いで勝たなくてはいけない。それが重要だとアナウンスされる。そんな中、『反戦略的ビジネスのすすめ』を書いた平川克美さん。会社を経営する立ち場でいながら、どうしてまた? 反戦略に込められた考えを尋ねました。
「戦略」という言葉はビジネスの中できちんと定義されていなくて、口癖のように使われています。「戦略なんとか」といえば、なんか特別な価値が付くかのように錯覚してしまうのですね。「戦略的ラーメン屋選び」なんて具合です。戦略とは本来は戦争の言葉づかいですが、そういう自覚がないまま「戦略」という言葉だけが独り歩きしているのが現状です。いずれにしても競争相手との戦いを有利に進めるための仕掛けや智恵をさすのでしょう。
本来ビジネスは、競争的な側面と、競合的な側面の両面を持っています。いや、ビジネスをどのように考えるかというのは、百人百様でよいわけです。
確かにビジネスは闘争だというふうに次元を変えて考えると、新しい視野が得られる。そういう考えをビジネスに導入して「戦いを有利に進めましょう」というのは、まあ正しいかもしれない。でも現実のビジネスをそういう言葉だけで語ることは違うでしょう。というのも、ぼくはそういう連中と随分一緒に仕事をしたけれど、どうしても実感として「何か違うな」という思いが拭えないからです。

恐らく、かつては「戦略的思考」なんてしなかったんですよ。日本のビジネスでは「損して得取れ」とか「お客様は神様です」という言い方がされていて、いかにお客さんとサービスの提供者が良好な関係を築けるかを中心にビジネスが組み立てられていた。
それがあるときから、「競争で勝ち抜かないと成功しない」となって、ビジネスとはそういうものだという考えが支配的になってしまった。
最終的にお客さんとの関係を損ないます。僕は「MBA(注1)なんて別にいらない」と言ってるけど、それはMBA自体が悪いわけではなくて、そういう資格を持った人と仕事をしてきた実感からで、現実のビジネスの現場で役に立たない。つまりやたら立ち回りだけはうまくて、ビジネスの中での関係性を掘り下げるとか責任を取るとかに関心を持たない。はっきり言えばセコイ。ビジネスにはやっぱりある種の贈与や自己犠牲の精神が必要だったりする。でも戦略的に生きる人にとっては、そういうのを必要と感じない。だから会社が危なくなると沈む船から逃げ出す感じで逃げるわけで、確かにそれは当然だけど、ビジネスに倫理観はなくてもいいと傾斜していくことに危機感を感じる。

それがよくわからない。MBAもひとつのキャリアパスと捉えていて、そういうもので人をコントロールしようという考え方がぼくの美学と相容れないのです。大学を出て、一度は企業で働いた上で自分のステップアップを目指してMBAで学ぶのはいいけれど、企業の階梯の中で上のポジションをとって、人を顎で使いたいからMBAを取得するという発想は嫌ですね。そういう考えの傾向がベンチャーとかそういうものと一緒に日本に入ってきた。まあ、ひとことで言うならこういった風潮にうんざりしているわけです。
そういう考え方の根っこには、経済的に成長することがいいことだというのがあります。もうすこし丁寧な言い方をしますと、経済成長が人間の諸問題を解決するんだという信憑があるということです。実際には経済成長が解決するのは問題の一部に過ぎません。経済成長は善だという思いは根深い。現実に新聞は株価の上下に一喜一憂していますから。
いや、経済成長を否定するのはとても難しい。頭の中ではそうできても、実際の生活は便利になるし、それを期待するでしょう。欲望は増殖するもので、ひとつ獲得したらもうひとつ欲しがる。欲望は観念の中で沸き起こってくるから、個人的にはともかく、マスとしてみるとコントロールできない。それにいまの企業社会で会社が成長を否定したらどうなるか。そういう発想する人は負け犬根性と言われますよ。その圧力はすごいものがあります。
アメリカを中心としたグローバリズム。これを源とするのが新資本主義と言われるもので、国境を超えて物を売り買いする自由は最大限尊重されるべきで、それをコントロールするのはよくないという考え方です。そうすることによって世界は豊かになるんだという。実際その通りだけど、それに対してのアンチグローバリズムがヨーロッパやいわゆる「第三世界」にある。ヨーロッパと「第三世界」では若干スタンスは違うけれど、ヨーロッパではスローフードやスローライフという運動が起きています。でも、果たしてグローバリズムのアンチがスローフードなのか? 個人の趣味嗜好ならいいけど、世界が経済成長の恩恵を受ける中、生活スタイルを変えていこうとするとやはり宗教的にならざるをえないし、「奇妙な人たち」という扱いになります。
グローバリズムに対して、スローダウンしましょうというのではなくて、ぼくが言いたいのは「普通の人が普通に生活し、それでも十分やっていける」こと。つまりグローバリズムに乗り遅れると負け犬になるというメッセージがいま世の中に蔓延しているけれど、そんな脅しにのる必要はないってことです。

