杉田 敦さん(法政大学法学部教授)
民主党が政権をとってから5ヵ月。内政や外交において路線転換が見られ、メディアはその一挙手一投足に賛同したり、批判したりと忙しい。正誤を問うことも必要だが、もう少し広い視野でこの政権を見たとき、いま起きている政治的な変動の意味を理解できるのではないだろうか。政治学者である杉田敦さんに尋ねた。
これまでの自民党政権の弊害を挙げるとすれば、「いろんなものが固定化してしまった」に尽きるかもしれません。
お金の使い方が政策実現を左右します。自民党の政権が長く続いたことで、お金の使い道が固定化してしまいました。
たとえばダム建設です。役所にダム専門の役人が存在するようになり、ダムをつくればつくるほど儲かる仕組みができてしまった。
もちろんすべてのダムが不要だというわけではありませんが、明らかにつくり過ぎています。
自民党政権下では、こういう「ハコモノ」といってコンクリートを使ったダムや空港のような大規模な建造物をたくさんつくりましたが、次第につくること自体に目的を置くようになったのです。
その中で見落とされてきたのが、育児に必要なインフラや病院や学校への支援です。このようなお金、つまり税金の使い方の偏りが経済不況の中で矛盾として明らかになり、国民の不満が高まり、政権交代につながったのだと思います。

そうです。現在(09年12月)のところ、事業仕分けに見られるように、従来ならおおまかに予算をつけていたところを厳しく審査し、無駄を省くことに専念しています。ただし、無駄なお金を削った後で必要なところには、大胆に予算を本当にまわすのか。そこを私たちは見極める必要があります。
マニフェストを人々に示したことで、国民は「それなら安心だ」と考え、政権を交代させた節はあるでしょう。
しかしながら選挙後の世論調査では、マニフェストに書かれたものを「すべて実行せよ」と考える人は意外と少ないことがわかりました。たとえば高速道路の無料化です。
むろん無料化に意義はあります。先ほどの固定化したお金の配分と同じで、従来は高速道路を無限に建設できてしまう構造がありました。
つまり、新しい道路を以前につくった道路の通行料金でまかなうというサイクルで建設してきた。そのため古い道路はいつまで経っても無料化しない。これでは不要な高速道路までつくられてしまいます。無料化には、そういうシステムを抑える意味があります。
また、子ども手当に関しても意見が二分していますから、「すぐにすべての公約を実行しろ」ということではなさそうです。国民は、これまでの政府があまりにも理念を明示しないまま政治を行ってきたことに怒りを覚えていました。だから政権が理念を示すことは歓迎しても、それだけが突出することに慎重なのだと思います。
小泉政権以降、若い人にしわ寄せがいくような形で、経済政策がとられ、所得が抑えられてきました。この背景には、国際競争の高まりがあります。物の値段が下がり、国内の労働賃金が下がってしまった。だから仕方ないということではなく、そういう流れへの対応を誤り、一部の人に大きな矛盾を押し付けることで競争力を高めようとしてしまった。加えて、若い人がわりとおとなしかったことも、政府の無策を誘ったとも言えます。

競争力を高めるという名目のもと賃金が下がる。あるいは雇用が減って行けば、当然人々は不満をもちますし、実際に苦境に陥ります。それに対し、ナショナリズムを煽ることで忘れさせようとする手法を用いた傾向が安倍政権などに見られました。
小泉政権時に自由競争と自己責任、郵政民営化に象徴されるような新自由主義路線が強調されました。
しかしそれだけでは支持されないため、安倍政権に入り、ナショナリズムを全面に出そうとしたものの、やり過ぎてしまった。そこで福田政権が修正し、麻生政権でまたナショナリズム路線に少し戻った。
つまり、自民党政権には、ふたつの路線があります。ひとつは市場と競争を重視する路線で産業界を向いています。もうひとつは安倍政権に代表されるようなナショナリズムの路線。ここ10年、このふたつの間をさまよっていたといえます。
その揺り戻しとしてナショナリズムに手をつけたものの、必ずしもうまくいかなかった。
その理由は、いまや日本の主要な貿易相手は東アジア圏だからです。特にアメリカ以上に中国との関係が深いため、ナショナリズムの高揚策は非現実的な政策であり、それだけで国民は反応しません。うまく争点が見つけられないまま、この前の総選挙で自民党は大敗したといえるでしょう。
市場主義もナショナリズムもあまり極端では、人々はついて来ない。したがって自民党のアイデンティティの確立は難しくなっています。
しかし、実は民主党もアイデンティティがはっきりしているわけではありません。事業仕分けは小泉流のやり方で、市場や企業の発想で役所がやってきた仕事を再編しようとするものです
他方では、もっと生活を重視し、福祉国家的な発想をもつ議員もいます。麻生政権下で生活保護の母子加算を廃止しましたが、さっそく復活させました。最低賃金の引き上げについても議論しているなど、民主党にも市場重視と福祉重視の両面があります。
公務員はほとんど失業の可能性がなく、身分が安定しているため、批判の対象となりやすい。しかし、それだけでは、雇用の不安定な人の溜飲を下げるだけの、いわゆるポピュリズムにもなりかねません。公務員叩きは前政権から行われていますが、本当に無駄な天下りは非難されるべきですが、公務員や役所の役割を全否定することに意味はありません。
既得権を引きはがすことに意味があるとすれば、ある役所で行われていた事業が終わったら、そのぶんのお金を他にまわす。国民の払う税金は変わらずに必要な事業が新しく行われます。
ところが省庁間の縄張り意識や対抗意識から、それができなかった。だからダムや空港が無駄につくられた。そのかぎりでなら、既得権の引きはがしは、いい結果をもたらすかもしれません。

