祖父江 慎 さん(エディトリアル・デザイナー)
丁寧でいて、どこか戸惑いを覚えてしまう本の装幀を見かけたことはないだろうか。
例えば、明らかに乱丁・落丁であるというデザインが印象的な吉田戦車さんの『伝染るんです。』や、
分厚さが圧巻の京極夏彦さんの『どすこい(仮)』など。
思わず手にとってしまう強烈さが祖父江さんの作品にはある。
いったいどうやったらそんなデザインが思い浮かぶのだろう。
「デザイナーになりたい!」なんて強く考えたことって、なかったんですよ。よくもここまで何も考えずに生きてきたよなってくらいです。高校時代は、ぼんやり絵画の道に進みたいな‥‥って思ってたんですけど、学校の先生には「彫塑に進め」と言われるし、周りには「美術じゃ、食っていけないぞ」と言われるしで、だったらデザインなら食べていけるのかもって。そんないきさつで、大学のデザイン科を受験したんです。そもそもデザインって何なのかすらよくわかってなかったんですよ。
それに将来、自分で仕事をして、それで生計を立てていくってことも全然リアリティが持てなくって。で、流されるまま、今に至っている感じです。

それは、たまたま運が良かったんです。恵まれているなって思いますよ。
デザインの世界に入ってからは、憧れたデザイナーは、たくさんできました。でも、努力ってしてないです。ホントに考えなしだったと思いますよ。ただ、好きなことには熱心でした。
未来の自分については、「こうであるべき」なんて目標を持って向かっていたわけではなくて、「こんなだといいかも」なんてくらいのぼ~っとした想い描きはありました。今がそのとおりかどうだかといえば、あやしいけど。なんとなく生きてました。
入りたい気持ちは強かったけど、入ることができたのは、たまたまですね。

入試の時、デッサンのテストの位置が通常一番難しいとされる真逆光の位置だったんです。でも、僕はその位置からしか石膏像が描けなかったんです。通常の光は苦手だったんですよ。石膏像って白いでしょ? バックのほうが暗いから、石膏像を描くより前にその明度差が気になって、バックを濃くしているうちに時間が経っていってしまって、メインの石膏に手つかずのまま終わっちゃう。真逆光は周りが明るいからいきなり石膏像が描ける。それがよかった。普通の光の位置からだったら、たぶん落ちていたでしょう。たまたまで人生がつながってるんです。
ふにゃふにゃ好きなことしてたら、たまたまの運で、何とかなってる見本みたいな感じですよね。
健康でいることは、大事ですよね。でも、がんばりすぎはダメだと思うんですよ。おいしくご飯を食べられて、気持ちよく寝て、好きな人とお話をして‥‥。
人生で大切なのは、だいたいそれくらいですよね。嫌なことは、できればやりたくないし、好きなことは、やってて楽しいし。無理に偉くなってもしょうがない。
好きなことについては「辛抱・努力・我慢」をしちゃいけないと思ってるんです。今やりたいことは、すぐにでもやったほうがいい。将来の自分の理想像よりも、今、やってみたいこと! 未来の自分ためばかりに、がんばりすぎちゃよくない。あしたどうなるのかなんてわかんないんだから、未来のために根(こん)をつめすぎない。将来のことばかり見つめていたんじゃ、もしそうならなかった時にショックでしょ?
どちらかといえば嫌いだったんですよ。高校生のときは特に。できれば本や受験から早く解放されたかったです。
それに子供の頃は、明朝体の書体は怖くて気持ち悪くて、近くに置いておきたくなかったし、リアルな絵本は写真と区別がつかなかったし、写真集は、湿った違和感がありましたよ。学校で感想文を書く課題が出て、本を読んでみても、ストーリーがわからなかったんですよ。字は追えるけど、何のために文章が書いてあるのかわからないし‥‥。
ひとつひとつの文章の意味はわかるけれど、それがいっぱいあっても、それぞれがバラバラでひとつのお話としてつながらなかったんです。じょじょに話としてのつながりが理解できるようになりましたけど。だけどこんどは、その話と自分との関係がよくわかりませんでした。
自分と関係ない話を読んでどこで感動すればいいのかわからない。物語のおもしろさがさっぱりわからなかったんですよ。映画を観てても絵や写真が動くのはおもしろいなってわかるんですが、筋がわからない。学校の上映会では、友達が笑うタイミングに合わせて笑うことで頭がいっぱいで、おもしろかったねと言われても、どこを面白いって思えばいいのかわからなかった。バカだったのかなぁ。
小学校3年頃までは成績はけっこう良かったほうですけど、高学年以降すごく悪くなりました。勉強の仕方がわからなかったのかも。覚えろと言われても覚えられないし。試験で「カッコの中を埋めなさい」という問題の意味もよくわかんなくて、文章としてつながってればいいんだよなって狭いスペースに文字いっぱい書き込んじゃったり。出題者が何を望んでるのかがわからなかったんですね。しょうがないね~。
ほんとに他人の意向ってのがどうも理解できなかった。学校の先生の作ったテストはいいとして、印刷されて売られているドリルとかやるときは、この問題って、いったい誰が僕に聞いているんだろう?とかって。

