

Takehito Fujii
藤井 健仁
1967年生まれ。現代彫刻家。日本大学芸術学部卒。学部賞受賞。土谷武氏に師事し、大学時代より鉄を素材とする作品を作り続けている。1999年ストライプハウス美術館新世紀人形展において日向あき子賞受賞。92年東京、94年名古屋、2001年2月名古屋にて個展を開催。
藤井 健仁 さん(彫刻家)
名古屋駅太閤通口。藤井さんとの待ち合わせ場所だ。Tシャツにジーパン姿のいかにも誰かと待ち合わせをしている様子の男性を発見。駅入り口のガラス戸越しわずか2mほどのところから携帯に電話をかけてみる。「あっ、鳴ってる。藤井さんだ」
鉄を使った彫刻作品を作り続けている藤井さんのアトリエは名古屋の郊外にある。カメラマンと共にトヨタの商用バンに乗り込んだ。なるほど、この車なら彫刻に使う材料や作品を運ぶのに便利かもしれない。ここから藤井さんのアトリエまで約1時間。車内の雑談から面白いインタビューのネタが拾えるかもしれないと、こっそりMDレコーダーをセットした。
ええ、予備校は河合塾の芸術コースにいってたんですが、今はすっかり有名になった奈良美智(ならよしとも)さんもそこで教えていたんですよ。
いいえ彫刻は大学に入ってからです。高校時代は、バンドとか、変わった油絵とかをやっていました。当時、新表現主義とかニューペインティングというのが流行っていて、そういうのに影響されてやってたんです。
兄は高校の頃までずっと見ていますからね。それで見ていて自分でできることとできないことが消去法ではっきりしていったのだと思います。自分も兄について行ったりとか家に人が来たりしてたんですが、人と会ったりというのは合わないなと思って。結局できることをさらい直すと小さい頃から得意だったこと、要するに絵を描くくらいしかなかった。努力しないでできることっていったらホントそれだけだったんですよ。

何かを変えたいということはありましたが、はっきりとした相手があるわけじゃなかった。ただ、なぜ彫刻を選んだかというと、彫刻というのは美術の中では現実的なメディアであって現実的な要素を無視しては成立しえないんですね。例えば、イメージを実際に空間に成立させるということにおいても重力とか素材とかと折衝していかないといけない。イメージだけで作ると倒れたり壊れちゃったりするんですよ(笑)。現実に対応するためのプラクティス(practice)としても捉えられるじゃないかなと思って彫刻を選んだんです。
ええ、大学に入ってからです。僕はすごい不器用で、モノとイメージとのバランスをとるのが下手だった。石膏とか粘土とかを大学の初歩的な授業で使うんですけど、すぐ壊しちゃって作品が残らないんですよ。石膏の彫刻を作るには、まず粘土で形を作ってからその外側を石膏で覆って殻を作り、その後外の殻に窓を作って中の粘土をかき出します。そしてそれを型に石膏を流し込み、乾いたところで外側の石膏を割って中身の作品を取り出すのですが、外側の石膏を割るときに中も一緒に壊しちゃうんですよ。木っ端微塵にしちゃってみんなに馬鹿にされてましたね(笑)。