押さえておくべきは、福祉国家や生活重視の路線が、ある種の閉塞状態を招き、偏狭な社会をもたらす危険性もあることです。
福祉国家の実現をバラ色に描く人がいますが、メンバー以外を排除する危険な側面があります。国民のメンバーになれば手厚く遇されますが、無限にメンバーを広げていけば、福祉は実施できないからです。だから北欧諸国もメンバーシップを完全には開放していませんし、政治難民を受け入れていれはしても、貧しい移民の流入は認めていません。
そこで外国人の選挙権の問題についてですが、「小沢さんが票田を増やそうとしているだけだ」と悪く言う人もいます。しかし、反対が多く、リスクが高いにもかかわらず、小沢さんは実行すると明言していますから、たんなる票田として見ているわけではないのは明らかです。
日本における地方参政権の問題は、充実した福祉を目的に流入した移民を対象にしたものではありません。歴史的な経緯があって日本に来ざるを得なかった、あるいは住まざるを得なかった在日韓国・朝鮮や中国人、いわゆるオールドカマーに対するものです。
ニューカマーや短期滞在の人は、また別の問題であり、シチズンシップ(市民権)の範囲を考えた場合、オールドカマーについては、社会のメンバーに含めて考えるべきでしょう。
難しい問題です。シチズンシップは、どういう場合に獲得されるかという議論は、政治学や政治理論でもきちんと展開されていません。
私は「地方参政権はいいが国政はダメだ」という線引きは、論理的に成り立っていないと思います。おそらく、民主党の姿勢は、国政というとみんな反対するから、説得の論理としてさしあたって言っているのでしょう。
哲学者のカントは『永遠平和のために』の中で「歓待を受ける権利」について述べています。つまり迫害されない権利ですが、これはただちに参政権を意味していません。
政治学の中では、カントの思想を継承しながら、難民の権利を考える議論があっても、だいたいは「滞在する権利」までです。ここからさらに進んで、政治的な発言権を当然もつという理論を展開している人はいません。
ところが従来の歴史的な経緯と理由で、そうはなってはいません。しかしながら、在日韓国人だと年間1万人が日本国籍を取得している現状があります。
問題が処理されなかった特殊な事例であり、外国人でありながらも、実態としては、日本社会の構成員になっています。
そういう実態に注目すると、シチズンシップをオールオアナッシングで考えるのではなく、完全にシチズンかどうかはともかくとしても、ある程度はシチズンであるのではないか。それが地方参政権問題という形で表されていると考えています。

マイケル・ウォルツアーという政治理論家は、「すべての人は移民だ」と言いました。たとえば、「日本にずっといる者のみに与えられる権利」を主張する人も、昔にどこかから流れてきた子孫だという見方です。人類学者たちによれば、人類は、みんなアフリカから来たということのようでもありますが。
ただし、ぜんぶ移民だというと、エスキモーやネイティブ・アメリカンといった先住民の権利は否定されてしまいます。先住民の権利を特別に保護するには、「前からいた」という先住性と定住性を根拠にせざるを得ない。
歴史的にユダヤ人は漂泊を余儀なくされてきました。彼らが迫害されないための観点から考えると、「すべての人は移民だ」という議論になります。移動している人を守るためにそれは重要な考えですが、他方で土着性に権利の根拠を置かなくてはならない人もいることも忘れてはなりません。
私は先ほどオールドカマーとニューカマーの間に境界線を引きました。しかし、どこで線をひくかは恣意的なので、論理的に「この線が絶対的に正しい」と言えません。総合的に判断し、考えていくことが必要でしょう。
海外へ行ったり、いろんな土地をあまり旅しないのは、おそらくインターネットの発達と関係していると思います。世界とつながっている気が何となくするから、わざわざ行かなくてもわかる気がしてしまう。グローバル化は確かに進んでいますが、身の回り以外に対する認識が浅くなっていると感じます。
学生たちは、あまり強く国境線を意識していませんが、それがグローバルな意識を育むかというと、いざとなったら案外脆いのではないかと思っています。
日本の国境線の中で日本人は保護されていると思っている。国境の外について、たんに論理的でなく、実感を伴う認識が必要です。そうでないと、いったん何かが起きたとき閉鎖的な考えになる可能性があるからです。
身近な学生に外国人参政権や難民受け入れの話をしても、多くの学生は「いいんじゃないか」ときっと言うでしょう。でも、それは考え抜いた結果ではない。
むしろ、多少はナショナリズムを経由し、「自分たちと彼らは違う」という意識を前提とした上で、しかし、それでもなお共存していく。こういう道筋を歩んだほうが安定した考えを育むことになると思います。
若いときに政治活動したこともなく、原体験といったものは特にありませんが、政治学を勉強しようと思ったのは、物心ついてからずっと自民党政権が続き、大きな変動もない。高度経済成長で対立も明らかにならない。こんなにも閉塞した単調な政治でいいのだろうか?という考えがあったからです。
一見、均衡している秩序には、何かごまかしがあるのではないか。そこに隠されているものを明らかにしていくことに関心をもちました。
だからといって、昨年の政権交代にそれほど大きな感動があったわけでもなく、変化のワンステップだろうと思っています。
日本は政権交代を繰り返す段階に移行したのか。それとも新たな長期政権体制に入ったのか。その見極めがついていません。政治学者としての宿題が一応終わるのは、まだまだ先だと思っています。
[文責・尹雄大 撮影・佐藤類]

Atsushi Sugita
杉田 敦
東京大学法学部卒、現在、法政大学法学部教授。専攻は政治理論。
主な著書に『政治への想像力』(岩波書店)『デモクラシーの論じ方』(ちくま新書)など多数。
【杉田 敦さんの本】

『デモクラシーの論じ方:論争の政治』
(ちくま新書)

『政治への想像力』
(岩波書店)