

Akira Irinouchi
入之内 瑛
茨城県生まれ。日本大学理工学部建築学科卒業後、東京大学原研究室に入り、原広司氏と共に世界各地の集落調査を行う。1972年、建築計画研究所都市梱包工房設立、現代表取締役社長。昭和女子大学家政学部生活環境学科講師でもある。
入之内 瑛 さん(建築家)
「もの」や「建築」を創作する原点は何か。 仲間と共に考えぬいてたどり着いた概念は「梱包」。
「梱包」することで余儀なくせまられる、自立自給の生き方。 自立したもの同士こそが了解し築ける、新しい関わり。 その正しさを教えてくれたのは、 自然という環境に内包された世界の集落、 そしてそこに生きる個性豊かな人々だった。 自然の中の美しい集落に流れるリズムのようなゆったりとした語り口で、建築家の入之内瑛さんが、「人」「もの」「自然」「社会」のほどよい関係と新しい文化の創造について語ってくれた。
クリスト(注1)というアーティストに影響を受けたんです。今から30年くらい前の話です。当時、大学の研究室にいる連中が集まって、自分たちでものづくりの組織を作ろうと、夜な夜なディスカッションをしていたんですね。そのとき、その組織の名前を付けようということになった。「設計」だと枠が小さいし、「デザイン」だといまいちやりたいことが見えない。もっといろいろなことを包括するような名前はないかと模索していたとき、美術雑誌にクリストが海岸や美術館を梱包している写真があった。巨大な自然や建築物を梱包してしまう彼らのパワーは何なのか、梱包するということにはどういう意味があるのか、そういったことをみんなでいろいろと考えました。
梱包されるということは、外部から遮断され覆い隠されてしまうということになるので、物体としては危機感が生まれます。一方で、梱包された中から出てくるものこそ本物だという逆転の発想もあるわけです。さらには、純粋に美しく梱包するというテクニックも重要になります。そういったように、梱包されるということが、さまざまな矛盾する概念を内包していて面白いと思ったんですね。
ちょうど当時は、公害とかが顕著になってきた頃だった。都市が広がり地方は飲み込まれていく。その結果、川が汚れたり里山がなくなったり木が消えていったりする。地域の自然や固有の風景が、東京という巨大なアメーバのような大都市に飲み込まれていく。これに歯止めをかけるには、大東京を梱包してしまえばいいんじゃないか、そう思ったんですね(笑)。
東京は他人に迷惑をかけなさんな、自分たちでゴミを焼却し、自分たちの中で水を作り、公害を産まずに処理しなさい。つまり、梱包した中でも自立自給で生きていけることが大切なんです。そういう基本概念がないと、梱包したものは生きていけない。他に委譲しただけで生きるのはだめなんです。
要するに、クリストの作品や行為を自分たちなりに解釈して、「梱包」にそういう複雑な意味をつけたんですね。
注1)クリストとその妻ジャンヌ=クロード:自然や建物を梱包する巨大なアース・アートで世界の注目を集める現代アーティスト。シドニーの『梱包された海岸』(1969)、コロラドの『ヴァレー・カーテン』(1972)、マイアミの『囲まれた島』(1983)と次々と世間の意表をつく作品を発表し、1991年には茨城とカリフォルニアで3100本の巨大な傘を大地に差す『アンブレラ』プロジェクトを共同開催させた。美術界だけでなく社会的にも大きな話題を投げかけ続けている。http://www.christojeanneclaude.net/

