

Takayuki Suzuki
鈴木 隆之
1961年千葉県生まれ。県内の小、中、高から、京都大学工学部建築学科へ進む。卒業後、アトリエ・ファイ建築事務所を経て、89年から京都精華大学へ。91年に(有)鈴木隆之デザインネットワークを設立、主宰。建築家として「建築のラストシーン」展(90年)。「GJリーグ」展(93年)。
鈴木 隆之 さん(建築家・小説家・京都精華大学デザイン学科助教授(建築))
哲学書を読みふけっていた早熟な少年は、建築と文学の両方を選んだ。建築家であること小説家であること――鈴木さんにとって両者は相互補完的な関係であって、2足のわらじを履いたのは自然かつ必然的な成り行きだったに違いない。ある日に見た景色を、建築でも文学でも表現したい、できるはずだと強く思ってしまった時から。
それは人間の内面、本質に触れたいという欲望でもあった。その答は簡単に見つかるものではないが、そう簡単に見つからないからこそ意味があるのだとまるで哲学者のように語る。若い頃からずっとその答を考え続けてきて20余年。やっと、「道筋のようなものが見えてきたくらい」だという。建築を通じて、文学を通じて、今もまだ考え表現し続けている。
知人の男性の依頼を受け、予算500万円のスーパーローコストハウス、つまり激安住居の建築・設計を作っています。そもそも建築は、ものすごくお金がかかるもの、というのが常識です。住宅ならば数千万、ビルであれば数億、数十億、大きなプロジェクトになれば数百億も珍しくない、大きなお金が動く世界なんですね。だからこそゼネコン汚職とかが起こるわけで。
僕は建築を目指した大学入学の頃から、いいものができるかどうかはお金をふんだんにかけられるかにかかっている、などということであれば、建築なんてつまらないと感じていました。だからこそ今回の話が来た時、予算500万は相当厳しいけれども、極限にお金がない中でどんなことができるか、むしろお金がないからこそこんなに面白いものができた、という感じでやりたいと思いました。

建築というのは人の暮らし方や考え方をかなり規定します。その力は現在、かなり保守的に働いている。つまり、住宅を建てるということにはそこに家族とともに住むということがまず自明の前提としてあります。結婚したからこそ、子どもができたからこそ家を持つというような。また現在の住宅はリビングがあって個室や寝室があってという風にできていて、基本的なルールとして子どもがそれぞれ個室を持ち、夫婦は同じ寝室で寝るということになっている。夫婦別々の個室を持つことはよほどの選択をしないとありえない。
つまり、そういう約束事を守らないと住めないわけですが、だいたいの人はこうした約束事が自分の生き方に合っているのか検討することもなく、「住宅ってそういうものらしい」から「それにあわせて生きていきましょう」という感じになってしまっています。こんなに大事なことを深く考えもしないで、住宅という高い買い物をしているんです。しかし、今回のクライアントは1人で自由に生きている人。そんな人が家を持つことがどういうことなのか、家を持ったらどんな暮らし方ができるのかということを考えてみたかった。
つねに考えているつもりです。単にきれいな箱を作ることに僕はほとんど興味がない。それよりも、メッセージを発信していくツールとしての建築、表現のツールとしての建築が大事なんです。デザイン的にどうだとか形がどうだとかを考えるのもむろん大切なことだし、作業としてはおもしろいですが、同時にそれを通じてメッセージも発信していきたい。つまり、家族のあり方や個人の生き方についての考え方を示していきたいとは思っています。

