

Yoshimichi Nakajima
中島 義道
1946年うまれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。哲学博士。電気通信大学教授。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。主な著書に『うるさい日本の私』(新潮文庫)『人生を<半分>降りる』(新潮社OH!文庫)など多数。
中島 義道 さん(電気通信大学教授 哲学博士)
「戦う大学教授」の異名をとる中島義道さんは、日々戦っている。
例えば、バスや電車のけたたましいアナウンス。それに抗議し、徹底して議論する。
言葉が人を人たらしめる限り、人が形つくる世の中は議論すれば変わる。
と思いきや、それは建前で、日本では言葉よりも「慣例」や「その場の空気」が優先される。
以心伝心といった語らないことを特徴とする日本文化の問題点をお聞きした。
哲学は確かに真・善・美を求めますが、現世の幸福とは必ずしもつながらないものです。「真理を求めることが大切だ」と、きれいごとを言っても、本当の意味でそれを求めると社会から外れ、権力には嫌がられ、迫害されます。なぜなら真理を探究するなら、いついかなるときも嘘をついてはいけないからです。
カントという哲学者は、一見すると大学総長まで務めたので社会的な適性を持っていたように思えます。が、彼は宗教論を執筆し、そこで「人間は根本的に悪である」と根本悪を提唱しました。それが筆禍となり、プロイセン政府から一切の執筆活動を禁じられました。
本当のことを言うこと。例えば、人殺しに追いかけられている友人が家に来た。どこへ行ったかと尋ねられたのなら、「ここにいる」と言わないといけない。当然のように生命が大事だと思うわけですが、もし哲学が本当に真理を求めるのだとすると、嘘をつくのは哲学に反するわけです。こうしたことについて、ヨーロッパでは200年近く議論されてきました。でも、日本では、幸福だとか生命尊重の名の下に、本当のことを言わなくていいという論調があって、これと哲学の精神は真っ向から対立します。善もそうです。カントは全人類が滅びても善は実現すべきだと述べている。人類の幸福とか生存に役立つことを哲学に求めても、それは違うわけです。

何が違うといって、言語に対する態度です。単純なことでも、自分のわからないことは徹底的に聞きます。ウィーンで講演したときでも、質問者は納得するまで質問しました。
来日したヨーロッパの人をお茶なんかに連れていくと、なぜ正座するのか、なぜ黙るのか。寺でも山門があるのになぜ壁がないのかと、といろんな質問をします。比べて私たちは、例えば英語の授業ひとつとっても、be動詞とは何かとか、そういうことを不思議に思わない。あるいは疑問を持っても口をつぐんでしまう。

先日、講義で質問しても一言も話さない生徒に「何で黙っているのか」と怒鳴ったことがあります。それで私は彼が何か言うまで30分待つことにしました。しばらくすると、ようやく「そんなことを言われても急には話せない」と答えました。べつに正解を求めたわけじゃないんです。なのに、待ってくださいの一言が言えない。
またドイツ語の授業でも、生徒に当てると黙るんです。黙るのは聞いていなかったからですが、それなら「眠っていて聞いていませんでした」と言えばいいんです。ところが、そう正直に言わない。言ったら怒られてきたという経験があるから、言わない。
よく自己中心的な態度は悪いと言いますが、私はいいと思います。「わからないことはわからない」とずっと言い続ける。それをせずに、疑問を持っても互いに牽制し、意見を潰している。みんなに迷惑をかけないのが日本文化のうるわしいところとされているんです。
でき過ぎる人は、自分が質問ばかりすると「みんなから嫌がられるのではないか」と思い、できなさ過ぎる人は、「みんなの足を引っ張るのではないか」と思う。そうすると質問も、みんなのことを考えた紋切り型になる。そういったことは、もっとも哲学と遠い。
空気を読むよりも、罵倒を1時間されても、それに抵抗する訓練が必要じゃないですか。キレないためにもそういうことが必要だと思いますね。
ウィーンの大学で目撃しましたが、授業中ほとんどひとりで発言する人がいました。ひんしゅくを買うけれど、何の理由もなく妨げることは一度もなかったのです。日本のように「毛嫌いする」という態度をとらないので、言葉を発している人を潰すことはまずない。
確かにそうですが、そのチャンネルの切り換えができないと生きていけない。私が頭に来るのは、先生が嘘を言うことです。「前後左右の人の顔色を見て、自分の意見を潰していきましょう」と教えるならわかります。現実にそうしているんだから。でも「個性を伸ばし、自己責任で生きましょう」いっても潰されるし、まして先生自身もやっていない。そんな自分もやっていないことを子どもに向けて言うのだから、言葉の力を信じない社会になって当然でしょう。