僕はどこにも勤めてないんですよ。自分たちが話し合える場をまず作りたかった。今思うと、話したくてしょうがないとか、自分たちの持っているエネルギーをどこかにぶつけたいという気持ちがあったんでしょうね。
夕方6時くらいから、社会人も含めいろんな大学の同世代の人たちが4畳半のアパートに集まって、朝の始発まで、さまざまな世の中の問題について、まじめに勉強会をしていた。建築というジャンルを越えて、音楽とかいろんなことを話し合いましたね。そんな中で、「梱包」の概念を自分たちなりに形成していったわけです。その概念だけで2、3年ディスカッションしました。
借りていたアパートは家賃が8000円で、みんなで1000円ずつ出し合ってました。お金がないので、火事場で落ちたものを拾ってきたり、りんご箱を椅子にしたり、住宅街で「この椅子持っていってください」なんて書いてあるとそれをもらってきて、もっといいものが落ちていると交換して、だんだん1年くらい経つといい家具が揃ってくるわけですよ。四畳半に常時4人住んでいましたから、ぎりぎりです。テーブルの下か上に寝ちゃうわけです。
そのうち、みんなからお金を集めて借りるのも大変なので、家賃だけは稼ごうということになりました。それが今の仕事の原点です。先輩から図面を描いて欲しいと頼まれて、それを1枚いくらで描くということから始めた。設計といっても下請けの下請けの下請けみたいな感じです。でも仲間で仕上げて持っていくと、家賃くらいのものはすぐに稼げた。そのうち、電話を入れたいとなって、その分を稼ごうと働き、自分の学費を出さなくてはと働いた。映画はどんなことがあっても月50本は観ると決めていたのでそのためにも働きました。次第に、先輩たちなどからまとまった仕事をいただけるようになりました。時代がよかったんですね。世の中がどんどん伸びていこうとしていたときだったから。そして、朝から昼までバイトをし、そのあと大学に行き、お金がないときはさらに夕方からバイトをして、9時に終わって帰ってきて、またアパートでディスカッションという日々でした。

毎日です。半端じゃないですよ(笑)。ただ、「梱包」の概念をディスカッションしていたときはものすごく熱っぽかったけれど、名前が決まるとその概念をなかなか理解してもらえないことが多くて、逆に大変でした。名刺を作り、アルバイト集団を率いていろんな仕事をしていたんですが、今度は「梱包」ということで引越し屋と間違われてしまうんですね(笑)。そのたびに「梱包」の意味についていちいち説明しなくちゃいけなくて。
本当にその時からの全てが延長ですね。その素直な延長の中に今の全ての仕事があるのだと思います。林業者たちとの出会いもそうですね。20代後半に出会った彼らとの仕事は、建築の面白さを体感する原点であったと思います。
その前段階として、大学の研究室の教授だった原広司先生について、世界の集落調査をするようになったんですね。調査から帰ってきて、報告書を書いていると、ある出版社の編集者が僕が建築をやっていることを知って、ある小さな開発業者に紹介してくれたんです。八ヶ岳に別荘地を作るというマスタープランの仕事でした。でも、どうしても僕には別荘地という感覚がわからなかった。「人の住む居住地というのは世界の集落を見てきたので興味があるし、そういう村であればイメージできるのだけれど、別荘地というのはどうもわからない」とその責任者に言うと「別荘地として考えなくていい、村でもいいです」ということになった。村だったらわかる、堀辰雄の『美しい村』みたいな、ロマンがあって自立できる村をイメージしてみようか、とその仕事を引き受けました。
別荘地のイメージ画を描いてからは、別荘の建築も頼まれるようになりました。すると、丸太小屋を作りたいという人が出てきた。彼が言うには、カナダに電柱材を利用して家を作ってるところがある。それを日本に持ってきたら、ビジネスになるんじゃないかと。そうした彼の思いを受けて、一緒にカナダに行き、そこで面白いと思ったそれがいわゆるログハウスでした。それを実験的に輸入して作ったわけです。
当時、ログハウスはまだ一般的にはあまり知られてなかったんですね。それである雑誌社が珍しいからと取材にきた。ログハウスの作り方のマニュアルを面白おかしく掲載すると大変反響があって、そのうち国内の林業者からも連絡があったのです。自分のところにも杉があり、間伐材をなんとかしたいのでログハウスを作ってはどうかということでした。日本の間伐材の有効利用を考えるというのは面白いかもしれないと、林業者たちと一緒になって試行錯誤で作ったのが、静岡県春野町の「千樹想館」という施設です。
木材が主伐期に至るまでには、何度かに分けて間伐しなければいけません。その樹齢によって幹の太さが違う木材がたくさんあるわけです。それらを用いて樹齢でいったら子どももいれば中年、壮年、老人もいるような建物を作ろうと思いました。約千本の丸太を使いましたので、「千樹想館」と名づけたわけです。そうした私たちの作業や想いをさらに生かそうと、木材の加工場を作って、間伐材を利用したログハウスの地場産業を起こしました。日本の樹を用いた日本人による日本のログハウスのはしりですね。