その後、舞台美術をやることがあったんですね。舞台ではよく、ドリフみたいに、背景を板に描いたりするんですね、「書割り(かきわり)」っていうんですが。それを舞台上で運ぶためにも軽く作らなくてはいけないんだけど、僕は不器用なんで、グシャっとひしゃげちゃったりして、とにかくどうしようもなかったんですよ。それで薄い鉄でやればいいんじゃないかなと思いついてやったらすごく上手くいったんですね。
いえいえ、絵じゃなくて、全部立体でやったんです。要するに、鉄でカメラとか椅子とかといった造形物を作ったんですね。それがことのほか上手く作れて、これ使えるわって感じでね。鉄は作業の時には熱を加えるのでやわらかくなるし、冷めれば硬くなるので、僕のように粗暴にやっても壊れないんです。
もちろん授業でやりましたが、その時は適当にやってましたね。
技術って何でもそうですが、「こういう技術だ」と人に言われたものではそこまでしかできないんですよ。でもこういうふうにも使えるんじゃないかという発想のアプローチがあるとどんどん深入りしていけるというか、まず作りたいものがあってそれに向かってどうしようかとを自分の頭であれこれ考えたときに、技術って発展していくものだと思うんですね。
そうですね。体に合うというか質(しつ)に合うという感じがして。
鉄板をあぶって叩いて溶接してつないでいく。ですから骨組みがないんですよ。甲冑みたいに外側の殻だけで中は空っぽなんです。鉄板をバーナーで熱して鉄の固まりの上で叩くとその部分だけが延びるので出っ張るんですね。そうやって曲面を作っていったりするんです。
夏は暑いですけど、冬は結構助かりますね(笑)。
僕は、10年ちょっと大学にいたんですよ。留年して、研究生もして、主任の教授が作家だったんですが、その先生の助手もしていました。鉄の彫刻で有名な土谷武先生です。ただ、ほとんど影響は受けませんでしたけど。
彫刻というのは場所も取るし仕事も少ないので、みんな学校に残りたがるんですよ。僕は幸い技術を買われて残っていられたんですね。ですからそのころは大学の近代的な設備を使って仕事ができていたんです。
それが、いろいろあって辞めなくちゃならなくなった。そうなると道具がなくて困るんですけど、いざ自分でやるとなると、道具っていろんなところから集まってくるんですよ。アルバイトで働いたことのある工場の社長さんとか、善意でみんな使ってない道具とか材料を回してくれるんです。廃業した工場とかで使わなくなったものとか、ジャンク屋さんとかですごく安く売ってもらったりして。
もちろんそうです。最近は景気が悪いんですが、ディスプレイ美術をやっています。什器(じゅうき)つまりデパートなどのウィンドウディスプレイにある飾り物なんかを作ったりしてます。
アトリエに水道が通ってないんですよ。倉庫なんです。偶然名古屋に戻ってきた後輩と一緒にこの辺を走ってたんですね。そしてある県道を通りかかったら、これをアトリエにしたらいいんじゃないかという倉庫が目に入ったんです。錆びてて草ぼうぼうで、大きくて県道沿いで搬入しやすそうな、どうみても使っていなさそうだし、学校を出たばかりの人間が使うにはもってこいだと思ったんです。それで住所を控えておいて、村の役場にいって登記簿とかを閲覧して大家さんを調べて会いにいったら、すごい安い値段で貸してくださったんです。
敷地総面積100坪、建面積が50坪。昭和45年に建てて以来ずっと使ってなかったらしいです。おまけに、床がなかったんですよ。中はコケとかシダが生えててモグラの穴とかあったりして。それを自分でコンクリートを敷いて、電気を引いて、トイレを置いて、汲み取り式ですけど。ですから、トイレに行きたかったら着く前にどこか寄りますから言ってください(笑)。おまけにちょっと休めるようにと、小さな3畳くらいの小屋を倉庫の中に建てました。

いえいえ、トイレはない、電気もないで、後輩は早々に恐れをなして逃げました(笑)。
シェアしたいという人はいるのだろうけど、家賃的にひとりで何とかやっていけるので、今は独りでやっていこうと思っています。同じ間取りだと東京では10人で借りないと足りないんですね。スペースの問題を考えると経済的にやっていくんだったら名古屋の方が絶対有利なんです。情報はどこに行ってもそんなに変わらないですから、楽に作り続けていける方法を選べばいいわけです。
(田んぼや畑が広がる、のどかな風景の中をしばらく通り抜けた後、車は秘密基地のようなアトリエ倉庫に到着した。天井の高さ約7m。バレーボールコートとはいかなくても、バドミントンコート1面は楽に張れる広さだ。そんな中にさまざまな彫刻器具や鉄板などの材料や作品が置かれている。アトリエ内を一通り見学させてもらった後、鉄彫刻の実演をしてもらうことになった。)

鉄板を火力を強めたバーナーで溶かしながら切り落とす。

若干火力を弱めたバーナーで鉄板をあぶると徐々に鉄板が赤くなってくる。

赤くなった鉄板を、台に置いてハンマーで勢いよく叩くと、徐々に鉄板の中央がくぼんでくる。 ハンマーで叩く音はかなりのものだ。実際、実演直後はしばらく耳が遠くなってしまった。
最初は遠くから見てましたけど、そのうち近くの農家の人がふらっと覗きにくるようになってね。「もうできた?」とかって言って。鍬が折れたり、柄がとれたりすると直させに持ってきたりするんですよ(笑)。
「夜の戦艦」は鉄にすごく入り込んでいた頃の作品です。鉄で作られた一番すごい物はなんだろうと考えて、それは戦艦だろうと思った。もちろん戦艦をそのまま描写したわけではなくて、毎日小さな彫刻を適当に作っていってそれを組み合わせて、一つのシルエットを作っていくという作業でした。影だけが日本海軍の戦艦に見えるようにしたわけです。