う~ん、あまり記憶にないんですよ。覚えているのは、勉強から外れたところばかりなんです。なんだか受験勉強してた時期って、かなり無駄だった気がします。
高校の頃は、ひとり木登りが好きでしたね。開放されましたよ。周りと遮断されてるのって気持ちよかったです。あと、迷子になってみるとかね。よく知らない町をわざと覚えないようにして歩くんです。北も南もわからなくなってくるとかなり楽しいですよ。部活には入っていたんだけど、サボってましたね。映画製作研究クラブでした。
部活のサボり方とか。中学の時は、同じ部にすごくサボり方のうまい子がいたんですよ。いなくなったことに部員がほとんど気がつかない。自然に違和感なくすんなりと。ノウハウを教えてもらって一緒にワクワクサボってました。あと、宿題の手の抜き方とか、やばいときの逃げ方とか。そういう友達は、決して成績は良くなかったけど‥‥というより最下位に近い成績だったけど、すごく好きでした。要領とか他人との距離のとり方とかを学びましたね。それは、役立ってます。

とくにデザインや美術の世界では、ぜんぜん関係ないです。たとえばイラストレーターでも、デッサンができなかった人のほうが、いい仕事しているケースが多いんです。じょうずに出来てしまう器用さは、仕事によってはネックになることもあります。知識や技術がついてくると、ものごととの接し方が安易になってくるんです。ことがらとの関わり方に自分なりのフィルターがかかり、相手との距離ができてくるんです。そうすると、気づかいがなくなり、感動も減って、なにを見ても見えてくるのは、相手ではなく、自分の見方だけ。ものを見てても、実は自分の解釈しか見てないのと変わらなくなってくる。それって、なんかつまんない。やっぱり、どこかうまくいかないほうが、ドキドキ楽しいよね。
高校という場所は、自分の将来のことを考える場所でもあるんだろうけど、これから自分が何をしていきたいのかって、簡単には決められないですよね。こういってる僕もこれから先、自分がどうしていくのかなんてわからないですもん。明日もわからないのに、何年か先に自分が何の仕事をするのかを決めてしまうのって無理ですよね。しかも自分の決意だけでそうなるってわけでもないし。
自分の将来について想い描くことは大切で、それがなくっちゃ始まらないと思うんです。だけど、その夢に向かって脇見もふらずに突進してたんじゃダメだと思うんです。途中で乗り換えてもいいし、やめちゃってもいい。道草もすてき。自分の未来を描いて、うっとりするくらいで止めといたほうがいいのかも。ダメならダメで良しって。
大人になって、自分が思い描いた仕事に就いている人って、きっと少ないと思うんです。どこか近い仕事をしてる人もいるし、まったく不向きな仕事をしてる人もいる。だけど食べていくためには、不向きだからって仕事を止めるわけにもいかない。でも、向いてないと思いながら仕事をいやいやしてる人は、会社などの経営者側からすると迷惑だしね。誰だって、うれしい方がいいに決まってる。
大切なのは、どんな仕事をやってても、がんばっちゃえるワクワクだよね。「いいよな」と思えるかどうか。
それと、どうしてもワクワクできない仕事であったときに脇道にいける勇気だよね。自分が学生時代に夢見ていた未来像と現実とのギャップがあってもへっちゃらな精神力だよね。自分の未来を自分でガチガチにしばっちゃダメだよ。希望は、低くていい。
自分の未来のために「なんとかするぞ」って過ごしてきた受験勉強の時間って、今考えると、とても空しかった気がします。サボったり遊んでたりした時間のほうが、今に活きていると思いますよ。目的に向かう集中力なんて、世間が狭くなるばかりでなんの役にもたちません。まわりが見えなくなるばかりです。それよりは、ワクワクうわの空。それがちょうどいい。