新しいことを始める場合、人数の少ない小さいところは、アイデア次第で売れるものが作れるけれど、やがてそれが儲かると知れると、大きいところに飲み込まれてしまう。カナダや北欧から輸入してくる丸太は定型サイズで安いので、それを輸入すればログハウスを大量生産することができます。実際、1、2年のうちにあっという間に大手が参入してきました。そうなると組織力で、小さいところは絶対かなわない。
地方の林業者の人たちが、そうした企業を真似て、同じようにメジャーになろうとカナダのものを持ってこようとしているので、「それはやめなさい、無理です。目的は自分たちの山の木と林業を守っていくためにログハウスを作るのであって、ログハウスを作りたいためじゃないでしょ。確かに、林業のためにログハウスは適しているかもしれない、技術もそんなに難しくないし。でも手間がかかるオリジナルなものを作らないと、大手にノウハウや情報を取られてしまうよ。」と言ったわけです。それは間違っていなくて、そのやり方を保っていけば、不合理で標準化できない商品には大手は参入できない。あえて近代と逆行した作り方をしたんですね。

千樹想館
やはり、「梱包」の考えがあったのだと思います。ある環境には、その環境にマッチしたスケールというものがあると思うんです。これまで4、50カ国を回り1000くらいの村を見てきていますが、どのような自然にも、ほどよい人口が生き、建物や住居があり、田畑があり、ほどよい緑があってバランスが保たれている。世界の集落を調査して歩いたり、そこに車で入っていくと、「ああいいな」と遠くからみて美しいと思える村は、必ずと言って良いほど豊かなんです。見事にバランスが保たれ、全てのものもの(・・・・)がほどよいスケールで構成されている。
それを壊していくということはよくない。そうしたもの(・・)の関係やバランスは、その土地の人たちが普通に生活していれば絶対壊れないんです。ところが、他から人や機械が入ると、どんどん元のものを破壊し、何か1つのものだけが拡大していく。全体がほどよく大きくなるのは成長と呼べるのかもしれないが、1つの事、1つのもの(・・)だけが大きくなるのは、肥大でそれは暴力でもある。誰が歯止めをするのかというと、歯止めが利かない。それは経済という考えで動いているから。でも、僕らは経済が目標ではない。町の環境とか、そこに住む人々の豊かさとか潤いが大切なんです。
そう考えたときに、いたずらな一方的な拡大・肥大は良くない。与えられた自然に順応した適正な規模とかスケールを考える必要があります。つまりそうすることは、梱包することなんだ、ということに行き着くんです。このエリアでこの密度、このくらいの人たちが住むことが最適なんだ、と。区画を限定し、線を引く、それはつまり梱包することなんです。どこで線を引くかというと、いろいろ難しい問題があるけれど、長い経験からこのへんと分かるのかもしれない。その解を求めることが大切です。

そう、ほどよいスケールが村には大切なんです。近代化、工業化はスケールを逸脱していく。ニューヨークの世界貿易センタービルだって、64m四方の中に何万人もの人が入るということは、それだけでひとつの凶器なんですよ。僕らのみた集落なんて、64m2といったら大家族の1軒の家ですよ。ほのぼのとそこに牛や馬も一緒にいて…
ビルの数百m上にどうやって水を送るのか。もちろん工業の進歩で機械がやるわけですけど、それがなくなったらどうするか、といったことを彼らは考えていない。いつか壊れたらどうするのかなんて恐怖はいつのまにかなくなっている。皆が科学とか近代にマヒしてしまって、どんどんエスカレートする、それが都市なんです。そうやって都市は、人々の意志を無視してどんどん巨大化していく。
古代都市は、砂漠化するなかで、ある時期滅びていった。そして新たな都市を別なところに作っていった。ところが現代都市は滅びない。なぜなら場や領域を拡大し、他の地域のものを強引に導入するから。食料や原料の輸入もその一例です。熱ければ冷房すれば良いといったように、自然気候に逆らって、どんどんエスカレートする。
それに対する教えを集落は持っていると思うんです。都市が他に委譲しないで、可能な限り自立するということはどういうことなのか。それが基本であり、集落に学ぶことは多いのです。今は地球がひとつのような時代ですが、もし1つの都市が川を汚したなら、それは全体できれいにすればいいのかというと、やっぱりそうじゃない。1つ1つの町が、汚いものを流さない、自分のところで処理する、ということをやる以外ない。かつての美しい集落というものはみなそうだった。

