

Katsuzo Takahashi
高橋 克三
1951年生まれ。都立青山高校、武蔵野美術大学造形学部卒。旭屋出版を経て、現職、学校法人「東放学園」でキャリアサポートセンター・センター長を務める。主に広報と学科の立ち上げにかかわる。
高橋 克三 さん(東放学園 キャリアサポートセンター センター長)
やりたいことが見つからないからとりあえずフリーターになる。そういう選択をする人でも、やはり専門的な技能で生きて行きたいという思いはあるだろう。不況という実情を考え、専門的な知識と技能を身につけようとする人も多いという。専門学校はそうした「実学」を身につけるためにある。今回は学校法人「東放学園」の高橋克三さんにやりたいこと、夢を定めるために必要なことを尋ねた。
専門学校を考える上でいいのは、例えば学校の文化祭です。芝居や映画、バンドなど披露する人がいますが、そういう表現をしている人たちが専門学校に入学すると思いがちです。でも、どちらかと言えば、それを見ていた人、拍手していた人が専門学校に来ます。すでにバンドでも演劇でも、表現活動をしている人は学校に来る必要はありませんし、どんどんやればいい。
ただ、そういう人を見て、自分もやりたいけれど、どういうふうにしたらいいかわからない。いまいち成り方がわからないけれど、法律や経済を勉強するよりは興味を持てそうだ。そういう人を応援する役割が専門学校にはあります。
また、演劇や映画、小説の書き方を学ぶことで、社会とかかわっていく仕方を学んで行く場所でもあります。村上龍氏の書いた『13歳のハローワーク』を体験しながら学んで行くといった場だと思います。

「自分は向いていない」と自分について深く知るのですから、それは大切な経験で、無駄になったわけではないと思います。大事なのは興味を持って躊躇することなく行なった事実です。やらないで考えていても発展しない。映画を撮るなり芝居をしようと一歩踏み出したことで自分は変わるし、取り巻く状況も変わる。そうすると新しい世界が開いてくるし、そこに新しい自分を発見すると思います。
「そんな自分では、いつも追い求めているだけの不完全なものでしかない」と思う人もいるでしょう。
専門学校や芸術系の大学が一番頭を抱えている問題は、技能に誇りを持ってコンテストにチャレンジする積極性の足りない人が少なくないということです。評価されるのを怖れている。つまり「自分は完全でないのに評価される。自分より経験のある人に評価されるのは平等ではない」というわけです。自分はまだまだ未完性なのに採点されて、まるで才能がないかのように扱われるのを非常に嫌う。
残酷な話ですが、評価する側は実は技能を問題にしません。技術は本格的に仕事を始めたらすごい勢いで向上すると口を揃えて言います。どちらかと言えば、その人が持っている斬新な考え、着眼点を大切にしています。そもそもクリエーターは常に自分が不完全だと思っているから作品を作り続けているわけで、表現をするモチベーションは、常に追い求める気持ちでしょう。あの葛飾北斎も納得する作品が描けないという思いを抱いて死ぬまで追求しました。それが生き甲斐となっていたはずです。
だから仮にボロクソに言われたとしても、それは既成の表現と似ていないだけかもしれないし、すごい価値あることかもしれない。
一方、生徒の中にはコンテストにたくさん出たがる人もいますが、そうした人の場合、ほとんど先人の作品を見てないのが特徴です。他人の作品を見ると「自分のオリジナリティが阻害される」とか「影響を受ける」といった理由です。自分の無垢な感性が汚されるというあまりにナイーブな考えの人が大量にいます。
さっきと矛盾したことを言いますが、斬新な考えや表現が大事でも、まったく新しい表現というのは誰からも理解されません。オリジナルといってもそれはある程度了解可能な「型」を通じて表されるわけで、型のないオリジナリティは他人に表現として伝わりません。
様々な影響を受けてこそオリジナリティが磨かれるので、小さな自分にすがりついてそれがコアなものだと主張しても、実際はすでにどこかの誰かがやっていたりします。そういう人は歴史を知っている人に「あの時代のあの人の作品に似ている」と指摘されると、ものすごく傷ついたりしますね。

表現の手段は大量にあるものでなく、ある程度のパターンがあるものです。だから他人に理解される。専門学校とは守られた環境の中で力を蓄え、外に勢いよく出るためにあります。でも、外に出るのが恐いから、また別の学校に行く人も多いのです。学校という狭い世界の評価や先生の評価を大切にして、傷つくことを怖れてチャレンジしないままでは、なかなか自分の求める答えも見つからないでしょう。
守られた環境の中でぬくぬくとしてもいいんです。無駄に時間を過ごすのもモラトリアムとしてはいいし、実学ではない知識を得ることで人間的に成長する時期でもあるのですから。
いま大学では実学をうたった講座も多いですが、本当にそれでいいのかと思います。いま役立つことは、「いま」役立つだけで10年後に役立つわけではない。実学志向は、そういう想像力の欠けた人を生み出す可能性はあります。いまという現状だけ見て、「役立つ」という考えに逃げているのではないですか。少なくない大学生が予備校の授業を懐かしがるのは、「人間形成」という実学とは直結しない、幅の広い授業に触れたからではないでしょうか。