テーマは特にないんです。訴えたいこともない。この春の個展で発表した作品にはorgan(器官)という題名をつけていますが、実際に、ある体内器官の形の断片を作品に取り入れていても、直接何か具体的な器官を指すというのではないんです。というか、モノにテーマや思想やアイデンティティを過剰に語らせるのは滑稽な気がしてしまうんですね。
ただ「在る」ということだけですごいことなので、そこに理屈を入れて矮小化する必要はないのではないかと思うんです。自立的現実、とでもいうのでしょうか。日常のもの、車とか機械とかと比べて遜色ないものを作りたいんです。美術だからまあいいでしょうというものではなくて。

ないです。それにこれらは、彫刻ではなくて「人形」なんです。
ただ、鉄だと素材からして強いとか男らしいとかマッチョだというイメージの中で作品を作る人も多いと思うのですが、僕は逆にマッチョ嫌いなところがあってソフトなものを取り入れたかった、ということもあります。
彫刻は思いとか考えたこととかを物質を使って表現するわけですが、そのまどろこしさが好きになれない部分があって、つまりモノを媒体として間接的に扱うのが嫌なところがあって人形を作り始めました。人形は主体がモノにある。同じ立体ではあるけれど方向性はほとんど逆なんです。彫刻という媒体では表現しきれないものがあるので、人形をやっているわけですが、人形はあくまでサブであって、僕のメインは彫刻です。
大学にポスト・モノ派の先生がいたんですね。その先生がその戦艦を見て、「藤井くんの彫刻は鉄で作らないほうがいい、紙か樹脂の方がいいよ」っていうんですね。その先生が作っているのは鉄の塊を買ってきて、ハンマーの叩き目がその上面に残っているという作品だった。その時、その先生は鉄を既成の鉄のイメージの中だけで作っていて、鉄を開拓するつもりはないんだとわかったんです。鉄で鉄らしく作るのは当たり前なんだから。鉄をイノベート(innovate)させる僕の方が正解だろうと思いました。そんな事もあったりして、コンテンポラリー(現代美術)と距離をおくようになっていったんですね。
最初は僕も一番新しいものがやりたかったのだけれど、徐々に違うなという気がし始めたんです。コンテンポラリー(現代美術)をやるというのは性じゃないんですし、今はある意味伝統的な近代彫刻をやろうと思ってるんですよ。現代美術は近代から現代へつながってきているんですが、断線があるとしか思えない節があるんです。
モノ派というちょっと前の美術運動があるんですが、つまりモノを主観のとらわれなしにあるがままのものを表出させようという発想があるんですけど、そういうものというのは、伝統的な方法論で彫刻を作っていれば、誰がやっても出るくらいの割合で出ちゃうんです。むしろその先というのは近代が既にやっていたような気がするんですよね。
近代美術の概念を解体特化したのが一部のコンテンポラリーアートの特色でインパクトもあるし即効性もある。でもそれは美術が持つ力とは違うという気がしているんです。それはそれでいいんですが、もしそうじゃなかったらということを考えちゃうんですね。
例えば、フランスのマルセル・デュシャン(→作品)という人が現代美術の元を作ったのですが、彼にはお兄さんがいたんです。レイモンド・デュシャン・ヴィヨン(→作品)という人で、1920年代の彫刻家なんですが、若くして戦争で死んでしまった。そのヴィヨンは、今につながらない彫刻を作っていたんです。この人がずっと仕事をしていたら違う方向に行ってたのではないかという未来を指し示しているわけです。もし立場が逆転して、マルセル・デュシャンが世に出てこなかったらということを考えると面白いかなと思っているわけです。「もしナチスが勝っていたら」とか「もし・・・」っていうのがいろいろあるじゃないですか。近代の方向性の中でそうじゃない可能性をやってみたい気がしているんです。

