前田 英樹(立教大学教授・フランス思想)
世の中からこれまでなら説明するまでもなかった「自明さ」が、どんどん失われている。たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか?」。それに対しては「人に迷惑をかけてはいけないから」と答えるのがせいぜいのところだ。倫理や規範が説得力を持たなくなっている時代、トンカツ屋のおやじの仕事ぶりから倫理を説く書物を著した前田英樹さんにお話を聞いた。
「考えることが得意でない風に見える人がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日にこにこと店でトンカツばかり揚げているようなおやじは、そう見えるかもしれない。
しかし、このおやじのトンカツが飛びきり美味いとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかも知れない。とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。私たちはこういう人の存在に実に鈍感になった」
『倫理という力』より抜粋(講談社現代新書)

人様にできるだけ安く、とても美味いトンカツを揚げようと努力する。そして、それがこの上なく美味いとするなら、常人には思いつかない驚くべき技を持っているということでしょう?何も言わずとも万人を説得しているし、それがおやじの生き方につながっている。それは倫理そのものじゃないですか。
トンカツを適当につくり、できるだけ高く売る。人がそれに気づかないでいればいいと思っているのでは倫理にならない。倫理とは、自分をも他人をも、たんなる手段にはしないということでしょう。

それは倫理とはなりえないですね。倫理は人間にしかないものです。動物の世界に倫理はないし、なくても本能の調整機能が働いてうまく群を維持できます。
だから人間は知性でしかお互いの関係を調整できません。しかもその知性は人間の群を維持するためでなく、個人が生きていく能力として機能するわけです。よく、「ここでこんなことしたら、後で損をするな」と考えますよね。そういう見積もりは自分の身を守るためであって、倫理ではありません。
人類という種全体を調節する本能がほぼ消滅してしまっている人間が、この社会を維持するため、どう責任を負うか。そこで倫理は成立します。

簡単ですよ、社会なくしては我々は一日たりとも生きていけないからです。どんな時代でも、社会なしには食べてはいけない。そうである以上、本能をほとんど持たない人間に必要なことは社会の成立の仕方に責任を負うことで、それが倫理です。
動物の世界には流行がなく、人間だけが独特の言語や記号に左右されています。それらは自然から生まれてきたものではない、非自然的なものです。それが現実の、人間が生活するモノの世界に侵入してきてモノを独特に変形させ、心身を右往左往させる。そういうふうに人間社会は予測することの難しい不可解な力の流れで変わるんです。
そういう社会で、本能を持たない人間が知性によって社会をどう維持しようかと考えれば、倫理は「すべきこと」ではない。人間として生存を続けようとするならどうあっても「必要なこと」です。
子どもの頃、現代剣道を学んでいたのですが、大人になってから古流の新陰流に入門したんです。その先生は70歳を過ぎた、よぼよぼの小柄なおじいさんといった風情で、押せば倒れるような感じでした。稽古はいつも型ばかりで、まるでお茶を習っているみたいでした。敏捷さや腕力が一番あった時期だったので内心、「こんなことやっていて強くなるのか」と思っていました。
稽古では、私の構え方が悪いので何度も注意される。それでも直らないので、先生が「それじゃこうされる」と袋竹刀でパシッと私の小手を打つ。それも向こうからスルスルと歩いてきて、ゆっくり打っているように見える。けれど、その打ちが外れない。「これはどういうことなんだろう」と、とても不思議な気がしました。
だんだん習っていくうちに、いままでやってきた現代剣道とは異なる技の世界が見えてきたんです。この目の前の小柄なおじいさんは、そういう常人には及ばない世界を体現しているんだと気づき、ぞくぞくしましたね。そういう喜びはとても強いもので、ブランドや携帯が欲しいという欲望よりはるかに強い。そうした欲求に貫かれて行動することを喜びと感じるのに、大人も子どももないです。

でも、その先生は袋竹刀で僕の手を打つたびに、ポッと顔を赤らめるんです。そういうことをしないとわからせることができないことが、恥ずかしいのですね。そういうのっていいと思いませんか。
その先生やトンカツ屋のおやじに限らず、そうした人が持っている技は、主張する必要がないので隠れていて見えない。世の中の誤りを声高に叫び、ただそうとするのもいいでしょう。けれど、そうした人が、隠れたところに生きている人の存在や黙々と実行されている倫理に気づかないとすれば、世の中は良くはならないでしょう。

若いということは可能性がいっぱいあるということです。けれど、それはトンカツ屋でも医者にもなれるといった、選択肢が豊富だという意味ではない。少し難しい言い方かもしれませんが、まだ存在していないけれども、なにかいずれ実現するかもしれない、そうした内なる力が成長すること、それが若いことの魅力であり、可能性だと思います。
比べて年をとるとはどういう意味かと言えば、これは成熟するということでしょう。論語に「五十にして天命を知る」とありますが、これは「自分が世の中で何をするためにいるのか。何をすることが自分の仕事なのか」をはっきり知ることです。
だからトンカツ屋のおやじは成熟しているのです。自分が何をするために生きているかわかっている。これは若い頃にはなくて、成熟した人間だけが持つ立派さですね。そういうものを信じなくなったら、人間はおしまいかもしれない。

成熟は自分を主張しない。自分がなんなのかがわからない者が主張する。主張してみて、自分を知ろうとしているわけです。成熟した人は黙々と実行する。成熟は黙した技の中にあります。
私なんぞは大学の教師ですから、やっぱり読書が大きいでしょう。でも読書はやり方次第では創造行為となるものです。たとえばデカルトの『方法序説』はすらすら読める内容です。
どうしてこんなにわかりきったことを書いているんだろうと思ってしまう。人によっては、「ああいう時代に成立したから素朴なのだ」と言う。でも、それは違う。デカルトは実に奇妙な人です。何にも頼ることなくすべてを思考し、そのことをけたはずれに率直な言葉で書いたので、あの本はなんだか馬鹿みたいに見えてしまう。そういう内容をできるだけデカルトの身になってくみ取り、生々しく感じること、それは創造ですね。
しかし、世の中には本当の意味で難しい本があります。わざと難しくしているのではなく、難しい問題を扱っているので、必然的に難しい本です。そう多くはないそうした本を読んで欲しいですね。
大学のときスピノザの『エチカ』を読みました。たった1ページの内容でも書いてあることがわからない。でも、人生のいろんな時期に読み返すとわかってくるのです。ものを考える力を鍛える上で、何か本当に難しい本を苦労して読むことは大切です。今わからなくてもいいのです。そのうち読み返す。また読み返す。それは一生の財産になると思います。

Hideki Maeda
前田 英樹
1951年生まれ。立教大学文学部教授。フランス思想専攻。主な著書に『倫理という力』『沈黙するソシュール』など。
【前田 英樹さんの本】

『倫理という力』(講談社現代新書)

『在るものの魅惑』(現代思想社)