ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2015-02-08 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
投函した手紙が戻ってきた。“宛先不能”と書いてある。
あたしはあの時もらった宝貝のネックレスを眺めながら「無事でいて欲しいな」と天を見上げた。
「僕はスティーブ。よろしく」
出逢ったのはエリトリアの街中カフェ。
「君は日本? オレはスーダン。でもパスポートはないよ」
あたしはそれ自体がよく理解できなかった。
「祖国から逃げてきたからね、パスポートは持ってないんだよ」
ああ、そうか、と思いながらも、まだよく呑み込めなかった。
「オレが住んでる難民キャンプ、見に来る?」
利発そうな瞳とそこに宿る強そうな意志が印象的なスティーブは、とってもフレンドリーな青年だった。
「バスに乗ればすぐだから、さ」
スティーブの腕がつり革を持った時、長袖がずるずると肩まで落ちた。
(あら?)
腕に無数の切り傷が刻まれている。
「これ……どうしたの?」
「……だから言っただろ? オレは逃げてきたの」
そう言うと、スティーブはニコッと笑った。
政治家を志しレバノンの大学に留学中、突然祖国の警察に拘束された。
理由は“実父の活動”。医者だった父が、南北の分離独立運動に参加しNo.2となっていたことを、その拘置所で初めて知る。
水攻め、むち打ち、ナイフ攻めが続いた。
「部屋はトイレもなくてねえ。オレ1人が横になったそれだけで身動きできないような部屋に閉じ込められていたよ」
とにかく、まずは親父に会って、なんでこんなことになっているのか、話を聞きたい。でないと、すべてに納得ができない。
そして、偶然拘置所を訪れた赤十字の人の手を借りて、一目散に逃走した。
「オレの身分がばれるとまた監獄行きだからさ、農民の格好をして草の根っこを食べながら、裏街道を、まずは1000km、実家の方角に向かって歩いた。実家のあったところはガレキの山になっていて、親父は武器を持って戦っていた。オレは親父を罵倒したよ。正義だかなんだか知んねえけど、オレのささやかな人生をどうしてくれたんだって」
「泣きながら訴えるオレに、親父は冷たくこう言うんだ。お前も政治を志し、少しでも社会をよくしようと思うんだったら、『武器を持って戦え!』と。オレが知っている親父はどこに行っちまったんだ?何が彼をこんなに変えたんだ?と思うと、悔しくてたまらなかった」
もともとスティーブは、“非暴力、非服従”でインドを独立に導いたガンジーに憧れて、政治家を志した。繊細なスティーブは、武器を持つと体に拒絶反応が出て、戦闘に立つことはおろか、訓練もできなかったのだという。
親父に「お前のようなクズは!」と罵られながら、仕方なく銃の代わりにビデオカメラを持って従軍した。
「けれどね、ファインダーが涙で曇って何も見えなくなるんだ。頭がおかしくなると思った。三ヶ月経った時に決めたんだ。オレは親父とは絶縁して、別の道を探る旅に出る、と」
「神がもしいるなら、神はどこかに救いを残しているはず。だからオレはそれを探す。あらゆる方法を端から試して、それでもし本当に最後の一つの道も断たれれば、……その時にこそ、オレも銃を持って戦い、そして自分も死ぬ」
そして無言のまま親父と別れ、そのまま200km、歩いた。国境にケニアの難民キャンプがそこにあると聞いていたから。
が。到着してみたら、住処を追われた人たちで溢れかえっており、スティーブが入れる余地はなかった。
ならば今度は北へ。隣国エチオピアにも難民キャンプがある。
スティーブはパスポートも、お金もない。なんとか600kmあまりを歩ききり、エチオピアのキャンプに到着。けれど、そこにももう空きはなかった。
それでも彼は諦めなかった。さらに1200km歩いたところ、エリトリアにも難民キャンプがあるとの情報を得、そこを目指して歩きに歩いた。
「たまにはビールを分けてくれる人だっているんだ。それで元気をもらい、この難民キャンプに入れてもらったんだ。ここは本当に平和だよ。寝るところも食べるところもある。そうか、もう3年も経つんだな」
「ここの子どもたちに、オレは勉強を教えているんだ。未来を形作るための、勉強だよ。その時間がオレにとっては最高の幸せ。そしてもう一つ、自分の夢だって忘れちゃいない。政治家になるためのチャンスを、ここでじっと待つんだ。分かるだろ? わかるだろ、神は絶望だけで世を覆うなんてことはしない」
あたしが、「これから車で10カ国を越え、南アフリカまで行くんだ」と言うと、スティーブは宝貝のネックレスをくれた。
「別れ際に祖国のおばあちゃんがくれた旅のお守りだよ。僕はここでひとまず大きな旅は終えたから、これはこれから長旅をする君へ託そう」。
旅の中味があまりにも違いすぎる。あたしはちょっと恥ずかしかった。
そして彼と別れて、エリトリアを出国して3日後。
新聞に信じられない文字を見た。
『開戦』
難民キャンプを抱えられるくらいに安定していたエリトリアとエチオピアに、再び戦いの火ぶたが切られた。
これなら、間もなく、難民キャンプも閉鎖されるだろう。スティーブはどこへ?
涙がぼろぼろ出た。
逆車線を走っていく戦車が、絶望を運んでいるように見えた。
戦争が彼を追いかける。
「瀬戸際に立たされたら、オレも武器を持って殺って自分も死ぬ」
彼の言葉が耳の奥でリフレインした。
いつも。戦いの周辺には、何十万、何百万の、“ささやかな日常生活”さえ持てなくなった人たちが生まれてる。
スティーブは星の数ほどのうちの、たった一つ。
ヒトがヒトである以上、戦いがこの世界からなくなることがないとすれば、あたしはその状況を想像すること以外、他に何ができるっていうんだろう。
けれど日本で生まれ育ったあたしには、こうした実際の体験談をスティーブから聞くまでは、想像するための材料さえ、乏し過ぎた。
日本に帰国後、せめてもの気持ちをと思い、スティーブにお便りをしたためた。
けれど、彼宛の封書は、中で小さく折り畳まれたお札もそのままで戻ってきた。
届かなかった便りがあたしの机にしまわれた、数年後。
スティーブのお父さんがNO2だった南スーダンは分離独立、アフリカで54番目の国家になった。
ニュースを聞いた時、思わずTV画面に彼の姿を探した。
世界が絶望から救いに反転するまで、彼は武器を持たずにいられただろうか?
その答えの便りを、あたしは今も待ち続けている。