まあ、これが役所勤めならだめでしょうが。大学教授というのは、それでも比較的やっていける仕事なのです。
ところで、中高年がよく若者について、敬語が使えないとか挨拶ができないとか、ようは日本的でないことに怒っています。しかし、より自己主張、自己弁護をしないからという理由で怒ることはない。そういうものは、中高年や親の怒りの中で潰されていくんです。
私が子どもの時分もそうでした。だから、いま怨念こめて復讐しているんです(笑)。
ニーチェを好きな人は結構いますが、ニーチェのような生き方をしたら、追放されますよ。研究しているからいいのですよ。でも、ニーチェ本人は研究されることを嫌っていたんですがね。
日本社会は安全さを尊び、危険な人を嫌う。しかし、哲学は危険なものです。言葉でときに人を殺す。ヨーロッパでは言葉で深刻な対立をつくり、それを融和することなく、どうやって打開するか。力ではなく言葉や理性で打開しようとします。
日本では対立をしないよう教育するから、対立したときどうしていいかわからなくなる。義理でも人情でも対立したら終わりで、後は死ぬしかない。

言い訳しないで切腹する美学が求められる。辻元清美議員だって言い訳したら、醜いと言われました。私はそれはひどいと思ったし、彼女は10時間でも20時間でも言い訳すべきだったと思います。自分を責める他人を責めて、その中で打開していけばいい。
やはり日本人が何に対して醜さを感じるかというと、だいたいが自己主張です。田中康夫前長野県知事もそうだけど、行動ではなく、美学に反する態度自体に苛立ちを覚えているわけでしょう。
この間、東京駅で行われていた物産展で、マイクアナウンスをやめさせました。こうした対話はきれいごとではなく、文字通りの対立で、それは死にものぐるいなんです。
傷つけない態度や目つきばかり尊重されていますが、人は他人を傷つけるものです。言葉によって人を傷つける。また、それを言葉で理解する機会がない。だから他人といかに感受性が違うことを知ることもない。
外国人とのつきあいだって、どうやって仲良くするかだけに気を配っている。別にイスラムの人に豚を出したっていい。相手が怒って、そこから対話が始まるんだから。向こうに合わせるから対立の機会をなくすんです。

そういう面倒臭いことを何でするのか?と言われますが、対立を避けないで生きていこうとするからやっているんです。何事にも突進していくんですよ(笑)。
私は別に日本の行く末なんかどうでもいい。ただ、哲学を名目の上では重要だと言いながら、哲学とは違うものを要求して日々を生きるのをやめなさいと言いたいだけ。哲学は自分の言葉で人を傷つけ、ときに殺し、自分も殺される。犯罪的で病的なところもあります。
10歳くらいになれば死を理解するようになるでしょう? でも人は善悪と関係なく死ぬ。そういうことを道徳教育として教えない。まして、生きることは価値がない可能性について教えない。価値あることが大前提でしょう。
努力してもだめなことはある。それを切実に語ることがない。生きていてもあまりいいことない、そう思い自殺するのも仕方ない。美を求めることからこそ人は差別する。そうした考えをやめることはできない。人を愛することの大切さをよく耳にしますが、愛したのなら反面嫌いな人もうまれる。真理を求めれば求めない人を軽蔑したくなる。つまり哲学が危険だというのは、真・善・美を求める道は悪ともつながっているからです。

しかし、それが見えない社会なんです。暴動があるわけでもないので差別もよく見えない。ただ視線による差別は歴然とあります。見えない社会だから語れない。例えば、ブスだからとか背が低いとか、偏差値が低いのでどうしたらいいんだろう。そう語ることではじめて問題への問いかけになります。そうした言葉を開発するには、自分の中の澱を隠さないで言語化することです。それはきついことです。けれど「これは言ってはいけない」という不文律が多すぎますね。そうして気がついたら「透明な自分」しかいないことになる。
高校生や若い人に言えるとしたら、自分は真綿にくるまれた犠牲者だと知ることですね。そのためにも人間の持っている悪、凶暴性を行動に移す前に言語化する訓練が必要です。納得できないことがあるのなら、自分が豊かに生きるためにそれを言う。それですね。

Yoshimichi Nakajima
中島 義道
1946年うまれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。哲学博士。電気通信大学教授。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。主な著書に『うるさい日本の私』(新潮文庫)『人生を<半分>降りる』(新潮社OH!文庫)など多数。
【中島 義道さんの本】

『うるさい日本の私』(新潮文庫)

『人生を〈半分〉降りる哲学的生き方のすすめ』
(新潮OH!文庫)

『孤独について生きるのが困難な人々へ』
(文春新書)

『働くことがイヤな人のための本 仕事とは何だろうか』
(日本経済新聞社)