

Paradise Yamamoto
パラダイス山元
1962年札幌生まれ。日本大学芸術学部美術学科卒業後、カーデザイナーとして活躍。その後、ラテンミュージシャンとして「東京パノラママンボボーイズ」でメジャーデビュー。グリーンランド国際サンタクロース協会より、正式に認定された日本人で唯一の公認サンタクロースとしても活躍中。
パラダイス山元 さん(ミュージシャン)
パラダイス山元さんは、ラテンリズムのマンボを生んだペレス・プラード氏から日本人で唯一「アーッ、うっ!」のかけ声を指導された。つまり日本を代表するマンボミュージシャンで、ラテンパーカッションの第一人者。また98年、グリーンランド国際サンタクロース協会に認められた日本人で初めての公認サンタクロースになるなど、様々な場で活躍されています。ミュージシャンになる前は自動車メーカーでデザイナーをしていたという異色の来歴も持つパラダイス山元さんにお話をうかがいました。
日本では昭和20年代後半から30年代にかけて、マンボが大流行していましたが、音楽だけでなく風俗の色合いも含んでいました。全国にダンスホールができると、若者が繰り出したのですが、そのとき履いていた裾が短めのピッタリしたズボンを「マンボズボン」といいました。
ラテンリズムのジャンルなんだけど、「マンボ的」と表すしかないような風俗も含んで流行っていました。例えば「マンボ窃盗団」といったように、「マンボな~」といった感じで、何か新しいもの、楽しいものをひっくるめた総称として受けとめられていたんです。だから、マンボには和洋折衷の臭いがあるんでしょう。能では、「ヨォー」というかけ声がありますが、あの発声のタイミングとマンボの「アーーーッ、うっ!」も何となく似てますしね。

私が小学生のとき、毎週土曜日の夜8時に「8時だよ!全員集合」という番組がありました。加藤茶がハゲかつらを被って場末のストリップを演じるコントがあって、官能的なリズムとスポットライトとともに加藤茶が現れて「ちょっとだけよ!あんたも好きねぇー」と体をくねらす。その直後、「バカ野郎!」といかりや長介が登場するという内容でした。
その毎度流れるメロディに何だか大人の世界を垣間見た気がしまして、それに取り憑かれたんです。「岡本章夫とゲイスターズ」という番組のテロップを見て、レコードを探したけれど見つからない。それもそのはずで、毎回生演奏で行っていたんです。
レコードがないから、FMラジオにリクエストする中で、その曲のタイトルが「タブー」だと知り、「それに近い演奏をお楽しみください」とラジオから聴こえてきたのがペレス・プラードが演奏していた「タブー」。私がマンボにのめり込んだきっかけは、マンボの生みの親、ペレス・プラードではなくドリフターズということになります。
やがてペレス・プラードのコピーバンドを始めたんですが、マンボは簡単そうに見えて難しい。子どもではなかなか表現できない音楽でした。
マンボだけのせいでなく、人と同じことをするのを嫌っているうちに、そういう扱いになったんです。これには父親の責任もあるでしょうね。父親は大学の数学教授で、とても堅い人でした。母親も厳格で、両親ともに「勉強しなさい」とか「~しなさい」がとにかく多かった。
自分の子どもにもそういう言い方をついしてしまうので「親に似ているな」と思いますが…。子どもは親の言うことに反発するのが当たり前。僕は親が望むことのすべて逆をやってきたので、「もうあんたには何も期待できない」と言われました。

数学者にしたかったみたいです。実家が魚屋をやっていたら、それもわかります。けれど、数学者には向き不向きもあるし、訓練でどうにかなるわけではないから学力は必要でしょう。勉強については、「これじゃいけない」と思ったことがあって、中学になるとがんばったことはありました。そしたら学年で2番になった。でも、担任の教師がいまなら間違いなく解雇されているような暴力教師で、それで歪んでしまったんですね。まあ、今にしても思えば、その教師がマンボに誘導してくれたと言えないこともない。
いや、僕は自分の好きなものを追求してきたと思われがちですが、人から「それはやるな」と言われ続けてきたことをやっていくうちにこうなってしまっただけです。
中学の担任は、音楽教師でブラスバンドの顧問でしたが、僕に「音楽(マンボ)をやるな」と言い続けた。僕がブラスバンド入っているときは、音楽の評価は5だったのに、辞めたら次の学期は2になった。その不条理な先生には苦しめられました。人生で一番苦痛な時期でした。
でも、隠れマンボファンとして仲間を増やす活動もしていて、文化祭に向けてバンドを組んだんです。すでに70年代でしたが、エレキギター=不良、で禁止されてました。だからエレキベースギターのかわりに、エレクトーンのできる子を連れてきてベースにさせるという荒技もしました。しかし、なんで同じ電気なのにエレクトーンはよくてギターはダメなのか。いま思えば、ホント鬼教師と吊し上げられるような人たちでした。

マンボっぽく聞かせる必要に迫られて自己流でやってました。中学からアーとかウッとか言い始めて、完成に近づいたのは、後に会社員になってからです。その頃、ペレス・プラードの追っかけをやっていて、来日したときに直々に教わりました。
でも、まったくなっていなかったのか、「何しに来てるの?」「今日は腹が痛いんじゃないの」と怒られ通しでした。スペイン語と英語まじりで、「来ても意味がないよ」とあしらわれていました。会社を休んでまで追っかけていましたから、可愛がってくれそうなものですが、女性にしか興味なかったみたいです。
でも、最後の来日のとき、「それでやったら?」みたいなことを言われた。その翌年に亡くなってしまったので、やっぱり僕はマンボをやらなきゃいけないかもと思いました。