自然の中や地方にいる方が好きだし、気がラクだというのが本音かも。これからは都市の成長に歯止めをかけなくてはいけない、ということで「都市梱包」という言葉を使って30年やってきているのに、その概念を都市の中で使わないで、地方でばかりやっている。「原点である都市に戻って、都市をこれから真剣に考えなさい。都市部で建築を作りなさい」と言われることもあります。実際そのとおりだとは思うのだけれど、都市でものをつくっていくときの共有する言語というものがあまり見えていないんですね。
地方の場合は、自然が明確で、その中での自分の位置、そしてスケールが見えやすくて、人の関係も比較的とらえやすい。つまり共有することが多いし分かり合える。何よりも自分がデザインしたものに、即、反響がある。
だけど、東京だと自然も人間関係も見えていない。地形も人工的で、原点が見えない。全てにおいて共有するイメージが希薄である。さて、手探りで何を作ったらいいのかとなると、皆に共有される指標は経済だけじゃないですか。こうすれば儲かる、効率がいい、とか。人間の住む町で、経済優先の概念しか信じられないとすると問題ですよね。自然の原形を失った都市では自然を共有化することはできない。では、人間の町なのだから人間のためのものづくりを、と言っても、どの人を対象にしたらいいのか、見えてこない。

梱包のされ方も、大東京ではなく、いくつか特長のある小さなゾーンごとに閉じていったり、エリアを作っていくということは可能なのかもしれない。それらをつなぐものは、物理的には道路なのかもしれないけれど、これからはもう一度よく考えてみる必要がある。それよりも、まず何の目的でそれをつないでいくのかが問われるべきでしょう。巨大な東京について、これが正しいとか悪いとかはもう言えなくて、全てが複雑に絡み合っている。
小さな自立系をいくつかイメージしたとして、今の区がそうなりうるのかというと、そうではないでしょう。行政の便宜上23区に分かれているけれど、そこに暮らす人々の本当のコミュニティーやアイデンティティはそこにはないし、どこでどう生まれてくるのか。もっともっと小単位であったり、個別的につなぐものがあるのかもしれない。今、東京には、日本中、世界中の人が集まっている。放っておくと、同じ県、同じ国の人たちが集まるコミュニティーや新しい社会が生まれるかもしれない。そしてそれは、現在の行政区等とは全く無関係に生まれてくるものなのでしょう。

まだまだ地方には固有の風景が残っているから「ふるさとに帰ったな」という思いや郷愁も生まれる。でも、それらの地方の町も村も、人のものを真似だして、同じような施設をつくり、同じような町を目指したならば、ふるさと意識もなくなるでしょう。
今の新しい村は、ほとんどどこにでもあるものや建物で埋められだした。つまり、人々の創造で作るのでなく、買ってくる町づくりです。例えば、家を作るとき、どこかのメーカーの家05135号を買ってくると、隣りでもそのタイプを購入したりする。すると、いつのまにか皆が同じことをして、どこに行っても同じ風景ということになる。そして今、どんどんそうなりつつある。

