

Tomohiro Koseki
小関 智弘
1933年東京・大森うまれ。都立大学付属工業高校卒。高校時代より文筆活動を行い、18歳から大森・蒲田の町工場で働く。『羽田浦地図』『祀る町』で芥川賞候補、『錆色の町』『地の息』で直木賞候補。
小関 智弘 さん(作家)
18歳から旋盤工として生きてきた小関智弘さん。
日本の戦後の移ろいを下町の工場から見据えてきた一方で、見落とされがちな人たちのたたずまい、息づかいをルポや小説として著してきた。
今春、旋盤工を引退された小関さんは、世界に誇る日本のものづくり技術の衰退が叫ばれる現在をどのように見ているのだろう。
鉄、正確には鋼といいますが、それを削る仕事をこの春まで51年間行ってきました。最近は主にプレスという機械の重要な部分であるクランクシャフト、回転運動を平行運動に変換させる軸ですが、これをつくってきました。
このプレスという機械をつくっているのは、一流の工作機械メーカーです。ところが、その大切な部分を従業員20人足らずの町工場がつくっている。
たいていのメーカーは機械を自分でつくらず下請け、二次下請けといった小さな工場に依頼して、それを組み立てて売っています。私はそういう機械部品をつくる仕事に携わってきました。他にもカメラや車の簡単な部品から船のピストンやスクリュー、原子力発電所、宇宙衛星の部品と、直径2ミリから、直径2メートルという大きな部品までつくりました。鉄を丸く削る技術が、製品に反映されると宇宙衛星になったりするわけです。先端技術といわれているものでも、ひとつひとつの部品は鉄を削ったり曲げたりしてできているので、先端技術ではないんです。

コンピュータ制御された旋盤があっても、鉄をいかに早く正確に削るかとなると、削る刃物やどういう手順で削るかが問題になります。着眼点や発想、それ自体がすでに技です。自動車部品のように同じものを大量につくるのであれば、マニュアル化できるので、人は機械のお守りをしていればいい。けれど町工場には、たった1個をつくってくれという依頼も多い。マニュアル化できないそうした仕事をどうするかとなると、やはり経験を積んだ人の技というか知恵が必要になってくるわけです。
「図面一枚と材料はこれだよ」。熟練工ならこれで終わりです。あとは自分で手順を決める。大企業だとプログラムする人、刃物をセットする人とわかれていますが、町工場は図面からプログラム、刃物の選択、検査も自分で行います。だからやり甲斐もあるわけです。コンピュータ化された機械を使っていても、ものをつくるプロセスが本人の裁量に任されているので、職人的な仕事と言えます。

