

Kiyoshi Shigematsu
重松 清
1963年岡山県うまれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経てフリーライターに。田村章他数々のペンネームを持つライターとして活躍。91年『ビフォア・ラン』で作家デビュー。
重松 清 さん(作家)
少年犯罪や家族、いじめを題材とした重松さんの作品には、別段かっこよくもなく、疲れたたたずまいの大人が登場する。
いじめられ、追いつめられる子どもが所在なげなら、同じ時代を生きる大人もまた居場所がない。
こんな時代で子どもが大人になるとはどういう意味があるのだろう。
確かにそうかもしれないけど、かといって昔から大人がしっかりしていたかどうかわからない。ただ俺らが高校生の頃の大人と言えば、あくまでまじめで、あまりおもしろがることをしないものだったね。
子どもはふざけられるけど、大人はまじめでなくちゃいけない。いまはお笑いブームがあったりで、世の中おもしろければいいじゃんという流れがある。だから鈴木宗男の問題だって大人が率先しておもしろがっている。

地に足着けた人ってつまらない。やっぱり走ろうとしたら、瞬間でも空中に浮いているわけでしょ。それに俺らのような物書きは世の中に必要じゃないもので、何より虚業。地に足なんか着いていないもの。
それに地に足着くのは結果として着いたってもんで、だから高校生から地に足着いた生き方をしようと思うのも、ちょっと寂しい気がするな。
昔はさ、おもしろがる才能が大人にはなかったんだよ。ちょっと物事をずらしてみたり、笑いをとるなんてしなかった。いまは大人がふざけているから、子どもは大変だ。それよりもっとふざけようとしたら、それこそ成人式のあんな体たらくになってしまう。あとは正月の初日の出暴走とかさ。
でも、ふざけなければ仕方ないよね。大人がふざけているのに、それを「おもしろいですね」と感心ばかりしていてもつまらないもの。
ありうべきなんて考えたことないし、"べき"は言っても仕方ない。なりたい姿はあるし、それは高校生やおじさんもあって当然でしょう。けれど、「なんとかすべきだ」と思うと、ふざけるのと逆のベクトルで、とても窮屈なことになってしまう気がするね。
昔は女の子だと女の子らしくとか言われて、縛られてきたわけじゃない。この先の人生にいろんな可能性があるのに、「べきだから」と決めてしまうのはつまらない。

時代によって変わったけど、昔は矢沢栄吉が好きだった。理由?
あの人が初めてロックで飯が食えることを証明したわけで、つまり不良でも貧乏でも、一発逆転できるんだってことを教えてくれた。その前の世代にしてみれば、それは田中角栄だったかもしれない。
ビル・ゲイツだってひ弱なオタク少年が億万長者になったでしょ。ああいう世間的に見ればマイナス要素を持った人でも逆転できる例がたくさんあったほうが生きていくのに楽だと思う。
だからモーニング娘。はいいと思うね。特別に美人でもないし、普通の子だ。でも輝いている。いま小学生に人気だけど、憧れているんだと思うよ。あれがありうべき姿とは思っていないだろうけど。
いまでもそうだよ。
おじさんたちは自然がなくなったとか、昔はあったけど、今はなくなったものについてよく語るよね。でも、その逆もあるわけで、俺の高校生時代にインターネットがあれば、ずいぶんはまったと思う。
時々考えるんだけど、昔なくて今あるものとは何か。そしたらエアコンとか何とかたくさんあって、その登場で失ったものを考えると、たいがい便利なものに取って代わられているんだよね。そういう発想もあっていいんじゃないのかな。
ただ、これには矛盾があって、若い頃は、いまの高校生もそうかもしれないけど、今の自分が嫌で、今の自分じゃない自分になりたいもので、今の場所ではない所に行きたいと思う。そこで今のまんまでいいじゃん、と言うのは矛盾している。
今の自分を嫌になりすぎて、どんどん嫌になってもどこにも行けず、死んでしまうくらいだったら、好きになればいいと思う。自分を追い込んで死んでしまった友人が周りにいたせいか、それなら死ぬよりましだという思いがある。
昔のほうがよかった思うのは、あっちこっちに行けたことかな。それは知らないことが世の中にたくさんあったからだと思う。よく世間知らずというけれど、世間知らずだったから怖いもの知らずでいられた。
今は若い子もいろんなことを知っていて、「この先そんなにいいことないぞ」ってどこかで気づいているんだろうな。確かに、そんなにいいことはない。けれど、いいことが全然ないわけじゃない。
濃密な人間関係があったというけど、本当にそうだろうか。古き良き…、というのはあまり信用しないほうがいいね。
俺はいま39歳で、70年代の終わりから80年代の初めにかけて、10代を過ごした。それはもう変えようがないわけで、どんなにダサイ80年代と言われても変えられない。同じく戦争中に青春をおくった人も変えられない。だったら、いま2002年に青春をおくっている人もかけがえない時なのだから、そんなに関係のない時代に生きた人たちの言っていることに右往左往する必要はないでしょう。せっかくいまの時代の10代なんだから、戦時中の10代に戻る必要はないじゃない。
年をとると結構失ったものが大事になる。高校生は失ったもののことを考えないほうがいいよ。おじさんになって、失ったことにしみじみすればいいので、いまは得たものを大事にしたほうがいい。

