

Souun Takeda
武田 双雲
1975年熊本生まれ。母である武田双葉に3歳より師事。2003年・上海美術館より「龍華翠褒賞」を授与。イタリアフィレンツェ「コスタンツァ・メディチ家芸術褒章」受。様々なアーティストとのコラボレーションも展開。
武田 双雲 さん(書道家)
字は情報を伝える手段だと思いがちだけど、書かれた字を見て、ダイナミックな躍動感を覚えたり、勇壮な気持ちになったりするのはなぜだろう。事実を伝える手段としての字ではない、何か活き活きとしたものがそこには込められていると感じるからだろう。きっとそれは書き手の思いでもある。書道家の武田双雲さんは「楽しむこと」を書の基本にすえている。その思いが伝わる書とはどういうものだろうか。
楽しまないと伸び伸び書けませんからね。
3歳といえば、嫌とかいいとか判断できない時期で、師匠であり母である武田双葉に叩き込まれたという感じですね。ただ、字を書くことを嫌だと思ったことは一度もないです。

たぶん物心ついたときから楽しかったんでしょうけど、うまく書けた時に人に褒められた喜びが一番の理由だと思います。ひら仮名だと漢字に比べ画数が少ない分、ちょっとした角度が違うだけで上手く見えたり、下手に感じたりするのがおもしろかった。上手くいったときの喜びを感じていたのだと思います。
お手本はありましたが、例えばひら仮名の「た」の字の角度を変えてみたり、ふわっとさせたりとか自分で考えながら書いていました。学校の先生の字を真似たり、女の子の丸文字を真似たり、下手な男の子の字を見て喜んだり。なんでそういう字になるかが不思議で、字に現れる個性に興味がありました。「下手だけど何かいいなぁ」とか、そういう直観で感じられることに小さいときから興味ありました。
母に教えられた「正しさ」の基準はありますが、「どうやったらうまく書けるか」については自分で考えてきました。人はもともと美意識を持っていますよね。富士山を見て「美しい」と想えるとか。やはり物事には「美しいと感じられるバランス」があります。それと同じで、自分の中にある美意識に問い掛けをするんです。それが全体として「武田双雲」流の基本になったと思います。
人はしゃべるにも、歩くにも、書くにも、服を着るにも美意識が働きます。美しくありたいという想いがあります。字を書く時も「美しく書きたい」という想いを誰しもが持っています。それを信じること。
美しさは、お手本とか外にあるのではない。字が下手だと思っている人は自分の字が嫌いなわけですが、自分なりの美意識は持っているわけで、それを追求していくことが美しさになるんです。
書道というと難しく考えがちですが、ノートに鉛筆で書くのであれ、パソコンのモニターであれ、字を書いているのには変わりなく、書くことは一生なくなりません。そうした「書く」行為の中で、いまより意識を少し注ぐだけでもいい。「もう少しきれいに書いてみよう」。そのプロセスが大事で、だから結果はどうでもいい。
外から吸収して何かを取り入れるというよりも、自分に問いかけ、ヒントを外部から要素としてもらう。これはちょっとした違いのようで大きい。はなから真似よう、学ぼうとするよりも、自分が自分に問いかけ、自分と対峙することが大事。
お手本を書く時、真似ればそれはそれで上手くなるけれど、それよりは自分で「いつもより縦画を長くしてみよう」と試みる。試みのプロセスでは失敗はしますが、ふとした瞬間、フィットした距離感の感覚が芽生えます。そのときにお手本を見たら、「なるほど」とそのお手本が示している意味がわかります。
これはスポーツでも勉強でも言えることで、「自分は何も知らないからゼロなんだ」と謙虚になりすぎて、何でも外から取り入れようとする。それも答のひとつだけど、能動的な問い掛けがあることが重要だと思っています。