僕は都心に住んでいたので、20代後半に静岡県の春野の村に入って、固有の風景の大切さが身にしみてわかった。
山村の谷間に屏風のように広がっていく緑。山が3色にきれいに見えるんです。林業者の人に聞くと、それを「尾根松、谷杉、中桧」というのだそうです。自然の地形と地質の特色に見合った植樹を続けてきた、林業者の長年の知恵なんですね。「上の方は肥沃でないところでも育つ、風にも強い松がよい。水辺には杉が一番いい。桧は贅沢だから真中」とね。そのくらいの色になるには50年くらいかかっている。つまりその3種類の色は、共同体を培ってきた人たちの色でもある。それに気づいたとき、風景というのはすごいと思った。「林業三代三馬鹿」なるものがあって、それはつまり、「植える馬鹿」「育てる馬鹿」「売る馬鹿」というその馬鹿が三代が揃わないと林業は成り立たないということなんです。林業三代百年、気の永い職業です。この3色の色が崩れるときは、この地域も崩れるんだなと思います。
そこに住む人たちが、みんなで考え合って答えを出していったのであれば仕方ないのかもしれない。でも、じつはそうじゃない。突然どこからか、安い人件費を目当てに企業が入り込んできて、工場ができ、働く場所ができ、あそこにいけば稼げると、地元の人たちが働き出す。そして同じようなものが次々にできて、といった感じで、外的な要因で景観と人が変わっていく。そのうち不況になると、企業はさっさと地方と工場を見捨てる。その後には、どうしようもない風景が残る。どうやってそれに歯止めをかけたり方向修正するかが、ひとつの町づくりですよね。
授業で学生たちに「無人島についたらまず最初に何をやりますか?」というレポートを書かせることがあるんです。答えはいろいろあって、面白い。「食物を探す」、「家を作る」、「衣服を作る」といろいろ書いてくる。じゃあ、家を作るためには材料をどうするか? 材料を探してそれを加工するには道具が必要だがその道具をどうやって作るのか?すると、現代はモノが有り余っているから、何もない世界をイメージできない。無になったときにどうするかという発想がなかなかできない。
とすると、各地域や地方は昔からの情報の蓄積で成り立ってきたわけだけど、そのありがたさをもう一回見直す必要がある。ひとつの村に長く残っていたものというのは、すごく意味があるんです。無人島で1からすべて作り出すということを考えると、そういうことがすごくよくわかってくる。古くなったから壊すというのは簡単かもしれないけれど、それを守り支えてきたというのは重要なことなんです。残されてきたものには多様な意味がある。もう一度残されたものの意味を考え直して、本当に作り変えるべきなのか、もっといい方法はないのか、そういうことを考える。するとかつての人々の生き様や自然に対する思い、そして地域の持っている潜在能力とかがわかってくる。そこから再びスタートして未来にアピールしていけばいい。

2000年からは日本の森林歩きをしているんです。木を育て木材を利用し売っている、森林文化を見て回っているんです。たとえば、高知の四万十川上流の檮原(ゆすはら)や魚梁瀬(やなせ)には素晴らしい森林がある。そして、素晴らしい人々もいた。でも、そこの人たちは、木を育てるということだけに目を向けていて、それらをいかに売っていくか、そしてそれを通じていろんな人たちとコミュニケーションする、ということに慣れていない。林業者は育てるだけで良く、加工者は加工するだけ、そして木材店は売る人、と分業化されている。ところが実際には、消費者は緑をみて感動するのではなく、木工製品をみて感動するわけです。
こういう方法をとれば消費者がより喜んでくれる、そういうところにデザイナーや建築家といった職業があるわけだから、そうした人々をどしどし入れていくべきで、そうしたもの(・・)に通じた人たちが入って、生産者との出会いが始まる。地域はそれをもっとやらなくてはいけない。これまでは木材を売る仲買人や流通をつかさどる人たちが林業者や消費者と結びついていた。でもこれからは違う。より美しい、使いやすい商品にすることによって、自分たちの育林した木が生きてくるという見方が加わる。その結果、都市を見て、消費者を見て、木を育て始める。そういったことを学ぶことで、村がどんどんよくなるのだと思います。
じつは、かつて木曾ヒノキ、青森ヒバ、秋田スギと名木を生んだ地域は、軒並み伸び悩んでいるんです。なぜかというと、あまりにブランド化されて、高価な木材という名前ばかりが残ってしまっているのに、今はもうそうしたよき時代のブランドを与えたいい木が残っていない。それどころか50年前後の木ばかりで高く売ることもできない。かつてブランドを生んだ地域には素晴らしい木工技術もあった。木工技術の産む木工製品を通して消費者とつながっていくのに、木がなくなることで、木工技術もなくなってきてしまっている。

