

Takeo Harada
原田 武夫
1971年、東京生まれ。東京大学法学部中退後、外務省入省。経済局国際機関第2課、在外研修、在ドイツ日本国大使館、欧亜局西欧第1課、大臣官房総務課を経て、現在アジア大洋州局北東アジア課課長補佐。
原田 武夫 さん(外交官、インディペンデント・スカラー)
北朝鮮をめぐる状況が目まぐるしい。拉致問題、核問題、ミサイル問題、さらには国交正常化と問題は山積している。原田武夫さんは、そうした外交業務を担う外務省で北朝鮮交渉を担当している。報道だけではわからない外交の仕事、さらにはその背景として原田さんが国家あるいは公というものに関し、一体どんな考えを持っているのかを尋ねてみた。
まずは何よりも「曽我さん一家がこれから家族としてどうしたいと望んでいるのか」を基本に考えて常に仕事をしていました。今年の5月22日に行われた日朝首脳会談で、北朝鮮の金正日国防委員長は曽我さんの家族の問題について、「今後については家族で話し合えばいい」という発言をしました。そこから私たちは調整を始めることになったからです。
まず曽我さんたち家族からは、「ゆったりと落ちついた環境で話がしたい」という要望がありました。一方、夫のジェンキンスさんについては既に報道などで色々と世間でも知られているとおり、軍を脱走したという理由で米国で法的な責任を追及される可能性がありました。、したがって、曽我さんと家族の再会を行うにあたっては、米国との関係でどのような法的な関係にある国かを常に念頭に置きながら、北朝鮮と国交もあり、日朝問題について一役かってもらえる国はないかと考え、日本政府としてインドネシアに場所の提供をお願い出来ないかという結論に達したのです。そして、インドネシアのメガワティ大統領に支援をお願いをし、大統領の承諾を無事得ることが出来たので、再会を実現することが出来たというわけです。こういった形で、たとえ二国間の問題であっても、場合によっては第三国に調整をお願いするのも外交官の仕事の一つであったりします。

私だけが行ったわけではありません。基本的には家族が話しているのを政府関係者が身守り、そこで出た要望を検討するというものでした。
私が所属しているのは、具体的にいうと北朝鮮班といって、全部で職員は5人いますが、そこで私は班長をしています。核問題、ミサイル問題から拉致問題などの諸懸案の解決に向けた作業や、より広く北朝鮮情勢一般についての情報を集めたり、分析したりする仕事などをしています。

もちろん、拉致問題、さらにいえば北朝鮮問題というのは、日本外交にとって焦眉の課題であるので、世論の高い関心を背景として、メディアの関係者の方々も一生懸命、日夜、関連報道に努められていることの大変さは理解していますし、またそういったメディアによる取り組みは民主主義という社会のルールの基盤をつくるものとして必須であるとは理解しています。ただ、気になるのは、やもすると、そこでのメディアの取材合戦が目先の現象だけを追って、その背景について考察していないきらいも散見されるのではないかということです。簡単にいえば、物事の大きな「流れ」ではなく、広がりのない「点」の情報しか報道していないことです。そこには北朝鮮との関係においてだけでなく、アジア全体、国際社会との関係で「日本はどうしたいのか」という視点が抜けてしまってはいないか。
一連の報道の中には、外務省の施策は「国民世論を反映しているのか?」という批判的な内容もありました。しかし、外交はひとり外務省が行っているわけではありません。外交は憲法上、内閣の専権事項とされていますが、我が国は議院内閣制であり、結局は国民代表、ひいてはそれを選んだ国民の一人一人が外交の担い手、その力の源なのです。そうであるにもかかわらず、「自分が外交についてどう考え、これからどう諸外国と接していくのか」を考え、自らの視点を定めるのではなく、あくまでもふらふらと視点をさせながら、物事の責任を他人に求めていく。外交、あるいは報道に限った話ではありませんが、視点の軸が定まらない態度では点の情報にしかならないと思います。
いま劇的に国を支えるシステムが変わっていっています。その中でどういうシステム、社会を選択するかの議論がわかれているせいもあるでしょう。「自己責任」を強調するなら、国の役割を小さくする必要があります。一方ですべての人が自己責任で納得のいく生活ができるわけではありませんから、国が大きな後見人としての役割を背負うことを期待する人もいます。その意味で、「自己責任」とは対局にあるものとして「友愛」も必要となります。この二つは一見したところ、そのどちらかを直ちに選べるものではありません。この二つの狭間にあって、私たち日本人は迷ているのではないかと思います。
1970年前後の世代に着目したのは、人数が多いということもありますが、1971年生まれの私も含めてこの世代は端境期の世代に当たるからです。生まれてすぐに高度経済成長も終わったという声を聞き、しばらくすると、これからは国際化だといかけ声もあって、英語を一生懸命やれといわれ、そうこうする間に小学生時代から受験競争に巻き込まれた。大学を卒業し、就職してみたらMBAを取ってないと使い物にならないとまで言われる。そんな競争、競争、また競争の世代です。常に行く末の迷いに巻き込まれた世代ですが、だからこそ能力を秘めた人も多いのだと私は思います。