いきなり上手くなるわけではなく、よくよく見たら上手くなっているもので、毎回書くたびに発見します。スピードをあげるだけで躍動感がもっと出るとか。大きな変化があるのではなく、小さな発見の積み重ねですね。
そうですね。木の枝ぶり、雲の形、人の言葉、テレビ、いつもの出来事。起きてから寝るまでの間に起こることすべて発見です。
雨が降ったら「あいにくの雨」と言うけれど、雨を楽しんで、例えば雨粒について研究するのもいい。気づきの切り口は無限にあります。だから、字そのものというより、生活そのものへの興味、美しさへの追及が字に活きます。
書は人なりと言うのはそういうことで、上手いなら上手いなりに、下手なら下手なりに、その人の性格がにじみ出ます。雑な人はやはり雑に、几帳面な人は几帳面な字しか書けない。どんなに取り繕ってもばれる。これは別に占いとかじゃなくて、技術のよしあしとは関係なく、字に個が現れるから見ればわかるんです。だから僕は誰のどんな字を見ても興味を持ちますね。
楽しむこと、そして能動的であることです。これは意外と見落とされがちです。いっぱい勉強していると学んで成長した気にはなりますが、いちばん大事なのは自ら好奇心を持ち、わくわくした心で何かに取り組むこと。がんばって勉強するよりも、自分の興味あることをがむしゃらにやる人は強いでしょう。
だから書道教室でも好奇心を追求させることに力を入れています。そうしたら書道じゃなくても、他の分野で勝手に自分が成長していきますよ。字がひたすらうまくなる人もいれば、自分を表現する方法を身につける人、リラックスの方法を学ぶ人もいますから。そういうのを見ていると、人はみな個性的なんだと思いますね。これは人と違うことをやるという意味での個性的ではなく、好きなことをやった結果の個性。
書道教室というと静かに、姿勢よくとか言われて、そうしないといけないという形から入りがちですが、いい字を書きたいとか、心地よさを感じていたら、姿勢は自然によくなり集中します。無理矢理ではなく、いつのまにか集中し、静かになっています。みんなが能動的で自由で調和が取れている。それが僕の理想とする社会でもあるのです。
だから自分が心地よい。そうした自分本位を追求することが本当のコミュニケーションになるんだと思います。いい意味の自分勝手を追求すると調和になると思います。

どうやって毎日を楽しもうかと考えていました。勉強がいやでも学校へ行かないといけない。だったら、それをいかに楽しむかを考える。いじめの現場があったり、先生に怒られたりしたとき、それをどう楽しむか。すべてが上手く行くことはないけれど、何でも遊びにしていました。これはちゃらんぽらんとは違います。
ただ、そうした態度だとよく怒られましたね。部活でも勝ち負けにこだわるんじゃなく、楽しんでやっていたら、「ふざけるな、まじめにやれ」と。楽しみながらまじめにやっていても、「本気出せ」と言われてました(笑)。
将来を考えたわけではなく、東京の大学への憧れと、「情報」ってかっこよさそうだなと思って決めました。就職した会社を辞めたのも、お金よりも楽しいことをしたいという単純な理由でした。楽しいといっても苦しみの中に楽しさがあるものもありますし、自分なりの楽しさの追求ですけど。
書は楽しいし、得意なもの。でも、それで生活していけるとは考えていませんでした。ただ、書は「紙に墨で書かなくてはならない」というこだわりがなくなったとき、不思議なことに仕事が舞い込み始めました。
いろいろやった後に、結局は「紙と墨だ」というのはいいけど、やる前から決めつけるのはもったいないですよね。20代の知識なんて狭いんだし。
実際、世の中にはいろんな職業のプロがいて、例えば彫刻家、映像クリエーター、デザイナーとか。彼らは、私の書を全く違う形で新しい領域に広げてくれました。
例えば、書を携帯の待ち受け画面にしたことで、興味のなかった人が書に興味を持つようになったり。自分では想像できない広がりがあるわけです。
また、年を重ねるほど、常識やこだわりを破るように心掛けています。「自分を責める」という次元とは別に、自分を疑うようにしています。自分の培ってきた知識や経験は小さいことだと知り、頑固やこだわりを排除していきたいですね。