あまり根を詰めるとダメですね。やっぱりデザインは「うわの空」がいいと思います。
おもしろいかどうかは、わからないですが、発想というものは、考えちゃいけないんです。考えたり企画を立てたりすると、内容が遠のいて、別物になりがちです。それよりも内容や著者に感銘できるかどうかが大切です。形は、作るんじゃなくて最初からあるものなんですよ。それを具体的におこすだけです。
もし、最初はつまらないと感じる内容であったとしても、ちゃんと味わえばたいていのものには“すてき”なことが、いっぱい詰まってるんです。“すてき”が見つかると、つまらないと思ってしまってたいままでの自分のほうがつまらなく感じられますよ。物事を考える時には、「良い・悪い」と分けて考えると楽ちんだけど、それでいいのかなぁ?って思います。“良い”中にもすごくつまんないところがあるように、“悪い”とされているところにもちょっとは“良い”ところが必ずある。自分だけの考えで見ているとつまらないです。
考え込むと、自分の世界観が邪魔して見通しが悪くなるんですよ。なんとなく「うわの空」で感じ続けることが、大事だと思いますよ。相手を受け入れないような一方的な「うわの空」じゃ問題だけど。「よくないな」と思いながら仕事をすると、絶対いいものにならないんです。よくないと思うところを隠そうとか、何となく目立たなくしてやろうとか考えちゃう。そうすると、せっかくコミュニケーションツールである本なのに、ディスコミュニケーションを求める部分が混じってくるから、気持ち悪い本になってしまいますね。
文字組に強くなりたいのであれば、文字を読めない目になっておくとか。字って、つい読めてしまうと組に気付きにくくなるんです。文字を忘れた目で見てみると、文字組の魅力が伝わってくる。味わえるようになります。
用紙だって同じです。触ったり、匂いを嗅いだりして、とにかく無駄についてしまった紙についての知識を忘れて、始めて接するような、そういう状態を準備できる姿勢がないと始まらないですね。
そうなのかもしれません。たとえ石ころひとつを1日中見てろと言われてもへっちゃらですよ。“嬉しい”と思いながら、ずーーっと見ていられますよ。
問題があるとすれば、印刷でうまくいかないことがあっても、「ああ、うまくいかなかったよなぁ」って味わってしまうところです。「このうまくいかなさ加減が、なんともなぁ~」なんてね。眺めることでいくらでも物語が生まれちゃいます。

無駄も、ときには、いいですよね。
でも、形をおこしていくときは、排除しないとわけがわからなくなるから、できるだけ無駄は、ないほうがいいんです。ものを作るときは、自分が思った通りにできたという達成感なんかよりも、誰かと組んで仕事をして、その人がどう出てくるのかなっていう喜びのほうがうれしいですよね。一緒に仕事をしているこの人は、これをこういう見方で見ているのかぁ‥‥って。そこでまたうっとりしてしまいますよ。
仕事のチェックをしていて「何かよくないんじゃない?」と思うときは、たいてい相手が内容に魅力を感じられていないときなんです。あと、「嫌だな」と思いながら仕事をすると、その嫌さが商品のどこかに出てしまうんですよ。
デザインを見れば「このデザイナーはこの著者や内容をあんまり好きじゃないんだな」とすぐにわかります。好きになれないんならデザインはやっちゃいけないんです。技術のない人でも、内容を好きで頑張ったほうがプロなんかよりもいい本を作る可能性が高いんですよ。
味わい、楽しむためには、知識があったほうがいいんです。何にも知らない人がページを眺めるのと、書体とか文字の基本サイズとか印刷とか紙を知っている人が眺めるのとでは、味わい方の幅が違いますものね。知識ゼロと知識満杯とで同時に味わうんですよ。文字の組み方も出版社や書籍によって様々で、そんなデザインの文法のようなことがわかるとおもしろ甲斐がありますよ。1ページを見てるだけでも1日中もちます。
「こだわり」ってこと自体がなんだかあいまいで、よくわからない言葉ですよね。自分では、さっぱりこだわりがないんじゃないかと思うくらい、こだわりのないこだわりがあるかもしれないし、でも、そう考えたり言ったりすればするほど、どうでもいいことだと感じます。
なにはともあれ、世の中はおもしろいです。未来のことばかり考えたりしないで、今日をワクワク過ごしてほしいですね。ステキなことや予想外のよろこびが、未来では待ち受けてますよ。未来って、努力して進んでいくものじゃあなく、なんだかやってきてる“現在”みたいなもんですよね。「明日」を経験した人っていないもんね。

Shin Sobue
祖父江 慎
1959年生まれ。多摩美術大学在学中より工作舎でアルバイトを始め、88年フリーに。人文書から小説、漫画まで手がけるデザイナー。コズフィッシュ代表。
祖父江 慎 さんの本

『グラフィック・デザイナーの仕事(太陽レクチャー・ブック 001)』
祖父江 慎・角田 純一・グルーヴィジョンズ・クラフト・エヴィング商會 著
(平凡社)