

Osamu Hasuoka
蓮岡 修
1973年、島根県大原郡大東町、浄土真宗大谷出雲組大乗寺に生まれる。1991年、大谷大学文学部真宗学科入学。1992年、アフガニスタン、カブールで初めての取材を行う。以降、95、97年にも、戦場地での取材を行う。
蓮岡 修 さん(僧侶)
パキスタン・アフガニスタンで1984年より20年間診療を続ける医師が、日本の青年たちとともに、大勢のアフガン人を指揮して、井戸を掘った。医師の名前はアフガニスタン・ペシャワール会の中村哲先生。そして大旱魃にあえぐアフガニスタンで地元の人々とともに闘った日本の青年たちの一人が蓮岡修さん。中村先生の心意気に打たれ、ただ勢いでやってしまっただけという蓮岡さんのお話をご紹介します。
そもそもアフガニスタンがどのような国なのか私たちはよく知らないのではないでしょうか。1979年にアフガン戦争が勃発し、600万人の難民と推定200万人の死者を出したアフガニスタンですが、92年に戦争終結後もなお内戦が継続しています。その上に、2000年夏に始まった大旱魃は、WHOがその段階で行った報告でも、1200万人が被害を受け400万人が飢餓に直面、100万人が餓死寸前と予測されたほど規模の大きいものでした。ペシャワール会は医療サービスをその主な任務としていましたが、そのとき直面した医療以前の問題に対して、ともかくも「飲料水確保」という急務に全力を注ぐことになったのです。それは、2001年夏までの1年間で、作業地600ヶ所、うち512ヶ所の水源が利用可能となり、約20万人以上の難民化を防止するという一大事業に発展していきました。
ペシャワール会によるその事業は、中村先生の著書『医者井戸を掘る』からもいかに大変なものだったかがわかります。そして、その中で、蓮岡さんは「現地活動報告」を書いています。淡々としかも克明に記録された文章を読んだとき、ぜひ蓮岡さんにお会いしたいと思ったのです。
そこでも触れられていますが、政治的状況はあまりにも過酷なものでした。1996年以降タリバーンが国土統一を進めてきたアフガニスタンでは、タリバーン政権が保守的なイスラム的慣習法を全土に徹底し、それまでの無政府状態による社会不安を一掃したものの、国際社会は「非民主的なテロリスト国家」としてタリバーン政権を認めていません。特に2001年2月に「国連制裁」が発動されてからは、諸外国の救援団体も次々と撤退し始め、ペシャワール会の活動はますます孤立無援となっていったのです。
このような事情で国際社会から隔絶されているアフガニスタンの様子は、私たちには少ないニュースから想像するしかないものです。実際にその地で暮らし、大きな事業を成し遂げた蓮岡さんのお話を聞くことで、国際政治や経済問題を考えるきっかけとなるだけではなく、このあまりにも大きな厄災の前で、人間と自然とのかかわりなどさまざまに大切なことを発見できるかもしれないと思います。では、前置きが長くなりましたが、蓮岡さんのお話をどうぞ。

岡崎宏三撮影監督と
『アイ・ラブ・ピース』撮影ロケにて
(2003年8月)
はい、2003年の6月、7月は『アイ・ラブ・ピース』http://www.cinema-indies.co.jp/ilovepeace/という映画のコーディネーターとしてアフガンにいました。まったく井戸掘りとは関係ありません。いちおう、雨もふっているようですし。
状況が状況だったんで、いろいろ無理をたくさんしました。今は日本に帰ってきて、緊張がとけたというか、その種類はまったく違いますね。
作業中は兵隊のようにやってました。緩むと事故が発生するので。中ではいつも非常に緊張していました。自分だけではなく統率を重んじるという意味で全体の士気をコントロールしていたんですね。また対外的にも、あわよくばわれわれをつぶそうという団体やNGOの請負業者が多かった。脅迫状が届いてヒットマンに狙われていたときもありました。
あるエリアがあって、ヨーロッパ系のNGOが仕事をしていて、国連が仕事を出す。地方のNGOに仕事を払い下げる。委託するわけです。そうすると、NGOは地元のつまり現地の請負業者に仕事を出すんですが、当たり前のように癒着があり、したがって、国連とNGOの援助で莫大な利益を受けるということが起こる。それは、上との賄賂も合わせるとすごい額になるんです。ぼくらは国連からお金がおりなかったので、非常に貧しかった。だから地元の業者は癒着にならされていてものすごく高いので使わずに、自分たちの技術力のみで作業を進めました。そうすると請負を見越して機材を抱えている彼らは商売上がったりなんです。タリバーンの頃で混乱した時期でしたし、見せしめのためにもそれがいちばん手っ取り早いんでしょうね。僕もとても元気がよかったし、集まったスタッフもみんな若く血気盛んな連中だったので、緊急期ということもあって何かきな臭いものとは喧嘩ばかりして作業をしていました。私の身の危険を感じたのか、しばらくはスタッフの一人が必ず一緒に行動してくれました。