不安を持つのは当たり前。でもどんなに景気がよくなっても、またどの時代のどの国にいても不安は消えない。なぜなら将来のことは誰もわからないから。考えたって不安は消えないし、じゃあ不安を払拭するためだけに限りある可能性に目を向けず、狭い中から自分の生き方を選択するのももったいない。
どういう状況の中でも自分が楽しいと思えることを突き詰めると、いつのまにかそれがパワーになる。楽しいことについては、やっぱり頭もよく回転するでしょう? 得意分野を伸ばすことが早道だし、それが不安を払拭することになる。資格を取るのが悪いのではないけど、不安だから資格をとりあえず取ろうとか、いまある選択肢の中から進路を選ぼうとか、それは人との競争だけを考えたでチョイス。それよりも自分が好奇心を持ってわくわくできることを探すことが大切だと思います。
職業なんて縁があって勝手に決まって行くものです。具体的に資格を取らないといけないとか、将来設計をしっかりしないといけないと考えるよりも、まず目の前のこと、身近なものの大切さに気づくことが順番としては先だと思います。
競争社会だから無意識のうちに他人と競争してしまっているし、色々なメディアからの情報ばかりに気を取られて、目前の大事なものが見えなくなっている気がします。目前のこと-虫が動く姿でもいいですが-そういうのは「見ようとして見る」のではなく、楽しんで余裕があれば見えてくる。豊かになれたら目の前の出来事に感謝するし、元気も出ますよ。
そうですね。不安さえも楽しめばいい。この不安は何かの役に立つかなぁ?とか(笑)。これはいわゆるプラス思考じゃない。切り口の問題だからプラスでもマイナスでもない。日々起こる事象が問題なんじゃなく、それに対する自分の気持ちの持ちようが大事だと思います。
楽しいことを探せと言われても、若い子が何をやっていいのかわからないのも当たり前。だから探すのが楽しいんじゃないかな。見つからないから諦めるんじゃなく、途中を楽しむ。
僕には虚しい思いなんてないんですよ。常に満足していますから。日本の美学だと満足したら終りってことになっていますが、悩んで迷っていることも楽しんでいるから、常に満足していられるわけです。
満足してようが不満だろうが、次々と物事は起こってくるわけで、だから日々満足しても飽き足らないものです。

時は止まらないから、同じ字でも書くたびに違いますよ。だから結果を求めるんじゃなく、「その時」「その瞬間」を楽しんで書く。
でも、いまの時代は何かを行動する前にいろんなことを知ってしまうから、結果や理想ばかり求めがちで、それと比べていまの自分の立場を卑下してしまう。いまからどう成長するかを楽しむことが大事でしょう。
自分が本当に楽しんでいるなら、休んでもがんばっても、自由でもルールに従っていても、サラリーマンでも社長でも何でもいい。楽しんでいる人は人を楽しませることができる。楽しんでいるという余裕のない想いは偽善になってしまいます。満たされない想いのまま人に優しくすると見返りを求めてしまい虚しくなります。
人に接するにも、偏見や好悪を持つ前に興味を持つこと。自分が何者かなんてわからないのだから、決めつけずにいろんな人に興味を持つことが、いまを楽しむことになるんだと思います。
Souun Takeda
武田 双雲
1975年熊本生まれ。母である武田双葉に3歳より師事。2003年・上海美術館より「龍華翠褒賞」を授与。イタリアフィレンツェ「コスタンツァ・メディチ家芸術褒章」受。FUJI ROCK FESTIVAL等、各種イベントにて、数多くのパフォーマンス書道&筆文字ワークショップを行なう。様々なアーティストとのコラボレーションも展開。また一方で書道教室(ふたば書道会師範)を主宰し、書の楽しさを広めている。
武田双雲さんのHP
http://www.fudemojiya.com/futaba-mori/