

Tsuneko Sasamoto
笹本 恒子
東京生まれ。日本写真家協会名誉会員。1940年(財)日本写真協会入社。日本で最初の女性報道写真家として仕事を始める。千葉新聞社社会部、婦人民主新聞社嘱託を経て、フリーに。
笹本 恒子 さん(写真家)
戦中、戦後と時代の移ろいをファインダー越しに見てきた笹本恒子さん。
女性報道写真家の草分け的存在だ。
次第に戦争へと歩みを進めた日本の、その軍靴の音を聞き知った人でもある。
昨今の日本をめぐる情勢は、もはや戦後から戦前へといった印象が強くなる。
笹本さんに先の戦争と報道写真家の体験を語っていただいた。
10代から絵が好きで、誰も油絵の道具を持っていない頃に親に買ってもらって描いていました。その頃は、絵描きになりたかったんですね。当時、絵画を学ぶ女子の美術学校はひとつしかなく、そこへ行きたかったのですが、親の頭が堅く「女が絵描きになってもしょうがない」と言われ、行けませんでした。仕方なく家政科のある学校(現大学)に入ったのです。でも、おもしろくないから勝手に辞めてしまいました。洋画の先生のところに通っていました。
その頃、昔隣に住んでいた人が毎日新聞(当時は東京日日新聞)の社会部長になっていたのですが、アルバイトでカットを描かないかと誘われ、新聞に描くようになりました。

日中戦争(注1)の真っ最中でした。毎日新聞社会部の林健一という人が特派員として現地に行き「日本は宣伝戦で立ち後れているから、ぜひ何とかしなくちゃいけない」と会社を辞めて写真協会をつくったところでした。おもしろそうだから行ってみないかと社会部長からすすめられました。
写真協会は数寄屋橋の角にあって、そこには六つ切りの写真が山のように積んでありました。私は『アサヒグラフ』や『LIFE』(注2)を見たことはありましたが、こうした生の写真は見たことがありませんでした。ヒトラーやヒトラーユーゲント(注3)、ムッソリーニ(注4)などの写真を色々見せてくれました。日本の文化宣伝としては、当時の日本の主な産業は生糸でしたから、繭から織物になる過程や、古典芸能を撮って、各国に送ったりしていました。30分くらい説明を聞いているうちに、林さんに「ここに入って女性の報道写真家になりませんか」と言われ、そこで初めて報道写真といういい言葉を知りました。
私はカメラなど触ったことはないくらいだったのですが、林さんは話上手で、それにあおられて「やってみたいと思います」と返事してしまったのです。それが始まりです。家族に報道写真家になるなんて言ったら、反対されますから、社会部長の友人が開いた写真事務所に手伝いへ行くと言って通い始めました。

(注1)1937(昭和12)年7月7日夜、北京の南西郊外、盧溝橋付近で始まった日中両軍の武力衝突事件が発端になり始まった。
(注2)1936年にアメリカで創刊された写真報道雑誌。ロバート・キャパ、アルフレッド・アイゼンスタットマーガレット・バーク-ホワイト、など著名な写真家によるルポルタージュを大々的に掲載。
(注3)ナチス=ドイツの青少年組織。1926年に創立され、青少年男女が強制的に編入された。思想教育と戦争準備に大きな役割を演じた。
(注4)イタリア、ファシスト党の党首。
女性は女学校を出たら、上級学校へ進む人以外は花嫁修業をするもので、裁縫やお花を習うのが普通。お勤めや社会に出るのは、家計のためがほとんどです。でも、私は絵描きになりたいと思っていました。
おもしろうございましたね。ですが、写真協会に入って3か月目に、母が病気になりました。母にどうしてもと頼まれて、仕事を休むことにしました。とはいえ、看病だけではつまらないので、時々写真協会をのぞきに行き平沼騏一郎首相(注5)や阿部信行首相(注6)の撮影にくっ付いて行きました。そうするうちに1年経った昭和15年(1940)に母が亡くなりました。その後、写真協会に再び戻りました。
(注5)1939年内閣組閣。ソ連に対抗すべくドイツと「日独伊防共協定」を結ぶも、ドイツが「独ソ不可侵条約」を締結したため「複雑怪奇」と漏らし退陣。
(注6)1939年8月に組閣。日中戦争の早期解決、欧州大戦不介入を掲げるが、経済政策に失敗し、5か月で総辞職。