僕の中では、建築と文学は違うものではない。ただ、今まで話したようなことはわりと硬いというか社会的なことですよね。そうした問題について発信したいという欲求はつねにあるんだけども、もっと奥底には、小説にしても建築にしても、人間の心の問題を考えて表現したいという気持ちがあります。
以前、若くしてご主人を亡くされた女性が娘さんと2人で住む住宅を設計したことがあります。その時は、その家族のストーリーのようなものを空間の形として表現できないかと考えました。亡くなったご主人の記憶でもある娘さんの部屋を、卵型というか筒のようなものに入れて上の方に持っていって、その部屋に向かって家族の動き方があるような。娘さんの部屋を印象的な形にして、その印象的な形をめぐって家族の生活の時間が展開されるように考えました。
それぞれみんな心のストーリーを持っていて、それは非常にプライベートなものであったりしますが、同時に他の誰かにも共有されうるもの、理解されうるストーリーというのはあるわけで、それは小説でもまったく同じだと思うんですよ。先ほどの娘さんとお母さんの生活を小説で描いていくこともできる。僕が建てた家と同じように、娘さんを物語の中心において家族の生活を描く、そんな小説を書くことは十分に可能でしょう。このときは僕は建築家として空間でその物語を描いたわけだけれど、小説でだって同じことができる。そういう意味で建築と小説を同時に考えていきたいという感じがあるのです。
小学校から中学校の前半くらいまでは数学が好きでした。科学に興味があって、アポロの月面着陸の映像や写真には夢中になった。今でも、そのころ新聞から切り抜いた、不思議な色をした月の石の写真を、持っています。それが中学生くらいの頃、家族や友人との間に急激に違和を感じ始め、その反動で大恋愛をしたりして、少しずつ自分の関心が科学から別のものに向かい始めるのがわかりました。中学卒業前後には唯一の親友だと信じていた男が急にいなくなったり、失恋をしたり、これまたただひとり信頼していた先生が亡くなったり…。その先生は、大人の言うことをそのまま信じるな、自分で考えろ、そう教えてくれたひとで、僕にとっては非常に大切な先生で、とてもショックでした。こうした経験をして、高校に入るころには、僕はきっとこの人間の心の問題を一生考え続けていくんだと思うようになり、それでやたらと本を読んだり絵を描いたりするようになりました。
中学生くらいから、当時大学生あたりに人気のあった哲学者のサルトルの本を読んだりしていて、文学より哲学の本が多かったかな。今思えば完全に理解できていたかは怪しいですが、それなりに衝撃を受けながら読みふけっていましたね。自分がここにいるとはどういうことなのか、なんてことを、友人や恋人や先生を失いつつあるなかで考えていた。おかげで、高校生の頃にはすっかり暗い少年になっていました(笑)。共学の進学校で、少しは親しい友人もいましたけど、だいたいは周囲にいやみや皮肉を言うことで、自分の心の平衡を保っているような少年でした。哲学書を読んでいるようなやつが、これは教師も含めてだけど、周りにいるはずもなく、みんながバカに見えた。
自ら好んで孤独になっていった感じだけど、ひとというのは孤独であればあるほど、なにかを表現したくなるものですよね。僕にも次第にその気持ちが芽生えてきた。ただ本を読んで考えるのではなく、思ったことを表現したい、と。表現したくても、話を聞いてくる友人がいるわけじゃないから、音楽や文章などいろいろな表現手段を自分なりに試すようになった。それでその当時、一番自分でしっくりとくるのが絵を描くことでした。美術部でもないのに、毎日放課後に美術室に行って絵ばかり描いていました。そこで絵の道に進むことを考えたのですが、まずは数学者だった父に大反対された。反対なんて押し切って家を飛び出たってよかったと思うし、実際そうしかけたこともあった。でも、自分でも、絵の世界というのが現実の社会性から断絶されたところで成立しているように見えてくるときもあって、本当に自分を賭してやり続けるべきものなのかどうか、決心がつかなかった。
その頃、絵が好きなら建築もいいのではとある人が僕に言った。その人は何の気なしに言ったんだと思うんだけれど、僕はその瞬間、なるほどそれだ、建築だ!と確信してしまった。歴史上にもミケランジェロやル・コルビュジェなど、絵も建築もやって、その両方でものすごい表現をなしえた人たちがいた。僕もそれをやろう、と。当時、建築はだいたい工学部の中でしたが、もともと子どもの頃、理数系が好きだったということもあってそっちの勉強に抵抗はありませんでした。高校卒業時の成績ときたら惨憺たるものだったけれど、一浪して勉強しなおして、大学の建築学科に入りました。

