

Koniru Paku
パク・コニル
レベック、フィーデル奏者。16歳のとき、小杉博英氏にヴァイオリンを師事。レベックを独学で修め、1978年、81年、92年にダンスリーのフランス演奏旅行に参加。かたわら神戸市三宮で韓国風焼肉店「トントン・パク」を経営する。
パク・コニル さん(レベック、フィーデル奏者)
西洋音楽の世界で古典と聞けば、バッハやベートーベンといったクラシックを思いがちだが、ヨーロッパにはそれ以前にもむろん音楽はあった。
「ダンスリー・ルネサンス合奏団」は 中世・ルネサンス期の古楽の演奏を主に行っている。
ヴァイオリンの原型といわれるレベックを主に演奏されているパク・コニルさんに古楽の魅力についてお尋ねしました。
私たちの行っている音楽というのは、ヨーロッパの中世からルネサンス期にかけてのもので、古楽器(リュート、ヴィオール、レベックなど)を使って演奏します。

舞曲のことです。16世紀にパリで初めて「ダンスリー」という舞曲集が出版されましたが、これはダンスがなくても鑑賞できるものとして編まれたものです。そういうヨーロッパ中世とルネサンス期の音楽を演奏しています。ちなみに、私はレベックとフィーデルという楽器を演奏してます。ヴァイオリンと同じく弓で弾きますが、いわばお父さんにあたる楽器です。
音色はヴァイオリンほど甘くないし、もっと粗野な音ですね。おもしろいことに、ヴァイオリンというのは、16世紀の初頭に突然現れたものなんです。それからは北イタリアのクレモナ(注1)で盛んに製作されるようになった。
バロック音楽(注2)時代には弦を長くしたりと音の改良はあったけれど、17世紀以降、クラシックの大本になる大作曲家がでてきて、いまのあらゆる演奏に耐えられる楽器になっていった。
私の使用しているレベックは弦は3本で、ヴァイオリンよりも小さい。大人用を4/4フルサイズといいますが、だいたい3/4くらいの大きさです。
フィーデルは、5弦で形はヴァイオリンに似ていますが、大きさはビオラに匹敵するくらいです。

ヴァイオリンのように胸から上の位置で弾くのを「西洋の位置」といいますが、レベックやフィーデルはそうではなかった。中世ヨーロッパの楽器はだいたい中国の胡弓のように縦弾きでした。
そもそもヨーロッパには10世紀になるまで馬の尻尾の毛を使った弓で擦る擦弦楽器は存在しなかった。レベックも中近東の楽器ラバーブに似ていますし、シルクロードには類似の楽器は他にもあります。それが地中海、北アフリカ、東ヨーロッパと伝わるに従い、時代が移るにともない今日のヴァイオリンのように胸から上の位置で弾くようになったんです。ルネサンス以前は、東洋の影響が色濃かったことを反映していると思います。

大阪音大のヴァイオリン科に入学して、いまのグループに入ったのはリーダー(岡本一郎氏)に出会ってのことで、まったくの偶然です。グループは72年に結成されましたが、私の参加は74年です。当時、ヴァイオリン属の弾き手がいなくて、演奏会を行うことだけ決まっていた。そこで「出て欲しい」と言われ、いまに至るわけです。
昔からガチガチのいわゆる西洋音楽を聴いていた環境なら違ったかもしれないけれど、私の場合はヴァイオリンを16歳というとても遅い年齢から始めたこともあって、東洋色があることに違和感はありませんでした。
ルネサンス期以降、音楽はいわゆるヨーロッパ的になっていくけど、それまでの時代は華美じゃないし、のんびりしている。それが気に入りました。
だいたいベートーベンやバッハを思い浮かべるけれど、彼らの音楽だってそれまで培ってきた下地があったわけで、急に生まれたわけじゃない。10世紀にグレゴリオ聖歌だとかが生まれ、時代を経て、17世紀以降にクラシックができた。
東洋がおもしろいのは、ずっと各国にオリジナリティが残ったことです。西洋音楽のようには合理化していかなかった。おそらくする必要もなかったんでしょう。

いや、アマチュアはいっぱいいますし、私たちはたまたま日本で初めてできた演奏団というだけです。
注1)ヴァイオリンの歴史
初期の製作者として有名なのは、クレモナのアンドレア・アマティとガスパロ・ダ・サロ。この2人の製作者がいまのヴァイオリンの原型をつくったといわれている。現存する世界最古のヴァイオリンは、アンドレア・アマティの1565年頃の作。
注2)バロック音楽
1600年ころから1750年ごろまでの音楽。バロックとは元来〈いびつな真珠〉の意で、ルネサンス音楽の均整に対する破格を意味した。情緒表現重視などドラマティックな音楽が特徴。
じつは第2次世界大戦以降、中世・ルネサンス期の古楽が復興し始められたんです。いったんは死滅した音楽だったんです。ベートーベンやモーツァルトはいまのヨーロッパ音楽の現在と地続きと考えられていても、それ以前となると過去のものになっていた。だから研究者が学術的に研究しているだけで、学者が楽器を復元するところから始めなければいけなかった。そのうち演奏を始めたものの、プロではない学者が弾くものだから面白くない。私も初めて聴いたとき、ケッタイな音だなと思いました。