幼い頃からドイツに関心があったことが遠因でしょう。というのも、祖父が日中戦争に早くから一兵卒として従軍していたのですが、その祖父の部屋には戦友との会報とか軍関係の雑誌、ドイツやヒトラーについての本がありました。それらを目にするうちに、一方でドイツというのは大変優秀な国だったのだという思いを抱きましたが、他方でユダヤ人の大量虐殺を行っていたことを知り、どうしてそういうことをあの優秀な民族が起こしたのかを大変不思議に強く思いました。そうやって、ドイツについて深い関心を持っていく中で、自然と戦争と平和の問題に興味を持ち始めたのです。
翻ってみるに、祖父は30代という脂の乗った、仕事のできる「人生の黄金の時代」を国家権力に丸ごと奪われたわけで、そういう時代には二度としたくない。そういう過ちはさせたくないという思いから外交官になろうと思うようになりました。
悩みがないというと、正直、嘘になります。このHPの主たる読者であろう高校生の方々、あるいは大学生の方々も職業選択する上で大いに悩まれていることと思います。今はお金がある程度以上、華やかに儲けられる仕事でないと「仕事ではない」という風潮が強い。外資系の会社で経営コンサルティングや証券・金融系といった分野において、同い年くらいでありながら成功している人に比べたら、金銭的に見れば私の年収は1/3くらいかもしれない。それでも続けているのにはきっと理由がある。多分、「政治」というもののおもしろさに魅力を覚えているからでしょう。
例えば、拉致問題を考えても、これは決してお金で解決される問題ではありません。この問題は、正に、国家としてどうあるべきかという基本的な命題と関わっています。そして、国民をひとり残らず助けないといけないと使命感とも連なっています。それは稼げるお金の多寡がまずは問われる仕事ではない。むしろもっと大きなもの、いってみれば「公なるもの」という金銭の物差しでははかれないものの世界にある問題なのだと思います。外交はそういう意味でやりがいがあるのだと思います。

外務省に入りたいという人に私がいつもまず言っているのは、常に好奇心を持つように生きて欲しいということです。特定の分野に対する専門性や関心はもちろん大事ですが、例えば政治が大好きでも、文化的な事柄や経済問題など色々なことにも好奇心を持てるか。僕は政治はやるけど、経済はイヤだよなどという人は、日本という国家全体を代表する立場に常に外国では置かれる外交官という仕事には不向きだと思います。
また、精神、肉体ともに健康であるか。例えば、本省だと始業は9時30分で終業は18時くらいですが、国会開会中に審議の前日に行われる答弁作成作業は時に翌日の朝まで至ることがあります。
また過酷な勤務環境というのは、何も国内においてだけではありません。厳しい自然環境、紛争地といった国に赴任している同僚も大勢います。そういった厳しい勤務地であっても、自分を律し、日本という国のために働き続ける外交官という地位にとどまるには、自分自身のためでなく「みんなのため」と思えないと続けられない。「全体」のために自分を規律する。そういうメンタリティーがないとできない職業です。
文字通り、たった一人になる経験を経てきたことです。自分の考えを表明すると、時に自分対他全員になることがままあります。特に海外では顕著なんですが、そんな時、日本人はつるんでしまう傾向にあります。仲間でつるんでいると、安心感はありますが、その一方で自分が果たして何を考えているのかは結局のところ、自分にもわからない。ところがそういう風に自分の考えに基づいて行動しないと、何か起きたときに責任感が生じることはないのです。そういう風にして、自分で自分が何を考えているのかを分からない人を、誰も信用はしないですよね。
外交というものはとどのつまり、ひとりの人間の活動と同じ。日本はどうだと聞かれて、「隣国に意見を聞いてみないと」では話になりません。自分自身の考えに基づかないと信用されません。
今流行の「自分探し」では、とかく「答え」を外に求めがちですが、そうではなく、まずはたった一人になってみて、自分とは何か、自分はどこから来て、何をし、どこへ向かって生きていくのかという問題について掘り下げて考えてみることが大事ではないでしょうか。
私は、特にベルリン留学中に、言葉の通じない、しかも人情味がドイツの中で最も薄い地域といわれるベルリンで孤独にさいなまされ、さらには追い打ちをかけるように父が慢性白血病で病床に伏すという事態に見舞われました。とても寒いベルリンの夜に、たった一人で自分という存在について飽くことなく考えました。あの時はたまらなくつらい、なぜ自分はこういう運命なのかと悩んだものですが、多くの友人や同僚、そして家族に囲まれ、人を相手とする外交官を生業とする今、正にその時の思いが文字通り糧となっていることを実感しています。

Takeo Harada
原田 武夫
1971年、東京生まれ。東京大学法学部中退後、外務省入省。経済局国際機関第2課、在外研修(ベルリン自由大学政治学部、テュービンゲン大学法学部、ドイツ外務省上級職員初任者研修)、在ドイツ日本国大使館、欧亜局西欧第1課、大臣官房総務課を経て、現在アジア大洋州局北東アジア課課長補佐。主な著書に『劇場政治を超えて-ドイツと日本 』(ちくま新書)、『サイレント・クレヴァーズ-30代が日本を変える』(中公新書ラクレ)
【原田 武夫さんの本】

『サイレント・クレヴァーズ-30代が日本を変える』(中公新書ラクレ)

『劇場政治を超えて—ドイツと日本』(ちくま新書)