カブール国防省ビル前にて
(1992年)
いいえ。学生時代写真を撮っていまして、92年に最初にアフガンに行って、そのあと95年にも。そして97年に行ったときに、中村哲先生と会って、お知り合いになり、それで手伝ってくれと言われて。行こうかなと。
いやいや、決してそんなかっこいい話ではなかった。なぜ行ったかというと、最初は19歳でしたが、白黒はっきりつけたいことがあったんです。どうしても撮れない写真があったりとか。人の死を自分の中で消化できない。それを見ることによって何かが決着つくんじゃないかと。結局何度か行ってみたけど、もう少しでわからない。学校卒業して広告代理店に勤め、どのみち、アフガンに行こうと思っていたので1年働いてやめて、お金ためて、中村先生のところへ居候させてもらおうと思って連絡した。そんな感じですから、中村先生のやってた活動自体とはぼくの写真とは直接リンクしていない。

97年に、一人でカブール北部の前線の方まで行って帰ってきたとき、とても無力感があった。ジャーナリストとして、世界のためにとか、世界に伝える…とか言っても、部外者として言ってるだけで、何も変えられない。写真を撮っても何も変わらないんじゃないかと。それなのに現地で出会った中村先生はあまりにもひょうひょうと楽天的に見えたので、ちょっとむっときた。若かったし。いったい、何のためにこんなことやっているんだとつっかかった。その時、中村先生は少し考えてから一言こう言われた。
「わしは、バカじゃけんね」
その言葉を聞いて急に安心した。「おれもバカでいいんじゃないか」と。
「何のために」ということは、日本で生活している間はいつかはっきりさせようとずっと考えていたんですが、現地に行って、写真でなくて農夫の人たちと握手しながら作業しているうち、知らない間に考えなくなっていた。だからぼくなりにはクリアしていたのかなと。どっかで納得している。
人の死が身近というより神が身近なところにいるんです。そして神が与えたもうた摂理--生まれ、死ぬ、太陽が昇る、沈むというような。彼らはその摂理と密着したところにいる。
神から与えられたものなんです。それに対してとやかく言わない。嘆くということがあまりない。それがアラーの思し召しですから。
99年12月から2002年の8月まで。3年近くです。
週1回の全体ミーティングを開いて徹底した管理生活でした。軍隊式に。当時は貧乏団体でしたし、寄付していただいたお金を1円も無駄遣いしないために、合理的な仕事をしなければならない。ぼくの仕事のひとつに村の長老たちとの交渉がありました。たくさんの難民が流出していった村に残った人々のための井戸を掘るんですが、ぼくたちが全部やるんじゃない。あなた方がそれをするならわれわれは助ける用意がある。手加減はまったくできない。まあ、そんなようなことを言うわけです。言葉は力があると思いますよ。うそはすぐ見破られる。だから力強い言葉とともに握手を1日100人くらい。
600人には徹底した教育をしました。監視役も必要でした。信賞必罰。だめなら即刻クビ。そのかわりがんばれば見返りがある。もっとも短期プロジェクトだからこそできたことだと思います。ゴールが常に見せられる。そして、終わったら、解散。

人情ごとが通じる。礼儀作法が中心。相手を思いやる。こんなやり方は農耕民族でなくてはだめかもしれないと思ったこともありました。西洋人にそれがまったくないとは言いませんが。こんなこともありました。ぼくらの事務所の近くに欧米のNGOの建物があって、そこに行くと犬がほえるんです。その犬はアフガン人を見るとほえるやつだったんですが、ぼくにもほえる。毎日握手してるから匂いがついている。欧米の人たちは接触しないでアフガンにいるからアフガン人の匂いはしません。
でもぼくらにはそれが必要だった。そこまでやらないとぼくらはやっていけなかった。日本に帰ってきてから極度の疲労で脳内ヘルペスになりました。
そうですね。作業中は笑ったことってなかったんじゃないかな。あの頃の写真を見るとすごい顔している。600人もいるともめごとがたえません。作業の中で2人が死にました。坊主のくせにムスリムになってわびようかと思ったくらいつらかった。とにかく少しでもあぶないものをみつけたら、罰金、くび。鬼にならざるを得なかった。