昭和15年は日米戦争の寸前で、世の中が騒然としていました。林さんはその頃できた内閣情報部に出向し、代わって読売新聞の鬼写真部長と呼ばれていた稲葉熊野さんが着任していました。「あなたはどうしてもカメラマンになりたいのか。ここは学校ではないのだから新米とか女性であることを理由に差別しない。それでもいいか?」と言われ、私はぶるぶる振るえながら「はい」と答えてしまいました。自信はありませんでしたが、母の看病で仕事を休んでいる期間に「アメリカの情勢は?中国はどうなるのだろ?」といつも考えていましたから、諦めることはできませんでした。
次の日からカメラを持たせられ、写真部の先輩に教えてもらいながらカメラを覚えました。マキナとかスピードグラフィックといったカメラも扱いましたが、距離は目測でした。もっと恐いのはフィートという単位でした。1フィートは2.5センチくらいだなと思いつつ計算して、写していました。最初は、「日比谷あたりをスナップしてきなさい」と言われ、撮っていましたが、現像をしてみたら、絵をやっていたから構図はしっかりしていると言われました。それが救いでした。

ヒットラーユーゲント来日の様子
(1940年10月)
ただ上司から言われたことをやるだけの毎日で、有名人が外国から帰ってくるから東京駅へ行けとか、船が横浜港に来るから写せとか。特に外国の視察団が来るときは、私の仕事になりました。なぜかと言えば、何となく英会話ができたからです。女学校の先生がやさしい英会話を教えてくださって、好きなものですから、丸善で本を買っては読んでいたのです。男性は英語の単語は知っていても、話す勇気がなかったようで、私はとにかく覚えた英語で「エクスキューズミー、プリーズ?」で通したんです。
ドイツのヒトラーユーゲントが来日したときのことです。17歳くらいの男の子たちが農園見学後、小屋の中で蒸かした芋を食べることになりました。各社のカメラマンはフラッシュを持ってこなかった中、あるカメラマンだけが明るいレンズを持っていて得意そうに撮っていました。私は悔しくて、英語で「撮影したいから外で食べてくれませんか」と隊長さんに頼みましたら,イエスと答えてくれました。そしたら各社のカメラマンが「そういう方法があったか」と喜んでくれましたね。
そんな大それたことは考えず、とにかく早く仕事を覚えたいと思っていました。だから、先輩にくっ付いて夜間撮影も行きました。
ただ、家族には隠していたのに婦人雑誌の扉に出てしまったのです。顔は写さないでと頼んでいたので、顔は見えないのですが、名前が表示されてしまっていました。それも「内閣情報部写真協会のスタッフの一員として日毎敏腕を駆使している」なんてすごい文章で。それを見た親戚が「恒子はえらくなった」と電話してき、事情を知った父と兄は激怒。「嫁のもらい手がなくなる」と叱られました。特に兄が毎日のようにやめろと言い邪魔をしまして、あまりにひどいので上司に相談し、紀元2600年(注7)の関西方面の行事を撮れ、という出張辞令にかこつけて大阪へ家出しました。私にとっては大冒険でした。
いざとなると兄も父も弱虫で、1ヶ月半くらいの後に私に帰るようにと未成年の弟に写真協会へ行かせて頼み込みました。私も渋々東京に戻ることになったのです。
(注7)明治5年以降、日本では西暦ではなく「皇紀」(元号)を使用。神武天皇の即位から数えて2600年を祝う式典が各地で行われた。