それが、思っていたものとまったく違っていました。僕としては、建築というのは心とか表現とかに関わることだと思っていた。というよりも、そうした表現としての建築だけに興味があったわけです。しかし大学が教えようとする建築は、技術的なことか、あるいはデザインのことでも単に形はこうあるべきだとか、およそ僕の関心である人間の心の問題とはかけ離れたものばかりでした。そして2~3年になって、もう建築はやめようかと思い始めた。建築で自分の考えていることが表現できないのならば小説を書いてみようと、実際試みとして書き始めたのはその頃です。いろいろと考えてみると、心の問題をしっかりと考えて表現するには、小説がいちばん適しているのではないかと、そのとき思ったのです。そのまま建築をやめて小説に行こうかとも思ったけど、まだ何も知らないわけだからもう少しやってみて本当に違うと思ったらやめようと考え直しました。
もっと建築の可能性を知るためには実際に設計事務所に行ってみようと思い立ち、安藤忠雄さんのところに勉強させてもらいに行きました。そのころ大阪に、安藤さんがあるクライアントのために建てた住宅があって、でもクライアントがその住宅を手放すということで、安藤さんはそこを事務所に改造して使おうとしていた。まだ住宅の雰囲気が残っているその事務所に、僕は一人で住み込むような感じで仕事をしていたことがあるんですよ。仕事をして飯と風呂だけ外に出てまた帰ってきてそこで寝ていた。安藤さんの事務所本体はまだ引っ越してくる前で、だから僕一人だったんです。そしてその空間を一日24時間経験してみると、光とか温度とか時間とかで空間が変わっていくのが五感で感じられました。安藤さんが住宅という建築で表現しようとしていることが、そのときわかった。夕方になって少しずつ暗くなって影ができ、また朝が来ればだんだん日が差し込んできて、やがて住宅の中に光が満ちる。夜、例えば外に出てパッと振り返るとその住宅の中の明かりが、とても優しく外に漏れている。建物自体が生きて息をしているような感じ。それまで自分が知らなかった世界に触れ、これはおもしろい、もう少し建築を続けてみようと思いました。

それからも小説を書くということは考えてはいましたが、正直言って当時は、小説と建築を同時に考えていくなんてことが本当にできるのか、正しい方向なのか、自分の中でも疑問でした。でもその頃、ちょうど出ていた雑誌『ユリイカ』の特集タイトルが「幻想の建築」で、原広司さんという建築家の「文学と建築」と題した講演録が載っていたんですよ。原さんは、様々な小説や文学、例えば谷川俊太郎の詩やガルシア・マルケス、大江健三郎だとかの小説を引きながら、それがいかに空間的であるか、いかに構築的にできているかを説明するわけです。また自身で設計した建築や、世界を回って見てきた集落だとかを、それら文学と照らし合わせ、それらがいかに近い関係にあるかを説明する。
それを読んで、僕はもう迷わなくなりました。「ああ、これだ!」と。ちゃんとこんなことを考えている人もいるのだし、自分がやっていることもまったく間違いというわけではないだろう、建築も文学も一緒にやっていこうと思ったわけです。同時に、大学を卒業したら原さんの事務所でやろうと決意して、実際に入れてもらうことになります。
そうなりますね。大学の時の経験をもうひとつ話すと、ある時、飯も食えないくらいに心のショックを受けて1人旅に出たんですよ。そもそも僕が生まれ育った千葉を遠く離れて京都の大学を選んだのは、中学時代から感じてきた疎外感、孤独から逃れようという気持ちがあった。ところが京都でその疎外感を倍化させるような出来事があってね。それでまた、その京都からも逃げるようにして、鈍行に乗ったりヒッチハイクをしながら九州まで行った。まだ6月だったのになぜか海で泳ぎたくなり南に向かったんだけど、博多、長崎と回っていても梅雨時だから雨ばかりで寒くて泳げやしない。気分はどんどん沈んで行った。もう帰ろうと、大分から鈍行列車に乗って、大阪行きのフェリーの出る宮崎に向かいました。その路線はうっそうと茂った木に覆われた中を通っていくようなところ。その日もやはり雨で、僕は列車の窓に顔を傾け、木から滴ってくる雨をずっと見上げていました。するとその雨が、だんだんと弱まってきて、かわりに木の隙間からは少しずつ、光が差し込んできた。もっと光よ差してこい、もっともっと!そうすれば僕は宮崎で泳げるかもしれない、そうすれば僕の心も回復すはずだと、祈るような気持ちで木漏れ日を見つめ続けました。
その時にふと思ったのは、ひょっとしたら自分が死ぬ時にこの風景を思い出すのではないかということ。そして、この風景のことこそを僕は小説に書かなくてはいけないんだ、書こう、と思いました。同時に、今自分はある空間の中を通過し、そしてその空間こそを忘れがたいものとして心に刻んでいる、それならばこのような空間こそを建築でつくることを目指してみよう、そうも考えたのです。よし、建築でもこの風景のことを考えてみようと。自分にとっての建築はこれだ、この風景にかかわるようなことを建築でやりたいのだと。
その後に原さんの講演録を読んで、こういうことを考えていいんだと安心したわけです。ただ、他にこんなことを言ってくれる人はなかなかいなかったし、実際自分がどんな建築をつくり小説を書けばいいのかわかっていたはずもなかった。それでも、他の誰に認められようが認められまいが、自分にとってはこれが建築であってこれが小説なんだから、これでやっていくしかないと腹をくくりました。