先祖代々から造ってきた何とも言えない山の自然環境そのものに、素晴らしい商品価値があると分かると、同じ木でも、その中で生み出される木の価値というものは、地域によって異なってくる。例えば静岡と東京周辺の木の価値は違うんだということが分かってくる。
今、注2)世界森林認証という規格ができて、生態系を重視しながら森林を維持してきた人たちには、優先的にその木の良さが分かるような認証を与え、消費者と結びつけようじゃないかという世界的な動きがあります。三重県尾鷲の速水林業が日本では最初の認証です。高知の檮原もその認証の取得に成功したんです。
これからは、そうやって新しいブランドを作っていく必要性があるでしょうね。地域の持っている潜在的なパワーや資源をもう一度見直して、今の大都市や人口集中地域の人たちにその良さをアピールしていく。そこで重要なのは、建築家なりデザイナーなり、自分たちの考えを生かしてくれるような助っ人をどんどん呼ぶことです。重要なのは連繋することです。
でも、まだまだ僕らが行くと、多くの地域ではよそ者扱いをされてしまう。他を排除するのは簡単です。排除ではなくて、有能な外部の人たちを取り込むことで、地域に生きる多くの職域の職人たちが刺激を受けることです。一緒になって同じテーマを考え、行動し、つくり上げることが重要です。もしかしたら、我々は所詮、黒沢明の『七人の侍』の助っ人でしかなく、どこかで捨てられる運命にあるのかもしれないけれど、それでもいい。そこで自分たちのやったことを共有でき、地域なりに生かして育っていってくれるなら。そのはしりとして、これからも私たち建築家がどしどし行ってやらなければいけない。
注2)世界森林認証:国際NPOであるFSC〔Forest Stewardship Council: 森林管理協議会(1993年設立)〕の定める、適正な森林管理を認証する制度(森林管理認証:Forest Management Certification)。FSCではもう1つ、その認証林を原料とした生産物に対する認証(COC認証=生産物認証:Chain-Of-Custody)も行っている。こうして適正に管理された森林から生産された製品までを、一貫して認証の対象とする事により、消費者に商品の選択手段を提供し、認証された製品が市場に増え、購入が進むことによって、適正に管理される森林が守られ、森林の破壊や劣化を招くことなく、木材消費が進むことを目指すシステムである。2002年10月現在、国内の森林管理認証は4件である。

単に民家を残せばいいかというと、それは違うと思います。資源がもったいなくて再生するのか、100年経ったものは美しいということで再生するのか、でもそれだとあまりその意味が見えてこない。民家はそれが生きる集落があってはじめて機能し意味がある。今再生しようとしている民家にはその集落がない。しかも住み手さえいない。僕がこれまで見てきたのは、人々が生々しく生きる、生きた集落の中の民家だった。人々には本来生きたものしか必要ないはずでしょ。お金をかけて残す方法しかないなら、映像で残しておけばいいじゃないかということになる。
かつてのものを解体して復元して住むというだけでは、やはりつまらない。僕らは新しいものを作らなくてはいけない。つまり僕らがやるべきことは、これから本当に必要な新しい未来の伝統や歴史を作ることであって、古いものをそのまま残すということではない。それはこれからの未来の新しい民家を作るということです。かつて村の人たちがその自然や環境と了解して作ってきたものを見て感動したように、僕らの時代は僕らの時代なりの自然を了解し、あるいは世界の人々の生き様さらには文化の了解を前提にしてものを作らない限り、後の人たちに感動を与えられない、そう思うんです。

人に感動を与えるにはオリジナリティが大切です。それにはいろんなアイデアが必要になってくる。建築家は、イメージを描き、それに必要ないろんなものや人をコーディネートするのであって、実際に手を出して作るわけではない。それを可能にしてくれるのが、多くの職人さんやアーティストたちです。僕はそういった人たちを「環境造形職人」と呼んでいます。これまでも何度か、彫刻家、スチール作家、ステンドグラス作家、壁画作家、造園家、といった個性の強いアーティストの仲間と一緒に仕事をしてきています。
これからは、もっともっとみんなで連繋して、ひとつのもの、さらには町を作るように働きかけていかなくてはならない。そうしたものや町は、きっと人に感動を与えるはずだし、誰が見ても楽しいと思う。
今後の自分の目標を考えたとき、まだ自分の本当に言いたいこと、本当の思いを込めたものを造っていない気がするんです。火事場で拾ったものでアトリエを作っていた頃から、家賃を払うために、生きるために、何となく仕方なくものをつくってきたという部分が常にどこかにあるのです。これからはそういう中で、出会ってきた人々や自然や多くの風景、そして研究してきたことを全身に受け、本当のものを集大成として作ってみたい。実際、そういう年頃にこれから少しずつなっていくような気がします。