2浪して日大芸術学部でインダストリアルデザインを学んだのですが、そこは車のデザイナーへの近道と言われていました。マンボで食べていけるとはまったく思っていなくて、デザインの仕事をしながら趣味でマンボをやっていけたらいいなと考えていました。
それで、トヨタや日産に行くのはマンボ的ではないと思って、某メーカーに入社しました。まあ、トヨタや日産ならデザイン部長は無理だけど、「ここならデザイン担当取締役になれるかも」と思ったのは確かです。
他社だと1台の車を20人くらいでデザインするんですが、そこは3、4人でしかも内装も外装も「面倒くさいからお前やれ」といった具合にやらされる。だから他社の10年分の経験を5年でやった感じです。物凄く充実していたんですが、なぜか虚しい気分に襲われるときがありました。
会社組織にとことん馴染めない自分を再発見する期間でもありました。他社が丸いデザインを手がけているなら、違うデザインをやるのがデザイナーの発想のはずですが、流行りにならおうとする体質があった。非常に合理的な提案をしても受け入れられない。そういうときに、たまたま依頼されたある音楽会でボンゴやコンガを叩く機会があって、そこでDJ+パーカッションというスタイルができてしまった。即席の3人トリオスタイルが「東京パノラママンボボーイズ」と呼ばれるようになったんです。
その頃は今のようにDJが全国何千人もいる時代じゃなかった。15人くらいと数えるしかいなかった。そんなときだから、クラブが出来たとなると、あちこちから声がかかりました。DJとパーカッションという組み合わせだと営業に呼ばれやすいし、アンプがなくても演奏できる。だから大安の日曜日は、まったく知らない人の結婚式の二次会に呼ばれるなど、山ほど演奏してました。

自分の結婚式で、自分が演奏したりとかなり派手な式にしたんです。たまたま出席していたテレビディレクターから出演依頼をいただいたりして、そうこうするうちに何だか急に音楽活動が忙しくなった。そこで初めて音楽で食べていく道もあるかと思いました。奥さんに相談したらまったく反対しなかった。結婚にあたっては、奥さんの両親に「取締役くらいにはなって娘さんを幸せにします」と言ったんですが、結婚から一年後には退社してました。
同窓会では、「30年前からやっていることはまったく変わっていない」と言われますが…。定職に就かないのは不安でしたけど、最近になって「仕事が来なかったらしようがないな」思うようになった。蓄えはないけれど、やりたくないことはなるべくやらないほうがいいですから。

5年前に人の紹介で始めたんです。なりたいと思っていたわけではなかったし、どちらかと言えば、慈善活動的なものに対する冷ややかな目を持っていました。でも、実際になってみると、自分の思っていなかった面を自分で発見しましたね。
クリスマスの日、重度の身障者の子どもを慰問するため病院を訪ねたことがあります。行く前までは、「何をすればいいんだ?」と思っていたんです。お話したりプレゼントを渡すだけですが、ものすごく喜ばれた。とりあえずこんな人気者になったことはないってくらい。それこそ生まれてから一度も笑ったことのない子どもが笑ったりしたんです。
そうなるとサンタクロースの活動はボランティアかもしれないけど、誰にも代わりのできないことだと思うとやる意義はあるかと思いました。
人生の中で絶対耐えてなくちゃいけない期間ってそんなにない。もしかしたら中学とか高校の3年間くらいかもしれない。いま40歳の僕が振り返って思うには、本当に耐えたのは3年くらいですね。
これまで述べたこととすごく矛盾して聞こえるかもしれないけれど、好きなことはこれから先いくらでもあるから、高校生の間は何かに反抗するより素直になったほうが重要じゃないかな。目の前の好きなことをやってしまうと、それ以外の好きなことが見えなくなる。本当に好きなことが後から出てくることだってある。
いま大切にしている価値も、外から見ないとわからないこともある。選択肢は無限にあるのだから、いまくだらないと思っても、そのくだらないことにかける時間は後にとても必要なことになってくると思いますよ。

Paradise Yamamoto
パラダイス山元
1962年札幌生まれ。日本大学芸術学部美術学科卒業後、カーデザイナーとして活躍。その後、ラテンミュージシャンとして「東京パノラママンボボーイズ」でメジャーデビュー。マンボの作詞・作曲・演奏活動のかたわら、グリーンランド国際サンタクロース協会より、正式に認定された日本人で唯一の公認サンタクロースとしても活躍中。著書に『ザ・マン盆栽』(文春文庫PLUS)『お湯のグランプリ』(角川書店)、『ザ・マン盆栽 百景』(扶桑社)『サンタクロース、ライフ。』(ヤマハミュージックメディア)。CDに『東京パノラママンボボーイズ完全盤』(テイチクエンタテイメント)などがある。
パラダイス山元 さんの本

『 ザ・マン盆栽百景』
(扶桑社)

『ザ・マン盆栽(文春文庫PLUS)』
(文芸春秋)

『サンタクロース、ライフ。』
(ヤマハミュージックメディア)

『お湯のグランプリ(角川文庫)』
(角川書店)