今お話したようなこと、つまり、僕は自分で自分のテーマとすべき建築の問題を探した、だから君たちもそうしろと、まず言います。僕は、「建築とは何か」などということを教えるつもりはない。「建築を通じて何をやるのか」それを君たち自身が考えろ、それを僕は教師として手助けするから。そういうことを最初に言います。
学生たちはだいたい、それまでの教育では、まず問題が与えられ、その問題に対して「正解」を得るために「こう考えなさい」と言われ続けている。だから、最初に問題を組み立てるところから始めろ、などということ自体に驚いたり、感動したりする学生もいます。感動すると同時に、では一体何を考えたらいいのかと戸惑うこともあるでしょうね。だから僕は、大学は何年間かあるわけだからその間にゆっくり考えろと言うんですよ。簡単に答が見つかるような問題を考えたって仕方がない。逆に一生何を考えたらいいのかを学生のうちに見つけられたらそれでいいのだし、見つからなかったらさらに時間をかけて考えるしかないわけで。
一方、学生から学ぶことも多いですよ。僕が思いもよらないような発想をするし、彼らは物作りを本当に楽しんでいます。非常に刺激になるし、おもしろい。日々、仕事として建築をやっているとやっぱり色々とつらいことが出てきますから、楽しんで作るという原点の部分を学生から教えられているような気もします。

冒頭に言ったことですが、やはり建築というのは経済と強く結びついた行為なので、大きなお金が動く大きなプロジェクトになればなるほど、施主と施工者だけじゃない、様々な人々の思惑が絡んできます。とくに、施主に資金を貸し出す銀行や、その銀行と密接に結びついた人々の発言力が大きくなって、その都合によって建物が決まってきてしまう。本来はクライアントの「こんなものを建てたい」という気持ちを私たち設計者が受け止めて一緒に進んでいくというのが理想的なんですが、プロジェクトが大きくなればなるほどそうはいかない。
設計をしていて、自分の思いをなかなか形にできないと悩むことは、たいへんではあるけれど、つらくはないんですよ。でも自分のそうした思いとまったく関係ないところで動いていく場合は自分にはどうにもできないし、非常にしんどい。どんな仕事でも同じだと思いますが、そんな現実をなんとか耐え抜いたり突き崩していけるタフネスを持っていないとやっていけないかなという気はします。
ただ僕はある意味、もうそういうのは嫌だって思いがあるから、格安住宅なんてやっているんですがね(笑)。
大学でも言っていることですが、簡単に答を求めるな、と。とくに高校生くらいには言いたいですね。答が得られるのは数十年先か、いや死ぬまで得られないかもしれないけれど、大きなテーマをまず設定するということの方が大事じゃないか。最初から何か形が見えているもの、答えがおぼろげながらわかるような問題を考えたって、意味はないんです。はじめは一寸先の道筋も見えないような問題にむけて、みなが深く考え悩みながら手探りで少しずつ進んでいってこそ、現在ひどい状況にある日本の文化状況もよくなると思っています。
さあ、どうだろう。実際、大学を卒業してもう20年近く過ぎましたが、それでようやく、「こういう方法でやればできるのではないか」といった自分なりの道筋のようなものが、見えてきた感じかな。その手ごたえは、最近とても感じているんです。これからそれを、建築でも小説でも多くの作品にフィードバックさせながら、しかしまだまだ試行錯誤していくんでしょうね。

Takayuki Suzuki
鈴木 隆之
1961年千葉県生まれ。県内の小、中、高から、京都大学工学部建築学科へ進む。卒業後、アトリエ・ファイ建築事務所を経て、89年から京都精華大学へ。91年に(有)鈴木隆之デザインネットワークを設立、主宰。建築家として「建築のラストシーン」展(90年)。「GJリーグ」展(93年)。「世界建築家」展(奈良建築トリエンナーレ、95年)などの出展、「笹井邸」、「EXCES」、「渋谷マークシティ遊歩道」などの作品多数。また「新建築」、「建築文化」などへの作品発表、論文発表多数。一方、87年の第30回群像新人文学賞受賞以来、文芸誌「群像」、「新潮」などへの小説多数。著書も多く、最新刊は「不可解な殺人の風景」(02年、風塵社)。京都精華大が発行する評論誌『木野評論』の編集長も務める。
■■鈴木隆之デザインネットワーク(SDN)ウェブサイト
鈴木 隆之 さんの本

『不可解な殺人の風景』
(風塵社)

『 「建築」批判―空間をめぐる光芒』
(彰国社)

『エースをねらえ!論』
(風塵社)