戦争が終わった直後、日本の工業は壊滅状態で、例えば三菱自動車がリヤカーや洗面器をつくってデパートに卸すなど、せいぜいが日用品をつくるくらいのものでした。それが朝鮮戦争での特需で復興していったわけです。私が町工場に見習い工として入ったのは、ちょうどそんな頃でした。先輩の職人はみんな戦前・戦中の徒弟制度で育った職人さんです。「おまえらは俺たちと違って入った初っぱなから給料を貰えるから贅沢だ。俺たちは給料なんてなくて、盆暮れに小遣いをくれるだけ。8年の徒弟時代を過ごして一人前になったんだ」。よくそう言われました。私はそういう人たちに育てられたので、当然仕事の教えられ方も徒弟制度を引きずっていました。すべて現場で働きながら見よう見まねで覚えていく。最初の1、2年は雑役で過ごし、少しずつやさしい仕事をさせてもらい、やがて刃物の研ぎ方や機械の修理の仕方を教わっていきました。
後にものを書くようになり、そういう雑用をする期間の長かった人間ほど幅広い経験を積むことがわかりましたが、当時は辛かったですね。
そうですね。戦前の人たちが親方、先輩なわけですから、殴られたこともありますし、弁当や煙草を買って来いに始まり、「小便に行きたいから代わりに行って来い」といった――まあ、これは冗談ですが――私用にこき使われました。時間外労働は当たり前、朝は職人の来る30分前に機械に油をさしておかないと怒られました。私はそういう経験をした最後の世代でしょう。一人前になって、これからは楽になるなと思っていたら、後ろに続く若者が誰も工場にはいませんでした。
魚屋だった親父が酒浸りになった事情もありました。それに政治少年でもあったので、"労働者になるんだ"と粋がっていたこともあって旋盤工になりました。旋盤工として仕事をし出したら、これがおもしろくて好きになりましたが、ただ30代の頃、一生こんな仕事をするのかなと嫌気がさしたことはありました。
旋盤工として一丁前になったと思った頃は生意気でした。町工場で何に使われるかもわからない部品をただ削るだけという仕事に次第に味気なさを覚え、"この仕事を続けていくだけで終わってしまうのかな"と考えるようになりました。ちょうどその頃の社会現象として「蒸発」がありました。ある程度の豊かさを得た時、虚しさを覚えた人が家庭も仕事も捨て、ある日突然いなくなる。"俺も…"と思いましたが、実際には家族がいるわけで…、そんな夢みたいなことを考えていましたね。3人目の子どもが生まれたとき、この子が高校生になるまでは、親としての責任を果たそうと思い直し、あと15年は旋盤工としてがんばろうという覚悟を決めました。もうちょっと真面目な旋盤工になろうと思ったわけです。一人前とは思っていましたが、素晴らしい腕を持つ人の存在を知っていましたし、そういう人とは同じになれないと諦めてもいました。私は非常に不器用なものですから、あの人たちみたいな現場の神様にはなれっこない。

でも、そうした人ほどではないにしても旋盤工として熱を熱を入れて働こうと思い、どういう鋼をどうすればうまく削れるか。それらをノートに取り始めたんです。腕のいい人に及ばないけれど、頭を使おうと。そういうデータ収集を7年くらいやると、ようやく鋼とはどういうものかがわかってきました。自信を持ってどんな鋼でも相手にできるようになり、やっと一人前の旋盤工になれたという自信を持ちました。
それまでは文学少年の尾を引いていまして、どちらかと言えば仲間の労働者を馬鹿にしていました。賃上げを望む割にはオヤジ(社長)の前に出ると黙ってしまう。"なんだあいつらは"と思っていました。しかし、自分なりに技を磨き始めて気づいたのは、話もしないし、オヤジに何か言われたら首をすっこめて逃げてしまうだけの人たちの、綿々と築いてきた技の凄さはいったい何だったろうかということです。「俺はなんておごっていたんだろう」そう思いました。そこで初めて現場に技を蓄えてきた人たち、そして仲間のことを見直すようになりました。

困難と言いますか、身震いするようなといえば50歳頃の仕事ですね。水力発電の試作品として1メートル足らずの水車を依頼されました。
旋盤の段階でおシャカにしても材料費の20万円くらいですみますが、10日くらいの加工も終わり、あと2ミリくらいをきれいに削って仕上げをするときは、200万円くらいの仕事になってしまっている。コンマ2ミリを間違えたら200万が無駄になる。ドキドキしましたね。でも、そういうときはおもしろいことに鼻歌を歌っている。内心大変だぞと思ってもリラックスしているんです。そういう胸のドキドキするような思いは年に何回かは経験しました。
幸い私の働いていた工場のオヤジさんは、世間の工場が断って引き取り手のない無理難題を受けるのが好きな人でした。そういうのを私たちは「菓子折つきの仕事」と呼んでいます。向こう側からお願いしますという依頼ですが、それだけに図面を持ってきたその日に納期の話になるという大至急の仕事です。
50年もやれば図面を見ているうちに、「あ、これはこういう手順で削るのがいいな」と、だいたいの見当はつきます。よくオヤジさんは「図面見たときに製品がイメージできないようじゃ一人前じゃない」と言ってました。
技術は図面で設計できたら終わりです。それを実際のものにしていくには技能が必要です。学校で学ぶような数値や記号、文字に置き換えられる以前の知恵が重要で、その場その場で適応して総合的に判断できる問題解決能力がないと熟練工とは言えません。
技能を比較的狭く捉える人は、反復訓練によって獲得できるもので、熟練したら数をこなせると考える。実際に技能のすぐれた人は、数多くつくることよりも、「こんなものはいまの機械ではつくれるはずもない」という予想を裏切るものをつくれてしまう。そういう問題解決能力を備えた人が熟練工だと思います。知識とは違う、経験によって人間の中に蓄えられた記号化できないものですね。

