

Syunsuke Takagi
高木 俊介
1957年広島県因島生まれ。1984年、京都大学病院精神科。光愛病院を経て1992年より再び京都大学病院精神科。現在、ウエノ診療所勤務。日本で最初の往診専門の精神科診療所を来年夏か秋にスタートすべく準備中。
高木 俊介 さん(精神科医)
精神科医療においてもっとも必要なのは周囲の理解と援助です。どんなにりっぱな医者が治療にあたっても、人間関係の中で「遭難」しては、不安と孤独が増すばかりです。私たちはどのようなことで患者さんを支援することができるのでしょうか。まずは、知ること。そして当事者の痛みを思いやることなのではないでしょうか。闘う精神科医、高木俊介さんのお話は、終始そのことに尽きました。「統合失調症(以前は精神分裂病)の患者さんが好きだ」とおっしゃる高木さんの20年の道のりをうかがいました。
大学の時の成績は大体いつもびり。追試追試の連続でした。あの頃は今の大学と違ってだいぶゆるやかでね。医者になるのに、たとえばね、物理なんか必要ないじゃないかという考え方が通ったんですよ。医学部に入るのでも、今は成績がよくてきちんとしなきゃだめだけど、なんか得意があればよかったんですよ。ぼくの場合は国語とか社会が得意だった。数学なんて3分の1くらいの点しかとれないわけで、今だったら絶対通らないですね。

医者だけじゃなくて、どこでも変なやつがいたほうがおもしろいってことあると思いますよ。法学部の学生なんかが暗記ばかりやってても、おいおい、そんな真面目じゃ法律で人を救えないよ、ってね。生真面目すぎてうつ病になったり。
ちょうどその当時は刑法改正の問題があって、それに関わって留年して上から落ちてきた人たちと、いっつも追試で顔をあわせるものだから、仲良くなったんですよ。ぼくはその頃すでに子供がいたから、あいつをなんとかしてやらないと大変だっちゅうことで、彼らのやってる国試の勉強会に誘われた。あいつはほうっといたら、絶対落ちるから、なんてね。その彼らは社会運動を一生懸命やってた人たちです。水俣だとかね。刑法改正についてもずいぶんと運動してた。その彼らがぼくに言うんです。子育てするのにいちばんいいのは京大の精神科だと…。
(笑)その当時はのんびりしてましたからね。特に京大には、70年の大学闘争からのアンチ管理の命脈がずっと続いていた。ようするに、「白い巨塔」みたいじゃなかったんですよ。教授の言うことなんか何も聞かなかった。人事なんかもみんなで話し合って決めたりね。そんなわけで、学生時代には精神科の実習をさぼってて一度も病棟に足を踏み入れたことがなかったのに、精神科医になってしまった、というわけです。
最初はのんびりやってた。古くからの患者さんが長期に入院していたりしてね。ふつう大学病院というのは長期の入院患者はいなくて、研究のための患者さんだけなんですけどね。京大ではむしろ、大学闘争のときに、そういう研究を否定したから、研究はほとんどできていなくて、昔からの患者さんをちゃんと診てました。戦前から入院しているおばあさんもいて、一緒に散歩したり。のんびり過ごしていた。ところが、ちょうど1年くらいたったときに、宇都宮病院事件が起こった。患者さんが職員のリンチで死んだ事件です。
自分が選んだ精神科というところは大変な問題を抱えたところだと気づいた。すぐさままわりが反対運動に立ち上がるんですよ。精神科医療が、密室の中で、患者の人権を無視して行われていたことを目の当たりにして、医療の開放化と患者の人権尊重を求めて闘争に乗り出した。その末席に身を連ねることになったんです。学会なんかへ押しかけていったりね。また、その事件で、国連の人権委員会が日本に勧告を行った。日本の精神科医療がいかにひどいかということが、その時、白日の下に晒され、その外圧でようやく厚生省も動き、法律が改正されました。ぼくもそういつまでものんびりとはしていられない、そろそろ働かなくては、と思い、大阪の光愛病院をいうところへ行きました。

