

Jinichi Kuramae
蔵前 仁一
1956年鹿児島県生まれ。作家・グラフィックデザイナー。大学卒業後、1980年代からアジア・アフリカを中心に旅行し始め、1986年『ゴーゴー・インド』を出版。その後自ら出版社「旅行人」を設立。現在は旅行雑誌『旅行人』を刊行しているほか、単行本やガイドブックの製作・出版を手掛けている。
蔵前 仁一 さん(作家・グラフィックデザイナー)
アジア・アフリカを中心に世界各国を旅してきた蔵前さん。
そのきっかけは、初めて訪れたインドで彼を襲った『インド病』だった。
また彼は旅を続けるにつれ、あることに気づいたという。
彼の話からは地名や国名が次々に飛び出てくる。
その熱い語り口の裏には、自らの体験から得た確信が満ちあふれていた。
あまりに仕事が忙しくて。今と違ってその頃(1980年頃)は景気も割と良かったし、雑誌も数多く創刊された時代だから、グラフィックデザインの仕事もとりあえずたくさんあった。でも自分としては純粋にいいイラストを書きたいんだけど、とにかく毎日が締め切りとの闘いで、考える時間なんか全然ないんだよ。朝4時に仕事の依頼が来て、正午に締め切りとか。

そういう生活が長く続くと、自分でも一体なぜその仕事をやっているのかも分からなくなってくるし、自分でやりたいことも見えなくなってしまう。そんな状況が重なって、割と軽い気持ちで「旅行でもしようか」と。
10日間。別にインドにも興味もなかったし、何も知らなくて。たまたまその当時の仕事仲間にインド好きがいたもんで。まぁ、あんなヒドイ目に遭うとは思わなかったけど。

あんなひどい所はないと思ったよ。二度と行くもんかと(笑)。商売人には騙されるし、街には汚い牛(注1)の糞も、乞食もたくさんいるし、火葬場(注2)では人が焼かれてる。でもその一方で相反する気持ちも生まれた。現地でバックパッカ-(注3)たちに会ったんだよ。へぇ~、世の中にはこういう人たちもいるのかって。そんな気持ちがごちゃごちゃになったまま日本に帰ってきた。
いや、もうそんな状態じゃなかった。もうメチャクチャ。インドから帰ってきてからというもの、仕事が全然手につかない。何ていうかなぁ、説明しづらいんだけど、日常生活にまったくリアリティーを感じなくなっちゃったんだ。自分がやってることに対して確信を持てなくなって、すべてがあいまいになってしまった。
しかも寝ても覚めてもインドのことが頭をよぎる。自分の中ではもうインドなんかまっぴらゴメンだ!って思ってるんだけど、あたかも悪夢に取り憑かれたような状態で辛いのなんの。で、インド好きの友人に相談したら「それは『インド病』(注4)なんだからインドに行くしかない」と。
というか、どうせ日本にいても仕事にならないからさ。日本にいても生きて行くのが辛い状況だったし。

見えてきたね。実はとてもシンプルなことだったんだよ。インドに行くまでの自分は日本の生活しか知らない訳だ。例えば幸福になる手段というのも、3LDKの家を持って結婚して子供がいて年収も多いっていう生き方がまずあって、それに沿ってその他さまざまな価値観が決められてる。自分がやってたデザインの仕事に関しても、有名な出版社から出ている雑誌の表紙を飾ることが「成功」だったわけ。
そんな一元化された価値観の中で生きていた人間が、いきなりインドみたいなところに突如置かれると、自分の中のあらゆる価値観が相対化されてしまう。要するに何が正しいのか分からなくなってしまう。これが『インド病』の原因だな。と同時にとても面白いと思ったね。今まで自分が信じていたことなんかは、実はただひとつの考え方に過ぎないんだと。
注1) 牛はヒンドゥー教において聖なる動物。二大神のひとりであるシヴァ神の乗り物とされているのがその理由。インドの街ではよく牛が放し飼いにされているが、中には「野良牛」化している場合も。↑戻る
注2) 聖なる河ガンジスに自らの遺灰が流されることは、ヒンドゥー教徒にとって最後の願い。そのため河岸にある火葬場では、公衆の面前で遺体が荼毘(だび)にふされている。↑戻る
注3) 個人旅行者のこと。バックパックを背負っていることから、このように呼ばれ始めた。↑戻る
注4) インドでかかる心の病気。かかる人とかからない人がいる。この病気の特徴は
① 何かものを言うとき、必ず最初に「インドでは…」と言う
② 買い物をするとき、やたらと値切る
③ 仕事が嫌になってナマケものになる
④ 食事のとき思わず右手を出してしまう
⑤ とにかくインドが恋しくなる
等々である。一度かかってしまうとインドに行く以外に治す手段は無いが、
インドに治療に行って更に病気が悪化してしまう人もいる。(新ゴーゴー・インドより引用)
何事も比べてみないと分からないということ。物事のありようっていうのは、それがただそこにあるだけでは分かったようでいて実は分からない。比較するものがあって初めて、物事は見えてくる。例えばインドに行ったからインドのことが分かる訳じゃない。インドを知るにはインドの周辺各国、果てはアフリカやヨーロッパまで行かないと見えてこない。

