

Wahei Tatematsu
立松 和平
小説家。1947年栃木県生れ。70年早稲田大学在学中に『自転車』で第一回早稲田文学新人賞を受賞。卒業後はさまざまな職業を経た後、80年、『遠雷』で野間文芸新人賞受賞。著作多数。最近では、自然環境保護問題に取り組み、積極的に発言している。
立松 和平 さん(作家)
鉛筆と原稿用紙だけを用意し、ものを書いていくことを決めた大学生の頃。アジアへの貧しいけれど心豊かな出会いの旅。テレビでもおなじみのあのあたたかい話し振り。立松和平さんの青春の日々と現在の心静かな心境をお聞きしました。
そうですね。自由な生き方を模索していたんだよね。考えてみれば、いまも旅の途中だね。
いや、ほかでもない安かったからですよ。僕の初めての海外は韓国でした。日本との国交が正常化されてまもなくの頃で、海から見た釜山の風景が印象的でした。戦争の傷跡が残っていたせいでしょう。韓国では金先生という画家と出会いました。親切な人で日本語でこう諭されました。「おまえたちは見たところ危なっかしい。それでは金を取られるから私に預けなさい」。僕はお金を全部預けた。面倒をちゃんとみてくれたけど、結局預けたお金は返してくれなかった。よくわからない人でしたが、楽しい思い出もいっぱいもらった。
当時、沖縄はアメリカの統治下にあったんですね。基地があってドルが使われていた時代です。沖縄から台湾にも行きました。どれも安い切符です。寝るのはだいたい港で、僕はハーバーライトホテルと言ってましたが、まあ野宿です。
それまでの貧乏旅行に比べて思い切った旅といえばタイでした。横浜からマルセイユまでのフランス郵船に乗り、1週間かけ行きました。途中、香港に寄りましたけど、バンコクもそうですが、今は同じところとは思えないほど開発されていますね。
横浜から乗り込んだのはいいですが、大嵐でした。僕の部屋は4人部屋で、揺れで洗面器が転がるんです。ときに体が浮くくらいの揺れもあって、二段ベッドの底に顔がぶつかるくらいでした。
タイではチャオプラヤ河をさかのぼっていったとき見た風景をいまでも覚えています。水と空とが溶け合っているような、それは美しい風景だった。それから飛行機でカンボジアの首都、プノンペンに行きました。生まれて初めての飛行機。どう乗っていいかもわからなかった。

カンボジアは内戦前の平和なころでした。アンコールワットのある町まで定員5名のところを8人くらい詰め込んだ乗り合いタクシーで行きました。アンコールワットはうっそうと繁った熱帯のジャングルの中にある、まあ夢のような美しいところです。その半年後にクーデターが起こり、戦争が始まってしまいました…。 立松和平さんの著書
いやどうでしょう。なにせ高校時代はのんびりした、おおらかなものでした。下駄を履き、なかには裸足で登校したり、窓から出入りするような、そんな学校でした。男子校だったせいか掃除もろくにしないし、体育のトレパンなんか1年くらい引き出しに入れたまんまでしたね。僕は高校では弓道部と写真部に入っていました。教室は汚くても弓道部の道場だけは床を鏡のように磨いていました。
練習は真面目にやりましたが、夏休みにはふざけて、広い校庭で弓を引いて真上に射るようなこともしてました。矢が落ちてくるのをよけるという野蛮な遊びです。僕は目が悪いので、あまり見えない。避け損ねたら頭に刺さりますから、危ない。練習は一生懸命やりましたが、あまりうまくならなかったですね。

日光の観光地に来る人を撮ったりしていて、地方の芸術祭にけっこう入選しました。カメラマンになろうと思い始め、進学は日大芸術学科に行こうかと考えた。ところが、親が悲しそうな顔をするんです。親は戦争を体験しています。生活するとは戦うことだった世代の人です。家族のために働いてきた親を悲しませたくないなと思ったんです。思えば、優しい子どもです(笑)。いまの高校生に聞かせたいですね。
時代は変わるべきだと思ってました。それに参加したいとも思いました。失うものもない学生は自由に考え行動できる。素朴な正義感がありました。写真部に入って表現したいと思ってましたが、学生のデモが街に繰り出すとき、僕はそれを撮るわけです。デモは撮るものではなくて参加するものです。自然、写真部からは足が遠のきました。
文学は、金がかからないんですね。写真はフィルムも現像液もいる。文学は紙と鉛筆だけですむ。一番安いコクヨの緑色の原稿用紙、あれをいまでも使っています。
写真は当時は、傍観者の立場にいることだと考えていました。文学は、言葉は肉体そのものですから、傍観者でいることはできない。それは誰にでもできることですが、だからこそ難しい。