終戦後の日本
P.Xになっていた,現銀座和光(左)前(1946年夏頃)
その年の秋に結婚したこともあって協会を辞めていたので撮っていませんでした。ただ、それまでに出会ったカメラマンの多くは、ほとんど戦争で亡くなりました。本当に戦争は過酷なものです。愚劣で悲惨だと思います。
画学生の男友達がこう言ったことがありました。「いいなぁ、女の人は戦争に行かなくて、いつまでも絵が描けて」。でも、そのような言葉憲兵に聞かれたら連行される大変な時代でした。それほど嫌な社会でした。
戦争が終わると、私はアメリカに占領された日本を写すことにしました。占領された日本はみじめなもので、日本でありながらオフリミットと札が貼ってあって日本人は立ち入り禁止です。銀座の和光や松屋はPX(注8)になっていて、日本人は買うことはできなかったんですよ。
(注8)占領軍専用の売店。

「蟻の街のマリア」と呼ばれた北原怜子さん
戦争中からみんな栄養失調で、力がなくぐんなりしてました。戦争が終わって、「ああ、うれしい」と「ああ、悔しい」と思う人もいましたが、「生き延びられてよかった」が本心じゃないでしょうか。それは私の実感でもありました。命があったことのうれしさ。明日から空襲のたびに防空壕に逃げ込まなくていいんですから。
でも、町中は悲惨でした。みんな駅で立って待っていられなくて、しゃがんでいました。今の若い子もホームにしゃがんで何か食べていますが、あれは戦後の風景ですね。
あれほど日本はひどくはならなかったのですが、焼け野原にトタン屋根。表に出て、七輪で魚を焼いたりして食べていましたから、似ているところはありますね。食糧が配給制で充分ではありませんでした。

広島原爆ドーム(1953年)
日本の終戦後は、闇市がはやりました。銀座通りにはずらっと露店が出て、食べ物から化粧品まで、お金があれば買えました。働かなくては大変だと思って、私も雑誌、新聞の仕事をしました。男性カメラマンが戦地から帰って来ないから、とても払底していて、仕事はたくさんありました。
昭和28年に広島に行きました。広島で「原爆一号」と言っておられた人にお会いしました。なんでもっと早く来なかったのかと申し訳ない気持ちになりました。
原爆投下の2年後、アメリカは広島県の比治山に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立しました。地元市民は、「病院ができた」と喜んでいました。でも、そこは被爆者を研究資料にするために連れて行くだけの施設で、何の治療もしてくれませんでした。当時、広島はまだ半分は手つかずの焼跡でした。そんな時代があったのです。
全然先が見えませんでした。親から昔の明治時代の日露戦争の話などを聞きますと、「戦争とはよその国でやっている」という気しかしませんでした。よその家に行くと、兵隊さんの写真が額に飾ってありました。それがご主人だと知っても実感はありませんでした。まさか日本の土地が戦場になるなどとは思いませんでした。
やがて戦争が起き、周りから出征する人が出始めてから、初めて戦争の現実感が湧きました。
いまの高校生は、幸せなことに召集される恐れはありませんね。昔は、男の子なら軍人になるとか選択は少ないものでした。ただ、いまは情報過多でどうしたらいいかわからない時代でしょう。でも、どう生きたいか、何をやりたいのか。それを探し、それに向けて努力することが必要ですね。先輩の方たちの書かれた本を読むことが大切です。そしてベストを尽くして欲しいですね。壁に行き当たっても、くじけずに自分の望みを達成するよう努力する。そうしてほしいと思います。

撮影:江真みどり
Tsuneko Sasamoto
笹本 恒子
東京生まれ。日本写真家協会名誉会員。1940年(財)日本写真協会入社。日本で最初の女性報道写真家として仕事を始める。千葉新聞社社会部、婦人民主新聞社嘱託を経て、フリーに。主な著書に『夢紡ぐ人びと/一隅を照らす18人』『ライカでショット!お嬢さんカメラマンの昭和奮戦記』『昭和・あの時・あの人』『きらめいて生きる明治の女性たち』など。
笹本恒子さんの本

『きらめいて生きる明治の女性たち 笹本恒子写真集』
(清流出版)

『ライカでショット! お嬢さんカメラマンの昭和奮戦記』
(清流出版)

『女性報道写真家第一号・笹本恒子写真集 昭和・あの時・あの人』
(BeeBooks)

『夢紡ぐ人びと』
(清流出版)

『昭和を彩る人びと』
(清流出版)