そこまでシンパシー(共感)があるわけじゃないですが、そういうありえたかもしれない近代を追っかけています。系統樹で例えるのも変ですけど、もっと太い幹(や枝)から分かれ、広がっている多様性もあると思うのです。
『JN』という実業之日本社が発行しているビジネス誌があるんですが、2002年の1月号からこれが連載でグラビアに載ることになってるんです。肖像彫刻として顔を作っているわけですが、これは作品単体として成立させるつもりではないんです。特定の個人の顔を鉄によって制作することのみで得られる情報でその人をプロファイリングしよう、という企画で、自分で書いた文章とセットになっています。
ただ、顔を作っていて改めて思ったことがあります。作品を作るとき鉄板の表と裏、両側から叩いていくのですが、顔を作るときはそれが特に顕著になるんです。鉄板を顔の内側となる側から叩き出して大きさを作って、外からしめるんですが、それがなんとなく人間の顔ができてくる過程に通じる気がするんです。内面的なものを表象している顔のパーツは、内側から叩かないと出ない。頬や額は社会的な要因で変化するものなんですが、そういうものは外からピチッと押さえて作る。全部が全部そうではないですが、そういう面が大いにあるわけです。そういうことを個人の顔で実践してみようと思って… 妙なリアルさがあるんですよ、制作の方法は今までやってきたことを翻訳してやり直している感じです。
そうですね、じつは、戦艦とか作っていた22、23歳の頃は、僕もいらいらしやすくてキレやすい性向だったんですよ。今作っている顔の肖像彫刻などはその時の手法をそのまま使ってるんですが、顔を作るときに使う力というのは、人を殺(あや)めるのと同じくらいの力を持っていると思うんです。ビジュアル的にもそうじゃないですか、頭部をバカスカなぐって、ガリガリ磨いて、血の臭いもうっすらする。バイオレンスな現場なんですよ。鉄は鉄分なので血と同じ成分じゃないですか、焼くと赤いし血と同じ臭いがする。錆びると赤くなるし、叩いた肌が人肌と同じような感じになるんです。これって理由がないわけじゃないと思うんですよね。
だから、最初は暴力衝動をいかに転化させるかみたいなことを感じてやっていましたね。でも、もちろんそれを使ってその先があるんじゃないかなという気持ちで作品を作ってましたけどね。僕は、鉄に救われたということもあると思います。もっとフィジカルな要素のない作業、例えば絵画とかを選んでいたら、鬱屈してたかなと思います。だけど、最初の頃の作品とかって暗いし、陰険ですよ。

そうですね、昔は、自然のなかで流木を拾ってきて彫刻とかをするエコロジー作家みたいになるのが嫌いだったんですよ、自然と触れ合ったりするもんかっていうのがあったんですね。でも名古屋に来てひとつ変わったことは、人と比べなくなったってことなんです。こういう田舎で日々の作業としてモノをいじくって作っていると、最初に差異や特殊性とかを前置きしなくてもいいという気がしてくる。根源的に彫刻という営為があって、ただそれをやっているだけ。それをやっているだけで分かってくることもあるという気がするようになってきました。
本当に、こういうふうにやってモノがつくれるというのが嬉しかった。最初の頃は狂ったように作ってましたよ。
じつは、僕、子どもの頃いじめられっ子だったんですよ。いじめたくなるでしょう(笑)。でもそれは同級生ではなくて教師にいじめられていたんです。6年間の半分くらいその先生が担任でものすごくいじめられました。僕は偏食児童で、学校の給食がまずかったから食わなかったんですけど、まずいからといって吐くと、吐いたものを食べさせるんですよ。それもほとんど僕一人だけ。その教師はアル中で、言うことも一貫していなくて、疳(かん)にふれたら殴るとか、ホントひどい教師だった。直接つながってはいないと思うのだけれど、今思うと、そういうダメ教師がいなかったら、もっと普通なことをやってたかもしれないなと思うんです。
その一方で、そういう破綻した人間に出てきて欲しくないと思うこともあります。そういう人が出てきてから叩くというのは僕の兄がやっている世界だと思うんですが。僕の場合は、そういう人が出てこない土壌を作る一助にはなるかもしれない。もしくは子どもがそういった教師や親に当たっても、まだ彼らとは別の価値観もあることだけでも知ってもらいたいですね。
僕はその小学校教師から明らかにネガティヴなものを受け取ったけれど、何とか自分で善いと思えるモノに転化させて、きっちり世の中にお返ししたいと思ってます。

Takehito Fujii
藤井 健仁
1967年生まれ。現代彫刻家。日本大学芸術学部卒。学部賞受賞。土谷武氏に師事し、大学時代より鉄を素材とする作品を作り続けている。1999年ストライプハウス美術館新世紀人形展において日向あき子賞受賞。92年東京、94年名古屋、2001年2月名古屋にて個展を開催。
2001年11月6日(火)~11日(日)彫刻展「NEW PERSONITICATION」を開催中。
場所:
アートコレクション中野(名古屋市中区栄3-9-1新和ビル3F)
Tel:052-251-5855
ホームページ(近日公開予定):
http://www2.starcat.ne.jp/~fujiibph/