先進的に改革運動をやっている病院でした。ただし、逆に金もないから設備も改善できないで、閉鎖病棟で50人の畳の大部屋だったりするんですけどね。それでもなんとか病院を開放化しようとしていた。
そこでもやっぱり悲惨な状況はありました。人を無理やり閉じ込めているわけですから、いろいろありますよね。それを管理するために、例えば男性職員は一種の暴力装置となる状況がどこにでもあります。ぼくたち医者も言葉の暴力を知らず知らずのうちにふるっていたかもしれない。
京大も牧歌的だとはいえ、基本的には同じ状況です。精神科というだけでそこには差別が歴然とあるんです。例えば象徴的な話ですが、精神科の病棟というのは、病院と少し離れた鴨川のそばにある。他の科は通りを隔てた東側にある。しかも、皮膚科と結核病棟と精神科がその場所に置かれていた。つまり、隔離されているんです。ハンセン、結核、精神…。
そこに10年いました。貧しいが熱心でおもしろいところで、病院だけではなく、地域とのつながりを求めて、保健所などとも連携をとったり、他の病院もまとめた「精神医療を考える会」なんかもあって。地域の保健師さんとも知り合いになって保健所の嘱託医として往診したり、いろいろ勉強させてもらいました。
病院だけではだめなんです。病院が地域に開放されなければならないし、患者さんが地域に戻らなければならない。たとえば、小さな例だと、病院の中で料理教室をやるとするでしょ。ずっと入院している患者さんを集めて、さあやりましょう、と。こっちはいいことやってるつもりでも、患者さんにしてみれば、退院の見込みもないし毎日ご飯が食べられるのになんでこんなことを、というふうになる。でも、同じことを地域の公民館を借りてそこでやるとぜんぜん違う。えっ、この人こんなにしっかりしてたの、というくらい。そこに家族もきてもらったら、家族のために作るものを覚えたいという気になる。家族にとっても本人にとっても退院への第一歩となるでしょ。
やっぱりほとんどの精神病院は山の中にありますし、鉄格子いっぱいありましたしね。でも、10年かけてずいぶんいろんなことが変わっていきました。そのうちにぼくのいた病院もふつうの少人数のベッド部屋になったし、そうして病院を変えていくのもおもしろかった。
京大の方もその10年の間に、ぼくの同世代の人たちががんばっていて、医療活動のための条件がいろいろと整ってきた。そろそろ若手を育ててみないかとか、京都の方でも地域医療を考えてみないかと言われて京大に戻りました。それでまた、京大に10年。その京大時代の10年が、ほとんど「精神分裂病」から「統合失調症」への病名変更と重なるんですよ。
全国精神障害者家族会連合会という団体があるのをご存知ですか? 93年にその家族会が精神医学学会に対して「病名変更」の要望を出したのが始まりです。
その頃の精神医療の状況というのは、ちょっと困った状態に陥っていました。患者さんの人権を守り、精神医療をもう少しちゃんとやらないといけないと、厚生省も考え、人権を守ろうという法律ができた。できたはいいが、法律のおかげでどこもずいぶんましになって、見かけ上は病院もきれいだし、訪問看護など地域医療にも報酬が支払われるようになった。だけど、めまぐるしく変わる厚生省(現厚生労働省)の経済政策に対して、いかに対応するかということが病院の負担になってきた。すべては経済的な枠組みの中で考えなければならなくなってきたんです。患者さんは数見なければならないし、入院も、何日以上は診療報酬がぐっと下がるから、まだ病状が悪いのに地域にも支えがないまま退院させたり、病院経営の犠牲になる。
改革運動をやってきた運動も疲弊してきちゃってる。悪いことをやってきた病院はそれまでの蓄えで立派になって、自分たちががんばってやってきた病院は、厚生省が走り出したら、逆にその波にのれないでいます。実際、めまぐるしいほど厚生省主導で精神医療の状況は変わっていました。そんなことから、90年代には「精神科に開放医療を」というそれまでの改革運動のスローガンが力をもたなくなった。ぼくも京都に戻ってきて、これから何をすべきかと考えてもいた頃でした。大学の中での若手の教育があるが、外向きの活動は何をすべきかと考えていた。そんなときに、「病名変更」の話があった。しかもそれは、患者さんの側から、当事者からの要望だった。ぼくはこれからは当事者が中心になっていく時代になっていくだろうし、そうしないといけないと思っていましたから。
最初に医者になった頃、「分裂病」って変な名前だな、こんな病名つけられたらかなわんなと思いましたよ。「統合失調症」という病気は、百人に一人がかかりうる、とても多い病気です。教科書には感情がなくなるとか、人格が低下するとか書いてあるけど、ぜんぜんそんなことはない。もちろん、病気が重い時期には、一見そう見える人もいます。たとえば、ひどく暴れたり、突然の自殺にいたったり、わけのわからないことを言うようなこともあります。そんな病状が特に重い患者さんが、体の病気にかっかって重体になった時に、急に精神状態がよくなって、ぼくが当直の夜に話し出したことがありました。お父さんが校長先生で、お母さんも先生で、「ぼくは強い人間にならなければならなかった、強い人間になりたかったのでボクシングの練習もしてた」なんて言う。そういうことをポツンと言って「遅くに来ていただいてありがとうございます」なんて言ってしっかりしてる。その人には、「強くなりたい」という確かな思いがあったということがわかりました。また、長く入院している人にそろそろ退院のことを持ちかけると、これまでの自分の歴史をぽつぽつと話し出して、もうあんな辛い世の中にはどうぞ戻さないでと言う。それはもう、とうてい感情がない人の言葉だなんて思えません。かといって、病院に長いこといることが、本当に幸せであるわけない。長く入院したまま年老いたある患者さんは、病院のことを「ここは天国のような地獄です」と言いました。