入学してきた生徒の中には「ろくに文章も書けないのに、どうして小説を書きたいと思っているんだろう」という人もいます。絶対に向いていないと思えた人が2年で変身していることがありました。反対に優秀だと思っていた子が伸びなかったりします。
小説の書き方など創造の方法を教える授業は高校にはありません。そういうことを教える方法論に触れたことでいきなり開花する人もいるので、能力については一概に言えないですね。
ただ、日本の教育には表現に関するメソッドがほとんどありません。ちゃんとした教育方法が確立されていないので、才能は天から落ちてくるか、生まれつき備わっていると思いがちです。
天分は確かに大事ではあるけれど、小説だろうと映画だろうとエンタテイメントでは伝える形式がある以上、方法論が必ずあります。(注1)でも、一番大事な才能は好きであることではないでしょうか。
ありましたが才能がなかったんです。美大に進学したのですが、そこには才能がある人がいっぱいいて、そういう人は「表現とは何か」といった議論しなくても、唸らせるものを作っていた。そういう人にはかなわない。

高校のとき勉強をしなかったというのもありますね。当時、高校は大学紛争の余波を受けた学園紛争の時代でした(注2)。私の通っていた学校はそういう拠点でもありました。授業をボイコットしたり、テストを放棄したり。そういうことをしたのは、「こんな教育を受けていたらバカになる」。そう思ったんですね。
その当時、知能指数が高い人が集まっていると思われていた学校でしたが、その知能指数とやらは、産業社会にどれだけ役立つ人間かどうかとい目安でしかないことに気づいたんです。 産業革命のとき、経営者は大量の労働者を採用し、紡績工場などの生産ラインに就かせました。農民や教育のない人を区分するためのテストが知能指数としてはかられるようになった。つまり、偏差値の高い学校にいるとは、単純に工場で働く上で効率のいい人間でしかない。そういう挫折感に襲われたわけです。
だから、とにかくバカな歯車になるようないまの授業を放棄し、そのかわり大学院の院生を招き、授業をしてもらいました。
例えば微分積分も数式を覚えるのは簡単ですよね。でも、何でこれを学ぶのかと考えたとき、「これはものの見方であり、哲学に違いない」と気づいた。微分積分とは世の中の捉え方である。そういうものとして数学を教えてくれる人を呼び、講義をしてもらいました。
いま盛んに創造教育だの総合学習と文部科学省が唱えていますけど、あれは私らが昔やっていたこと(笑)。で、そういう創造的なことをやっていたら機動隊を導入されて排除されたわけで、私たちの問題提起を政治的なものに変えてしまったのは、大人という偉い人たちだったんですね。
受験勉強では得られない経験をしたと思います。でも、そうした試みが敗北し、私たちが思い描いていた世の中とは違う世の中になっていった。
だから80年代はちゃんと世の中と関わらなかったという気がします。いまの社会が人に要求している能力なんて効率のいい歯車でしかないのだから、そういう時代に役立たないことのほうがいいと思っていたんです。具体的に何かをすることをバカにしていた。でも、高校時代に私が経験したようなことやそこで培った精神に自信を持っていた人は、いまひとかどの人になっています。いまとなっては、世の中と関わらなかったこと勉強しなかったことはいいことではなかったと思っています。

例えば音楽系の専門学校にいた生徒の中にはソニー・ミュージックエンタテイメントやエイベックスなどのメジャーレコード会社やMTV、『ロッキング・オン』などの音楽メディアにかかわらなければ夢を実現できないと思う人が多い。『ロッキング・オン』も渋谷陽一さんが若い頃にやりたいことをやるために自分で作ったんだし、入ることに努力を傾けるより、自分のやりたいことを自分でやればいいと思います。
それに音楽をやるといってもアーティストだけでなく、楽器をつくる人、CDを売る人、コンサートを企画する人がいて、それぞれ音楽に愛情を持って仕事をしています。そういう人がいるから音楽を楽しめる状況がある。色んな形で音楽にかかわれるはずです。
単にアーティストやプロデューサーといった肩書きでなく、仕事そのものに憧れて、自分は何ができるかを見い出してほしい。
突き詰めると銀行員も編集者、警察官もミュージシャンも仕事のベースはほとんど同じなんだと思います。それは約束を守ることであったり、人と自分の意見を調整しながら仕事を進めていく作業であったりします。表現の仕事であれ、どんな仕事であれ大事なことは同じだと思いますね。
(注1)既成の形式を破る前衛的な表現はその限りではない。しかしピカソが10代で古典的絵画法やデッサンの達人であったことを忘れてはいけない。形式をマスターできたものが形式の枠を破ることができる。(高橋さん談)
(注2)1960年代末、高度成長と管理社会に対する異議申し立てを共通の背景とした「大学紛争」がベトナム反戦を引き金として全世界的に起きた。その余波を受け、1970年代初め「高校紛争」が起き、管理教育に対する見直しが求められた。
Katsuzo Takahashi
高橋 克三
1951年生まれ。都立青山高校、武蔵野美術大学造形学部卒。旭屋出版を経て、現職、学校法人「東放学園」でキャリアサポートセンター・センター長を務める。主に広報と学科の立ち上げにかかわる。
学校法人「東放学園」:
http://www.tohogakuen.ac.jp/index_f.html