結果だけを追うのでなく、プロセスを重視することではないかと考えています。何が根本的にビジネスで大事なのか。それを確認すると、確かに大きな成長はないけれど、進歩はできる。成長はないが進歩はある。そういう考えだと精神的、物理的に破綻しない。
ほとんどそうでした。もちろん「お金もうけだけじゃないよね」って思いはありました。お金もうけだけなら職業を選ばない。だけど「この仕事をやって生きていきたい」と思ったら「お金だけではない」という思いはあるし、なおかつうまくやっていきたいし、仕事を拡げていきたい気持ちがあるのは普通です。だけどそのときの立ち位置が大事なんだと思います。
常にいまやっていることが自分にとって「何か」を与えないなら、いまやっていることの先には楽しいことも実りもないと思っていました。
いまやっていることがとっても大事なので、将来のために「これを我慢しよう」とか「自分の意に添わないけどやろう」としていては、必ず自分が思っているのとは違う方向にいくだろうという実感が常にありました。

結局引き合わないんですよ。例えば、人には「セレブ(変なことばですが)になりたいという気持ちがある」とします。列に並ばないでも、店に入れてくれる立場になりたいとか。セレブというポジションだけが欲しくて努力している人はたくさんいて、そういう人をいっぱい見てきました。いわば店の前でガードしている人に贈り物をしたり、裏から物を渡したりといった努力です。そういう苦労をして並ばなくてスルーパスで入れるようになったとして、そういう人はやっぱりどこかで失敗する。そんなことをやって「セレブであるというポジションを獲得した」のが見え見えだから個人の信用は減っている。社会的ステータスはあがっても信用はさがるという交換をしたわけで、これは算盤にあわない。
その誘惑に負けている人はたくさんいます。それだったらいまのポジションでやっていたほうが信用を得られる。信用というカウントできない資産をぼくはインビジブルアセット(見えない資産)と言っています。ぼくがいう見えない資産は経済用語としてのそれとはすこし違うようですけれど。
やはりそういうやり方をして社会的ステータスを獲得したことで失っていることが確実にあります。獲得したものは目に見えるけれど、失った物は目に見えない。実は目に見えないものを蓄積するのがとても大事。
目に見えない物が実は目に見える物をつくっている。目に見える物が次の目に見える物を作っているんじゃない。マーケティングもそうです。客とビジネスをする関係では、こちらからは客が見える。例えば、30代独身で世田谷区に住んでいて、犬を飼い、日経新聞を読んでいる人の生活スタイルはよく見える気がする。そこに必要とされている物を提供する。ところが売れるときと売れないときがある。こちらからは向こうの客は見えるけど、向こうからは見えていない。そういうコミュニケーションになっている。じゃあ相手がこちらを見るための材料は何か?と言えば、それは見えない資産。つまり信用です。どんなにいい物を示されても、胡散臭い人から物は買わないでしょう。
予想と違って、むしろ経営者からいい反応があります。逆に定年間近の人なんかは微妙な反応。彼らこそ「その通り」と言うと思っていたんですが、そうでもない。
「おまえたちの気持ちはよくわかる」という内容のほうがよかったのかもしれないですが、それを言っても何の解決にもならない。ただ、ひとつ反省したのは、ぼくが言っているのは「強者の論理」なんです。ここで「強い」というのは、お金や地位を持っている意味ではなく、根拠のない自信をずっと持ち続けていて、打たれ強かったという意味ですね。
けれど、「おまえたちの気持ちはよくわかる」といった共同性におもねる言葉に頼っていては、説得力のある言葉は鍛えられない。孤独になると大半の問題は他人ではなく自分の問題だとわかります。自分の問題があって、それぞれが自分で考えて、人生に対する構えを獲得していく。それが個人の成長でしょう。それを抜きにどこかに答えがある。他人が何とかしてくれると考えるのは、やっぱり弱い。