今でこそ診療所レベルでは自分から来ますが、10年前までは、精神科といえば、無理やり連れてこられるところだった。だから、医者が診断するんじゃなくて、世間が「この人おかしい、精神科だ」と判断してつれてきた人に医者が病名をつける、という構図ですね。
当然のこととして、今の医学の範囲内で、自分がもつ知識と技術で少しでも助けてあげなければならない。それは医者なら当たり前。でも、私が強く思うのは、精神科医にはそのほかにもう少し別の役割があるということです。精神医学の中にも偏見の産物がいっぱいある。それに対して無防備でいたら、精神科医自身が人権侵害を行うことになる。そのことは非常に重要な注意点ですね。

そうです。病気といっても、心が病気だから、胃が痛いということとは違って、心が痛いわけで。痛い心を抱えて生きているわけだから、生き方もふつうの生き方とは違ったものになる。幻覚や妄想のように非現実的なものをものすごくリアルに抱えたまま、この世で生きるわけですから大変つらいことだと思います。でも逆に、きれいだというか、現世的興味や執着がなくて。だから、精神科医はたいてい、「統合失調症」の人が好きなんですよ。もうその人たちと会うとほっとするって言う精神科医が多いんですよ。世間の人たちが考えているのと、きっと逆ですね。だからもっと世間の人も統合失調症の人たちとつきあってみてほしい。
多いです。たとえば、私のいる小さな診療所でも、多いときは毎日5人、少ないときでも2人、新患の人が来ますからね。なかでも若い人のうつ病が増えている。マスコミなんかでからかい半分に「自己申告うつ」というけど、自己申告でなくてもうつの人が多いですよ。うつは10代後半から20前後からすごく増えます。
真面目な子であることが多いですが、どんな人でもなりうる。じつは、こころの病気っていうのは、うつ病に限らず、ものすごく多いんですね。あらゆる病気の中で他の病気よりも多い。しかも若い人に多い病気です。うつ病の場合、10代から出てくる。そして20歳前後に山がある。それから女性だったら30代、男性は40代に、それぞれ昔から厄年と言われる人生の難所で生じる。そして60代にも。これは退職や老いなどの不安が原因です。
今の高校では一つの高校に10人や20人うつの人がいてもおかしくない。うつというのはね、心身のエネルギーの喪失の病気。若い人が失恋するとする。落ち込む。だけど、その前に好きだった子が慰めてくれるとぱっと元気になる。それはただの落ち込み。うつ病っていうのはエネルギー自体がなくなる。健康ならば疲れると眠って回復する。ところがうつ病になると体の回復力自体が低下するから、どんなに疲れても眠りについてもすぐに目がさめる。あるいは、若い人に多いのは、だらだらいつまでも眠りつづける。でもそれはちっとも眠りになっていない。食欲もなくなるし、もちろん性欲もなくなる。だから、精神科医にとってはかなりはっきりわかりますね。
そうです。うつ病は人生の節目ですから。つまずきを理解されると、うつ病の大半は自然に治ります。休んだらいかん、がんばれとか言われれば治りません。

元気いっぱいの人が多いんです。しかも世の中のしくみを疑わずに、そこにぴったりとはまっている人。自分の役割に生きがいを見出している人がなりやすい。張り切りすぎ、がんばってエネルギーが少なくなっているところに、何か自分のがんばりだけではうまくいかなくなることが起こるとそこで消耗しきる。なんで自分はこうなっちゃったんだろう、なまけているだけじゃないかと自分を責める。
本人もまわりも精神科の知識をもってほしい。調子が悪くても周りに関わり方の知識があれば、こじらせてしまうことはない。そういう意味で教育は大事だと思います。
今の日本で病院のベッド数120万のうち、35万は精神科です。しかもそのほとんどが山の中。町中から精神障害者がいなくなった。昔なら見かけていてなんとなく了解していたのに、今はまったく知らないのに、何か悪いこと、危険なものというイメージだけを持つ。