まず、英語を勉強することと異文化理解は全然別もの。英語に関して言うと、アジア・アフリカ各国の人間は英語を勉強してる。でもそれは英語を勉強することが金の獲得につながるっていう切実な状況があるからなんだ。フランスの植民地だったベトナムも今や英語が広く使われてるし、英語熱の盛んな国はだいたいそうだよ。生きる術として英語を学んだ人間は、商売に関する話は流暢にできるけど、概念的な言葉だと、とたんに分からなくなる。
実は日本だって一緒。日本で英語ぐらい話せなくちゃダメだって言ってるのは、世界のビジネスに遅れないためでしょう。英語力は金になる。もちろん英語を介して異文化を知ることにもつながってくるだろうけど。だいたい語学を教養のためにやろうなんていうのは金と暇があるからできるわけで。

行くか行かないかは本人が決めることだけど、もし本人が行きたいと思って、金と暇があれば行ったほうがいいと思うよ。こんな面白いことはないからね。行くべきと言ってもいいくらいだな。特に所得の低い国に行って欲しい。
何故かと言うと、アメリカとかヨーロッパに行っても、日本のノウハウが比較的通用しちゃうんだよ。タクシー拾うにせよ、切符を買うにせよ。そういったことが一緒だと、日本ではこうなんだなってことに気づかない。そう考えると、今の地球上で日本のやり方が通用しないところはどこかというと、所得の低い国ということになるんだ。
そうそう。もうメチャクチャ面白いぞ! ただ、高校生の場合は「日本の常識」を持っているかどうかもあやしいけど(苦笑)。
でも自分の経験からも言えることだけど、例えば中学校の社会の時間とかに習ったことなんかは役に立つ。例えばバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインド航路を発見したってことを習うじゃない? でもいざ現地に行ってみると、バスコ・ダ・ガマ以前、すでに中東やインドの商人によって航路が開発されていたことが分かる。その事実を知って初めて、インド航路「発見」というのはヨーロッパからの見方にすぎないことに気づいたんだ。アフリカは「暗黒大陸」だった習ったけど、現地の人が「自分たちは暗黒大陸に住んでる」なんて言うわけないだろ?
ヨーロッパ人の見聞が現在の日本の教科書に書かれているってことに気づくといった意味で、学生時代の知識は役立つんだな。こういったことに気づくと、「俺は世界の真理をつかんだ!」なんて思えるぜ(笑)。もし予備知識がなかったら、そういったことも感じない。
だから、とりあえず世界を理解するための基礎知識は必要だな。高校生の時にこんなことを理解しろって言っても納得できないだろうけど、「勉強なんか何の役にも立たない」なんてうかつに思わないほうがいい。役に立つか立たないかは誰にも分からないし、役に立たせるのは自分次第ってことだから。ただ暗記ばっかりする受験勉強は、すぐに忘れるからあんまり役に立たないけどさ。

鵜呑みにせずに批判的に受け入れるのは、基礎知識がないとできないわけで、それは高度なことだよ、かなり。いい大人だって、それができる人がたくさんいるとは思えないけど。だけど、それができるようになって欲しいわけだよな。
まず、無知であることを自覚し、謙虚になること。「うるせえんだよ」なんていわない。これって典型的な思考停止のフレーズだもんな。それからいろんなことを吸収して欲しいと思う。自分の興味のあることだけでも構わない。とことんやってみる。そうすれば、少なくとも、その分野では大人が何と言おうと、批判できるだけの知識が身につく。そこから初めて世界が理解できるようになってくる。そうすると世界が面白くなるっていうのは、自分も旅から学んで徐々にそうなったからこそ言えるんだけどね。
それから最後に付け加えたいのは、今の高校生で自殺しちゃう子がいるじゃない。それなりの理由があってのことだと思うけど、そこまでいかなくても、まあ何もかもが死にたいほど退屈でイヤだって場合はさ、インドなんかに行ってみたらいいと思うよ。そうすれば世界は退屈でもないし、自分のことで悩んでる場合じゃないって分かるんじゃないかな。

Jinichi Kuramae
蔵前 仁一
1956年鹿児島県生まれ。作家・グラフィックデザイナー。大学卒業後、1980年代からアジア・アフリカを中心に旅行し始め、1986年『ゴーゴー・インド』を出版。その後自ら出版社「旅行人」を設立。現在は旅行雑誌『旅行人』を刊行しているほか、単行本やガイドブックの製作・出版を手掛けている。
旅行人ホームページ:
http://www.ryokojin.co.jp/
【蔵前 仁一さんの本】

『新ゴーゴー・インド』(旅行人)

『沈没日記』(旅行人)

旅行雑誌『旅行人』(旅行人)