ちょっと話が遠回りになるかもしれないけれど、例えばぼくと誰かが話をしているとき、二人だけの世界がそこにあるんじゃなく、「誰かが自分の意見に同意してくれる」ことを意識しながら話していると思う。これが小学生だと「こういうことを言ったら両親に怒られるな」とか親という第三者の承認を求める。人はそういった第三者の承認がないと会話できないのではないか。
中学生なら教師だったり好きなアーティスト。やがてイデオロギーを背景にしてものに頼るようになる。
成長するにしたがって、規範の基準を両親、先生、思想家というように自分から遠いところに求めるようになる。さらに進むと「第三者の同意や承認はあてにならないのではないか?」と思い当たるようになります。これが孤独ですね。だから思春期は口数が減ります。頼るものがなくなるし、自分の気持ちを理解してくれる人はいなくなる。でも、それはとても大事な時期。そのときに初めて自分で考えるわけです。
それまで自分の言葉で話していると思っていたのに、実は自分の言葉ではないことを知る。そのときに孤独と向き合えるか。または手近なものとそれを交換するか。例えば強烈なメッセージを発する歌手とか、とても楽しそうな不良の友達と過ごすとか。でも、そこで耐えた感覚が自信になるんだと思います。
そういう意味で、高校生はどうしようもないくらい輝かない時期と思ったほうがいい。落ち込んでいたっていいのです。
高校生で売春したり盗みをしたりイリーガルなことに魅力を覚えて、何かやった気になる子もいるけれど、それは全然何もやっていない。つまりそれだけリアリティのない時期なんです。
受験だって将来役に立つと思ってやっている子はいないでしょう。受験勉強はやりたくないことをやるわけで、いまを将来の犠牲にするわけです。そこでただやめてドロップアウトするのではなく、いまやっていることの中には、いまを犠牲にしない「そのこと自体に意味がある」ことがある。そのときにはわからないけれど、後から考えればわかるものがある。よく大人は「あのときもっと勉強したらよかった」と言うでしょう。そのとき苦役なのは、わからないことをやっているからです。でも、それをもう一歩踏み込んでこの苦役は意味があるかも知れないと読み替えてみる。そうしたら何か面白さが見つかると思います。
(注1) 経営学修士号(Master of Business Administration)の頭文字をとって略される学位。アメリカなどではMBA取得者の多くが企業のトップマネジメント、起業家として活躍していることから、高い社会的地位を獲得することにつながると見なされている。

平川さんの事務所で飼っている「マル」
Katsumi Hirakawa
平川 克美
ビジネスカフェ、リナックスカフェ社長。早稲大学卒。1977年渋谷道玄坂に翻訳会社アーバン・トランスレーション設立。99年、アメリカにビジネスサポート、インキュベーションを主業務とするビジネスカフェ設立。2000年、ビジネスカフェジャパン設立。01年、秋葉原にリナックスカフェを設立。現在両社の代表。著書に『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社)と内田樹氏との共著『東京ファイティングキッズ』(柏書房)。
カフェ・ヒラカワ店主軽薄
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu
Linux Cafeホームページ
http://www.linux-cafe.jp/
【平川 克美さんの本】

『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社)

『東京ファイティングキッズ』(柏書房)