人並みに就職活動し、集英社に受かった。「少年ジャンプ」に配属される予定だったんです。でも、ものを書いて生きたいと思い内定を辞退し、留年しました。
その後、山谷で肉体労働をしました。履歴書もいらない。すぐ働ける、金もいいし、おまけに生活費も安くすむ。なにせ百円で酔っぱらえました。20円で焼き鳥を、30円で焼酎を買い、そこに唐辛子を入れかき混ぜて飲めばカーと酔える。
酔えるけど、それは気持ち悪くなるんですね。まあ2杯も飲めば相当酔います。そういう生活は悲惨だと思われがちだけど、僕にはなぜか未来への希望がありました。
去年はじめて同窓会に行ったんです。同窓生のほとんどはサラリーマン、僕はその中ではドロップアウト組です。みなサラリーマン生活を30年ほどしているわけですが、相当疲れています。産業社会の管理の中で生きているせいでしょうか。まず髪はないか白くなり、腹が出ている。いわゆるオヤジになっている。昔の面影とつながってこない人が多い気がして、「ああ大変だったんだな」と思いますね。
あまり高望みして成功した人ばかりを追いかけることはないでしょう。けれど人生は自分の夢を追いかけたほうがいい。50歳を過ぎたいま本当にそう思います。心深く静かに夢を追いかけたほうがいい。妥協して、みんなと同じ道を歩む。それは後で後悔し、心に澱(おり)として溜まります。
楽な道を行こうと思わず、トボトボでもいいから歩くのがいいです。役人になったり企業に入るのが幸せとは限らない。ただ、なかなかやりたいことが見つからないのが現状です。それを見つける努力が難しい。でも、果て遠い道ですよ、ひとかどの成功をしようと思うのは。
まあ理屈を言えば、山河を守りたいと思っているんですね。例えば、海を守っているのは市民運動ではなく漁師です。時には乱獲もするけど、根底的に守っているのは確かです。漁師が生きられなくなったら海は死ぬ。
昔は大地は森林で、それを切って破壊し、田畑として耕しました。
でも、破壊し尽くすことなく、自然の摂理を守ってきたのは百姓です。それがなくなったとき山河は本当に壊れていく。そんな大きなことを言っても何もならないので、友達といっしょに小さな生産団体を知床で作って、その土地に合った蕎麦などを植えています。
いま足尾で木を植える活動をしています。足尾鉱山から流出した鉱毒と伐採とでこの100年で荒れてしまった山です。表土がないから元に戻すには千年単位の作業になります。
「貧者の一灯」という故事があります。お釈迦様を迎えて国王は金を、金持ちは多くの灯明を寄進した。信仰の篤いある貧しいお婆さんは一灯しか捧げることができなかった。でも、ある日大風が吹いたとき、最後まで消えなかったのはその貧者の灯火だった。僕のしていることは、その貧者の一灯でしかない。心をこめて少しずつ寄進する。木を植えるとはそういうことです。
植樹は今年で6年目ですが、近頃の参加者には若い人が多い。そう思うと、心の中に木を植える運動をしているのかもしれない。こつこつと貧者の一灯を誰が見ようと見まいとやっていきたいですね。

Wahei Tatematsu
立松 和平
小説家。1947年栃木県生れ。70年早稲田大学在学中に『自転車』で第一回早稲田文学新人賞を受賞。卒業後はさまざまな職業を経た後、80年、『遠雷』で野間文芸新人賞受賞。著作多数。最近では、自然環境保護問題に取り組み、積極的に発言している。
【立松 和平さんの本】

『遠雷』(河出文庫)

『知床丸太小屋日記(The new fifties 黄金の濡れ落葉講座)』
(講談社)

『仏弟子ものがたり』(岩波書店)

『ラブミー・テンダー 新庶民烈伝』(文芸春秋)

『恩寵の谷』(河出文庫)