確かに中小の町工場に蓄えられていた技が消えつつあります。不況に加え、工場の高齢化も進み、廃業が進んでいます。前から危機的といわれてきましたが、いまは本当の危機です。
例えば大田区は92年の統計で8100あまりの工場があり、そのうちの80%は従業員10人以下の町工場でした。それがいまは6000をきりました。中には技術のない工場もあったでしょうが、優秀な技を持った工場も廃業しています。赤字だらけの町工場ですから、金融機関も資金を貸さない。本人の努力や技術と違う評価で町工場が潰れています。弱い者が淘汰されるのは仕方ないという政策が採られていますから、どんどん技術が失われていく。
ただ、二世・三世の経営者は交流しあって自分の工場から飛び出し、みんなで考えようとする動きはあるなど、こういう環境でも元気な工場はあります。しかし一朝一夕で技は伝えられないだけに不安ですね。大手のメーカーはすでに消費者になっていて、中国に転出するなど、安いものを買うことに一生懸命になっている。大きな空洞化を招いているんじゃないか。そう思います。
町工場はかつて3k(キツイ・キタナイ・キケン)と言われましたから、「鉄を削るなんてつまらない」「機械がやっているだけの仕事」と思っているのなら、もう一歩突っ込んで見て欲しいです。
いま活気のある工場は若い人が中心です。ある工場で「こんなおもしろいものだとは思わなかった」という声を聞きました。例えば、キサゲと言う道具で鉄の表面をかき削って平にする作業は、傍で見れば単調な作業で、しかも油だらけなります。そんな仕事でも、やっている人は実に活き活きしている。
日本でそういう仕事のできる工場は本当に少ない。その工場では世界で指折りの精度の高さを誇る機械をつくっています。
たまたまその工場を5年前に訪れたとき、今では珍しくもありませんが茶髪の若者がいました。最近、うかがったらまた茶髪の若者がいました。でも、社長が言うには、「2年経つと真っ黒になるんだよ」。つまり新入りの頃はともかく仕事がおもしろくなりだすと、毛を染めることを忘れてしまう。
元気な工場の共通点は、油で真っ黒になりながらも「こんなこととはしらなかった」と楽しんでいる若者がいることです。テレビでちらっと見るだけの工場やベルトの前で仕事をするのが工場ではない。ものづくりとは本当は楽しいんだということを知って欲しいですね。そうしたらいろんなものが見えてくる。ものづくりは、自分がものとどうかかわるかの問題で、苦労してかかわれば喜びも返ってきます。楽に生きようと思ったら楽しいことは返ってこない。だから、本当の楽しさを考えないと人生は楽しくないと思いますね。

Tomohiro Koseki
小関 智弘
1933年東京・大森うまれ。都立大学付属工業高校卒。高校時代より文筆活動を行い、18歳から大森・蒲田の町工場で働く。『羽田浦地図』『祀る町』で芥川賞候補、『錆色の町』『地の息』で直木賞候補。 著書に『仕事が人をつくる』(岩波新書)、『ものづくりに生きる』(岩波ジュニア新書)、『春は鉄までが匂った』(社会思想社)『町工場・スーパーなものづくり』(筑摩書房)など多数。
【小関 智弘さんの本】

『ものづくりに生きる』
(岩波ジュニア新書)

『町工場・スーパーなものづくり』
(筑摩書房)

『町工場・スーパーなものづくり』
(筑摩書房)