最初に別荘地の絵を頼まれたときに、「別荘じゃなくて、新しい村づくりがしたい」と言ったときの思いがずっと続いているのでしょう。
場所は難しいけれど、できるだけ自然の風景が明快に見えるところがいいですね。例えばそれは中国の風水でいうような、「東には水辺があり、裏には山があって風をさえぎる、南には季節を反映する山、そこには気が充満しており、そういうところを都にすべし」といったところなのかもしれない。これまで風水を意識したことはないけれど、ほどよいところというのは、結局そういうところだったりする。桃源郷みたいなものなのかな。
じつは日本には、まだまだそういう場所がたくさんあるんです。そして、今まで出会ったものづくりの人たちに声をかけて、一緒に村を築いて住んでいけたら、最高だなとは思います。

自分が何をやりたいかということに、少しでも早く目覚めて欲しい。僕はわからなかった。だからもったいなかったと思う。あの時代にもうちょっと自分のやりたいことを意識できたら、今の自分をもっと充実したものにできたかもしれない。僕が建築に目覚めたのは20代後半で、それまではそんなに建築が好きではなかったんです。
建築家を目指そう、その道で生きようと思ったときは、大学生や社会人になっていた。その時点から出会った人というのは、結局同じ建築関連の人なのです。そこには常にビジネスの関係が生じ、それはある意味で同業者で、戦いでもあるので、弱音を吐けない。そういう時に、ホロッと弱音を吐けるのは、高校の友だちだったりする。目指す職業がばらばらなのが良い。だからそうした青春時代の仲間の何気ない会話が自分の閉塞する考え方や生き方を変えてくれることがある。
僕の場合、今考えると、「もの」のよりどころは世界の集落にあるけれど、日常の「心」のよりどころは高校時代にあると思うんです。その頃の出会いっていうのは、創造力を高めたり、時には人間形成の上で重要なのかもしれない。それも同世代の出会いだけじゃなくて、できるだけ上下の出会いが良い。クラブに入って自分よりも年上や年下の人たちと出会って、世代によって異なる考え方や会話を覚えることも重要です。そんなに優しい人ばかりじゃないし、人を愛することとか、人のいやらしさとか、人間関係のショックもいろいろ受けて、死ぬような思いもするかもしれない。いや、そうした思いをたくさんした方が良い。そうすることで、何が大切なのか見えてくる。バリアを張るのは良くない。私流で言うと、若いときに自分の心を梱包しすぎても、相手の思いが分からなくなってしまう。これは淋しいことです。どしどし死ぬような思いを体験して、でもそこから這い上がって欲しい。
今の高校生たちは、受験受験で、そういう余裕はないのかもしれないけれど、やっぱり一番重要な気がするな。
それに、高校のある場所はまだ地域性を持っていますよね。そういう、風景として特徴のあるようなところで学び、自分の内面を鍛え培っていくのはいいのかもしれませんね。まだ自分が海のものとも山のものともわからない中で、何かに目覚めてゆく。その可能性は、ほとんど高校時代にあるんじゃないでしょうか?

Akira Irinouchi
入之内 瑛
茨城県生まれ。日本大学理工学部建築学科卒業後、東京大学原研究室に入り、原広司氏と共に世界各地の集落調査を行う。1972年、建築計画研究所都市梱包工房設立、現代表取締役社長。昭和女子大学家政学部生活環境学科講師でもある。著書に、『住宅建築別冊53-住まいの風姿体~入之内瑛と白鳥健二の軌跡』、『家作りの極意-10人の建築家が設計した家-』、『内的風景』など。
(株)建築計画研究所 都市梱包工房HP:
http://www5.ocn.ne.jp/~toshikon/
【入之内 瑛さんの本】

『住宅建築別冊53-住まいの風姿体~入之内瑛と白鳥健二の軌跡』
(建築資料研究所)

『内的風景』水脈の会編
(而立書房)