

Yasumasa Mori
森村 泰昌
美術作家。1951年大阪生れ。名作絵画に自分自身を登場させる独自のセルフレポート作品「美術史の娘シリーズ」、女優に扮した「女優シリーズ」などにより国内外で高い評価を受ける。
森村 泰昌 さん(美術作家)
あるときはモナリザ、あるときはマリリン・モンロー。美術館から映画館まで、どこにでも森村泰昌さんが求める素材はある。自分以外のなにものにもなりうる自由と冒険心で"芸術家M"の世界はさらに広がっていくだろう。
うーん、それもいろんな答え方があるような気がするんですね。意味づけは後からくるもので、それも自分ではしっくりこない。どれも、一部しか言っていない気がして、まあ表現はそういうものかなとも思います。
言葉と言葉の隙間、それを表現しているのではないでしょうか。頭で「自分とはかくかくしかじか」といったような表現ではなく、何か自分でわからないモヤモヤしたものに行き当たるといった具合です。
アウトサイダーアートというのがあります。その人に「なぜそれをするのか」と尋ねても、本人にはわからない。わからないのに旺盛にやってしまう。描いても、発表するわけでもないのに、どんどん描く。その価値を発見する人が現れるまで、捨ててしまっていた。人間にはそういう衝動が誰にでもあると思います。ところが大人に、社会人になると、「何かの役に立たないといけないし、立つべきだ」といった意識が強くなる。そうなったら芸術家だけのものでもなかったはずの基本的な衝動を忘れてしまう。アウトサイダーアートはそれをピュアな形で見せてくれるけど、自分もそれに近いものはあるのかなと思います。

たとえばマネの「フォリー・ベルジェールの酒場」の登場人物になったときのことです。絵では酒場のカウンターに手を置いていますが、実際にやってみると決して長くはないけど短くもない私の手がカウンターに届かない。つまり描かれた女性の腕は極端に長くデフォルメされていたわけです。


長く太い腕を石膏でつくることで当初の問題はクリアーできました。けど今度は自分の手が邪魔になった。でも困ったときがいちばんのチャンス、女性だから胸があるわけです。それを手で表したらどうだろう。マネは本当だったらテーブルに届かない手を長く太く描くことで、その女性の力強さを描いた。それを僕は自分の手で表そう。そのことで女性の胸のふくらみと強さの双方を握り拳で語ることができるのではないかと思ったんです。
生活の中では「男」をやっていますが、染色体にXとYがあるように、自分の中にいろんな要素があるにもかかわらず、そのうちの一部分しか使っていない気がしたので、それを使いたいと思ったんです。その枠組みを広げようと考えるうちに、女優に扮することが多くなってしまった。
人間はそれほど違わないということがわかりました。人種や性、時代、文化など、違いは取りざたされるけど、そうした違いを越えて、人には共通のところがあるのではないか。でないとコミュニケーションは成り立たないでしょう。
ところで、いまメキシコのフリーダ・カーロという壮絶な人生をおくった人のセルフポートレートをテーマにしてます。いままで自分の美意識からか、美白金髪細眉系に扮することが多かったんですが、その人は女性だけど眉毛もつながっていて、髭も生えている。肌も浅黒く、民族衣装をまとっていて、これまでのメイクやボディコンシャスな服からすればまったく違う人です。そういう一般的な女性のイメージとは違う人をやっていて思うのは、「けっこう似合っているな」ということです。
そう思うことは、実は大事なんです。無理矢理やっていないということは、男女や国の違いはあっても、そうした人とつながっていける土壌が自分の中に以前よりもしっかりとできてきたのかなと思います。

それまでは何もできず、融通のきかない人間だと思ってました。セルフポートレートは「自分はこういうものである」と表現する手段と捉えられますが、私は「こういう人間でもありうる自分」を発見し、発表してきたという感じなんです。そのうち「あんなこともできた」という自信が出てきた。だから、まさかできると思っていなかったライブパフォーマンスや音楽も今では行うようになりました。
いや、そうでもないです。10代の頃はすごく焦っていました。センスを培うといっても、自分ひとりではどうにもならないので、何か出会いを求めていました。よく「出会いがないなら、世の中に出ていけばいい」と言いますよね。言うのは簡単だけど、誰もがそううまくできるわけではない。
高校生のとき、まわりみんなが優秀に見えました。高校は特に、大人度みたいな落差がどんどんついてくる時期です。物事をよく知っているだとか、論理的に話せるだとか。僕はそういうのに追いついていけなかった。これは勉強しなければと思って、哲学や文学の本を高校2年から読み始めました。けどわからないんですね。余計に自分は駄目だと思い、精神的にしんどいことになってしまった。しんどいままにずっと長い間、ぐずぐずしてました。僕がゴッホの作品をつくったのは30歳越えていた。ずいぶん遅いでしょ?

僕の経験では物事を知らないに越したことはないし、知っているとセンスがなくなると思います。音楽を知らないといいながら、展覧会では自分の演奏した音楽を流すんです。ふつう楽器を奏でようとすると、「基本からまずマスターして」という発想になりますよね。それだと一生かかることになるので、最低でも3歳から始めないといけなくなる。僕が40歳から音楽をやりたいと思ってもそれではできないわけです。でもそういうものではないと思うんです。
僕がピアノの鍵盤にはじめて触れたのは、自分がリラックスしようとしたときでした。鍵盤を叩いたとき、とても気持ちよかった。それが自分にとっては、音とのものすごくよい出会いだった。
知らないで叩いたときの、その一音に感動できるかどうか。そして、このピアノにもっといい音を鳴らしてみたい。そう考えて試しているうちに、何がいいかを手探りで見出していく。自分とぴたりと合うものを発見していく。それをセンスというのではないでしょうか。何も知らないでやってみて、瞬間に感動できると自分の中に焼き付くものがある。それを繰り返し試しているうちに、別の発見がある。
出会いといっても人との出会いもあれば、本との出会いもある。どう自分が何かと出会えるか。僕にとっては芸術がその出会いだった。
僕はいまでも方向音痴なんですが、ふつう社会生活を送る上でそれは直さなくちゃいけないことですよね。芸術と出会う中で思ったのは、「芸術家たるもの方向音痴でなければ駄目だ」。そう言い切れる自分になったんです。そう「これで自分はいいのだ。方向音痴だからこそできるものはある」と。

Yasumasa Mori
森村泰昌
美術作家。1951年大阪生れ。名作絵画に自分自身を登場させる独自のセルフレポート作品「美術史の娘シリーズ」、女優に扮した「女優シリーズ」などにより国内外で高い評価を受ける。
【森村泰昌樹さんの本】

『芸術家Mのできるまで』(筑摩書房)

『踏みはずす美術史-私がモナ・リザになったわけ-』(講談社現代新書)
最新情報:
「私の中のフリーダ/森村泰昌のセルフポートレイト展」
期間: 2001年7月20日(金)~9月30日(日)
会場: 原美術館
東京都品川区北品川 4-7-25
03-3445-0651
開館時間: 11:00-17:00
(水曜日は20:00まで・月曜休館)
入館料: 一般1000円、大高生700円、
小中生500円