導くことなんてできない。俺はそんな正解を持っていないもの。そのかわり逃げ道はたくさん与えている。学校がいやならやめればいい、とかさ。子どもにすれば、親が逃げ道を塞いで行き場のなくなることが一番嫌なんだと思う。
子どもにすれば、いい年してフラフラしている駄目なオヤジなわけで、こんな方向に子どもを導いたらそれこそどうなるんだって話だから、せめて逃げ道を塞ぐことはしたくないね。
それはわがままを許すことと紙一重になるけれど、わがままは許さない。その見極めとしては、偉そうなことを言うかどうかで、偉そうだったら怒る。
だから、大人は、それがわがままなのか、それとも追いつめられているのか見抜けなくてはまずいよね。せめてそれくらいはできないとね。そうしたX-dayに向けて、それが見分けられる親でありたいと思う。

俺はなってないからな…、ヘラヘラ笑わないことかな。年齢で切ったとしても、成人式のバカ騒ぎになるわけで、かといって経済的に自立したら大人になるかというと、パラサイトシングルもいるわけだ。やっぱり、なるならないの物差しは、人に決めてもらう必要はないんじゃないかな。だって大人もわかっていないんだから。
何か確固とした、これをクリアしたら大人になります、というよりも、人それぞれでいいんだと思う。親父より背丈が伸びたから大人になったでもいい。
江戸時代の感覚で言えば、元服したら大人とされたから、時代により規準は変わる。それを思うと、不特定多数の誰にでも適応できる正解はないんだと思う。少なくとも、マウスをクリックすれば正解があらわれるわけではない。
俺は考える高校生じゃなかったし、とにかくダラダラしたことがよかった。無意味な時間だったかもしれないけれど、それで幸せだった。余り無駄のない人生、正解に向かって一直線とは考えないほうがいいんじゃない。
親父はシャンとしないという理由で怒ったけど、俺は高校生だからダラダラするんだと思っていた。それぞれに物差しがあるんだ。
自信のないダラダラした男が、怒られたからといってシャンとなれると思う?
ダラダラを否定されたら今度はイジイジしちゃう。

自分を表現するマイ擬音なんかいいかもね。俺はダラダラだけど、ガンガンやビシバシな奴もいるだろう。
考えてみれば、当時から俺はダラダラだったね。これは続けたいけど、おじさんになると仕事が忙しくてダラダラできない。だから若い頃のダラダラは大事だね。
高校生なら、何もしていないのに「かったるい」と言えるわけで、いまそれ言ったら張り倒される。ダラダラも、そんなに捨てたものでもなくて、退屈に耐えられるということだから大したものだと思う。そう、結構世の中って退屈なものだからそれは大事だよ。刺激はすぐインフレを起こすから、緩い刺激でとりあえず生きていく訓練にもなるしね。
Kiyoshi Shigematsu
重松 清
1963年岡山県うまれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経てフリーライターに。田村章他数々のペンネームを持つライターとして活躍。91年『ビフォア・ラン』で作家デビュー。99年『ナイフ』が坪田譲治文学賞受賞。『エイジ』で山本周五郎賞受賞。『ビタミンF』で第124回直木賞を受賞。
【重松清さんの本】

『エイジ』(朝日新聞社)

『ビタミンF』(新潮社)

『ナイフ』(新潮社)

『流星ワゴン』(講談社)

『熱球』(徳間書店)