「精神分裂病」にかわる病名を募集する記事(朝日新聞)
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そうです。患者さんにも家族にとっても、この病名のレッテルはつらいものです。それで、家族会が精神神経学会というところに病名変更の要望を出したんです。
最初のうちは、そんなことやってもしょうがないと冷笑されました。現実的に精神医療改革に熱心だった医者たちが、逆に、名前なんか変えてもしょうがない、そんなひまがあったら医療の実態を変えるべきだと言った。でも私は、まず専門家である学会が当事者である家族会の要望をきちんと受け止めること自体が、これからの医療にとって大事だと思ったんです。
ところが、そのうちに流れがだんだん変わってきた。95年に障害者基本法というのができた。その法律によって、精神障害者も、身体障害、知的障害と同じように、医療・福祉を受ける権利を持った障害者であると認められた。これは画期的なことでした。その障害者基本法のもとにあるのはノーマライゼーションです。「当事者が決定するし当事者は尊厳をもっている」。これって、「精神分裂病」という名前とぜんぜんそぐわないでしょ。
それからもう一つの流れは、医療の世界でようやく「インフォームドコンセント」が言われるようになったということです。90年くらいに言ったって、そんなもの、何をさすコンセントですかって(笑)。それが95年くらいになると当たり前の言葉になってきた。それは当然精神科にも影響を及ぼします。それまでは精神科医はひとつも病名を言っていなかったけど、やっぱり病名をちゃんと言って治療すべきだ。そのときに「精神分裂病」という名前ではまずい、と。
98年、ハンブルクでの世界精神医学会で、日本ではこういうことをやっている、ということを発表しました。そうするとね、学会で、しかも世界でやると大学の教授たちものってきた。それまで反対してたのに、2000年くらになると、なんで変えないのか、早くやれ、と(笑)。
いいえ。分裂病という名前はいけないとわかっていましたが、どう変えるのかはまだ。そうなると、今度はちょっとあせりました。それで、これはもう当事者を巻き込もうということで。名前を変えるという機運が高まったので、家族会ががんばってくれた。家族会の人が新聞広告を出したんです。それは朝日新聞の全面広告で、その年の広告対象もとりました。コスモスがあって、「心が分裂しているなんて誰にも言わせない」というコピー。それで、当事者をはじめ一般の人からもたくさん名前の候補が寄せられ、それらを参考にしながら「統合失調症」となった。この名前だっていろんな文句があったけど、ベストのものなんかない、また変えたらいいじゃないか、と。
まだもう一歩のところです。だけどよかったなと思うのは、マスコミ全体に、この病気に対するプラス報道がものすごく増えたことです。ぼくが家庭欄(毎日新聞2002年11月~2003年2月)に連載というのも、前には考えられなったこと。今はもう、そういうのがきっかけになって、たとえば読売新聞では、統合失調症の本人が連載しています。本人が説明するとリアルでしょ。反響はすごいですよね。作業所とか社会復帰に努力しているところのことを一般の人に知ってもらえるような報道も格段に増えたと思いますね。

なんで10年もかかったのかと思うけれど、患者さんの側から出た要望を、お高くとまった専門家集団であることの多い学会が受け止めたということは、医学の歴史の中では大きなできごとだったと思います。かつて「精神分裂病」と呼ばれた患者さん本人たちが運動を支えてきたというのは大きな意味があります。このことをぜひ心にとめておいてもらいたいし、「おい、みんな、世の中って変わるぞ」ということをぼくは言いたいですね。
Syunsuke Takagi
高木 俊介
1957年広島県因島生まれ。1984年、京都大学病院精神科。光愛病院を経て1992年より再び京都大学病院精神科。現在、ウエノ診療所勤務。日本で最初の往診専門の精神科診療所を来年夏か秋にスタートすべく準備中。編著に『ひきこもり』(メンタルヘルス・ライブラリー 7:批評社) 、訳書に『精神疾患はつくられる DSM診断の罠』(日本評論社)、『こころの扉を開く 統合失調症の正しい知識と偏見克服プログラム』(日本精神神経学会)など
高木 俊介 さんの本と推薦図書

『ひきこもり』
(メンタルヘルス・ライブラリー7)
高木 俊介編
(批評社)

『精神疾患はつくられる DSM診断の罠』
H・カチンス、S・A.カーク著
高木 俊介、塚本 千秋 監訳
(日本評論社)

『心を乗っとられて-ある精神障害者の手記』
森 実恵 著
(潮文社)

『思春期理解とこころの病 こころと心をつなぐ学習プラン』
阿形 恒秀 ほか編著
(解放出版社)