こんなこともありました。あるところに30家族ほどいて、井戸を掘ってくれと言うんです。われわれのルートからは少し離れているところです。このルートというのは絶対に守らなければならないものなんです。一つの井戸を掘るのに全体で流れ作業をやるんです。井戸掘りは調査から手掘り、コンクリート枠、ハンドポンプと時間をかけてやる仕事です。だから、計画どおり進めなければならない。途中で止まるわけにはいかない。
見捨てざるを得ない。泣いて頼まれても。アフガン人同士を戦わせるわけにはいかないので、自分が責任者として悪者になる。そういうのが1週に1回くらいある状況。うん、ほんとに鬼監督ですね。精神的にむちゃくちゃ消耗しました。
現地にも学生がきましたよ。状況にもよると思いますが、当時のような緊急時で、われわれのように機械力に頼らず信頼という微妙なバランスで成り立っていた集団には、目をきらきらさせて人生勉強とか、貧しい人を助けたい、とかいう思いの学生さんは非常に危険な存在だった。必要だからやる。所詮は日本人で部外者なんですが、ただ作業という一点では彼らと同じ責任を負っているから妥協はできない。それだけなんです。だから向こうで必要なのは怒りじゃないかと私は思っていました。状況をみて怒りを感じるかどうか。そう思うと彼らは軽すぎて必死に生きている住民に相手にはされない。何かをしてやろうという傲慢さはすぐに見抜かれるので、われわれ自体にそのしわよせが来る。だから帰ってもらったことが多い。

アチン事務所
エンジニアたちと
(1997年)
お互いがお互いで生かされるのがボランティアだと思う。最後の最後まで見届けるのが本当。気持ちとして責任を持たないといけない、確認しなければならない。今までその作業があいまいにされていたと思います。ボランティアも過渡期に来ていると思います。
NGOも挑戦がないとどうでしょうか。組織として完成度が高ければ高いほど、現地での誠実さとか人間的に問題があるというか、面白みがないという気がします。人を助けるっていうのは痛いことなんだと思う。その痛さを感じて、自分も生かされる活動ができるのではと思いました。
資格をとるための研修は終わっています。修行はまだまだこれからです。実家が寺なので。兄がいますので自分が継ぐというわけではないけれど、仏教には興味があるし、課題を与えられているような気がします。いろいろやることをどう仏教につなげるかというような。
「僧伽(さんが)僧伽」という仏教用語があります。仏教による共同体という意味なんですが。教団とか協会とかそういうものではなく、人と人との自然なつながり。お互いの目的を確認し合って、それぞれ高めあいながら生きていくというようなこと。平等な集団。大学院でそれを専攻しました。自分なりにこれからの「僧伽」というのをいろんなことをやって確かめたいと思っていて。若い人の問題もすごい興味があります。
いま、東本願寺から児童文学を通して仏教を説明していくという活動に参加させていただいていて、そこで私の創作した童話も発表していく予定なんですが、自分の現在ある立場から仏教的な取り組みとしてそんなことができればいいと思っています。それを通して人間というか若い人たちと触れ合っていきたいなあと思うんです。いま、かつてやっていたことがどうなのかということはあまり意識していない。もちろん延長線上にはありますが。ぼくの中ではあの頃は一段落つけています。ただ、次には、井戸掘りではなく、彼らと一緒に学んだことを生かせるものがあるのではないかと思う。責任があるんじゃないかと思っています。

タリバンのおかげで、アフガンの子供たちには夢がなかった。文化的なものはなにもかも剥奪されてきたからです。となりの国の子供のことさえ知らないんですよ。現在、アフガンの子供たちに日本から映画を持っていくというプロジェクトが進行しています。そのコーディネートとしてお手伝いができればと思っています。やはり、アフガンとの関係はこの先もずって続いていくのでしょうね。
1973年、島根県大原郡大東町、浄土真宗大谷出雲組大乗寺に生まれる。1991年、大谷大学文学部真宗学科入学。1992年、アフガニスタン、カブールで初めての取材を行う。以降、95、97年にも、戦場地での取材を行う。1998年、大谷大学大学院修士課程真宗学専攻を卒業後、大阪の広告代理店へ就職。一年後退社。京都の造園屋で庭師見習い。1999年12月より、ペシャワール会パキスタン病院勤務。2000年7月よりアフガニスタン東部で水源確保事業開始、2002年9月、現地より引き上げる。2003年、アフガニスタンの義足の少女と聾の女性との交流を描いた映画「アイラブピース」(大澤豊監督)の現地コーディネートをつとめた。童話や映画を通じ、日本とアフガニスタンや世界の子供たちに想像の木を植える活動を促進中。真宗の僧侶として、仏教を子供たちにわかりやすく伝える童話等の企画を進めている。

『医者井戸を掘る』 (石風社)
中村 哲:著
蓮岡 修:現地報告

『痛み癒される社会へ―医療をかえる政治をかえる』 (ゆみる出版)
阿部 知子:編著
「今、アフガニスタンでは」
蓮岡 修:著