いや、演奏家がいまいちだったし、それに楽器もいまほど復元されていなかった。いまでこそ楽譜も大手出版社から出版されていますけど、当時はヨーロッパでも図書館などで文献を探さないといけなかった。
ルネサンス期以降になると作曲家の名前もはっきりしていて、作品名も残っています。それまでは作者不詳が非常に多い。民謡でも、あの有名な「グリーン・スリーブス」にしても作者不詳です。
地域ごとに残っていたものを楽譜にしたわけですが、中世で残ったものは曲も短い。舞曲以外だと恋や恨み辛みの歌が多いですね。

世俗曲というのは、そういうものなんじゃないですか。巷の大道芸人の演奏や辻で歌われる歌。そういう歌は商売のためだけにあったわけじゃないし、まして誰がつくったかもわからない。
いまは大作曲家の資料が膨大にあるから、それを演奏するだけでも大変。自分のつくった曲じゃなくても、それを演奏するだけで職業として成立していますよね。
そんなに明確じゃなかった。私はもとはサッカーをやっていて、それが骨折してできなくなって、16歳でヴァイオリンを手にしたんです。
じつは小学校5年から6年までヴァイオリンを習ったことがあります。父親がどういうわけか小さなヴァイオリンを買ったくれたんです。当時から私はサッカーをやっていて、ヴァイオリンは女の子のやるものだと思ってました。「せっかくだからやってみろ」と父に言われてやりましたけど、一年後にはまたサッカーに明け暮れましたね。
だから骨折してサッカーができなくなったころは、ずいぶんしょげましたね。いまでこそ日本人もサッカーをしますけど、私のように朝鮮学校に通っている子はスポーツといえばサッカー。インターハイにも出られるわけないし、Jリーグもまだなかった時代でしたけど、それ以外に楽しみがなかったね。
まあ、それで高1からヴァイオリンを本格的に始めて、2年ちょっとの練習で大学試験に受かったわけです。それはたまたまの合格で、やはり幼いころからやっている人の比ではなかったですね。
それに大学入って勉強できると思っていたら、そういう環境ではなかった。弾ける子はもう弾けるし、ただ人間関係とか社会的なつながりを求めて来ているわけです。私はそういう環境には馴染めなかった。ダンスリーとは1年生のとき出会いましたが、自分を受け入れてくれたという実感もあって、楽しかったですね。
そういった経緯で、大学にいたころはアルバイトのためにヴァイオリンを弾いてはいたけれど、結局は4年の2月で中退しました。ヴァイオリンで食べていきたいと思ったり思わなかったりとずいぶん揺れ動いたこともありました。

と言うよりも、自分の思い描いた技術的な向上はできないと思いましたね。プロのオーケストラで演奏家になるのも、自分の腕を考えたら「あわよくば」という気すら起こらなかった。だから音大合格したときはうれしかったけど、それからは挫折感のほうが強くなった。ヴァイオリンのキャリアは短いし、朝鮮学校から日本の学校に行ったのは当時は珍しかったので注目もされたけどね…。
ただ、幼いころから始めた人が立ち直れなくなる姿をたくさん見たんですね。音楽を楽しめなくなったり、音楽に苦しめられてその良さを忘れてしまう人もいました。
若ければ若いほど、絶対値を求めがち。針の一点のようなそれを求めるのも素晴らしいけれど、もっと周りを見渡せば、その針の穴はいっぱいある。それに気づかないままに過ごすことが往々にしてあるのは残念ですよ。
後でわかったけれど、若いころは自己顕示欲が強くないと何事も続かない。特に何かまっとうにしようとするとそれが必要になります。
コンサートバイオリニストは何百人にひとりもなれないくらいだけれど、何も音楽はその人たちのためにあるのではなく、万人のためにある。そう思えるようになったのは、理屈ではなくて時間が必要でしたね。音楽に教えられたというか、聴くにせよ演奏するにせよ、音楽は生活とかけ離れたものではないですね。
こういう生業を経験すると、音楽だけやってこなくてよかったなと思います。生活が音楽とかけ離れていないから、音楽がよりよくなった。そう思えるようになったのは、いろいろあるけど阪神大震災もひとつのきっかけかもしれない。
私がヴァイオリンを始めたときは、在日朝鮮人という閉じた環境にいたわけです。狭いけれど暖かい場所でもあった。けれど、そこを飛び出して日本の学校へ行ったら何か可能性を見出せるんじゃないか。サッカーはだめになったけど、ヴァイオリンを通じてならもっと広い世間を見られるんじゃないか。そういう可能性を求めていました。
震災で長田区にあった店も家も失って、狂牛病騒ぎがあって、生活は逼迫していて余裕もない。まだ自分で自分の生活をコントロールできない状態です。でも、それでも何か可能性を求めていますね。
正解はひとつじゃないし、結局は道はたくさんある。ひとつが途絶えても死なないかぎり道はいろいろあるでしょう。
たしかに年をとると、しんどいことをしたくなくなる。でも、いくつであれ、どうやって日々を生きるかは考えざるをえないし、そういう意味で選択肢はいっぱいあるんだと思いますね。

Koniru Paku
パク・コニル
レベック、フィーデル奏者。16歳のとき、小杉博英氏にヴァイオリンを師事。レベックを独学で修め、1978年、81年、92年にダンスリーのフランス演奏旅行に参加。かたわら神戸市三宮で韓国風焼肉店「トントン・パク」を経営する。
パクさんのお店「トン・トン・パク」:
神戸市中央区下山手通2-16-6エンデヴァービル4F
078-321-3002
営業時間17:30~22:30