ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2010-10-29 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
「ネパールではね……」
クリシュナさんのこの言葉に、単純に出産といってもやり方はいろいろなんだなあと感心してはいた。
10日後には新生児も日光浴を始めるとか(日本では一ヶ月)、お母さんは産後3ヶ月は一切の家事労働をしないとか(日本では事実上ムリ)。
けどねえ……。けれど。けれどだよ。
日本とネパールで、家事の方法論が違うがゆえ、家の床が水浸しになる!なんてことを事前に誰が教えてくれたろう?
私が目をまん丸くして立ち尽くしていると、クリシュナさんが「どうしたの?」という顔でこちらを見て明るく笑った。
確か。空気が乾燥しているネパールでは、ホテルでも家でも、たっぷりの水に浸したびっちゃびちゃの雑巾で、床拭きをしてたっけ。
向こうでは、丁寧に四つに折り畳んで雑巾を固くしぼって使うなんてことはなく、水を張ったバケツに雑巾を放り込むと、そのまま四隅の一カ所をつまんで床にばちゃっと落とし、そこから弧を描くような要領で部屋の床の右端と左端を往復するというのが、ネパール流の床拭き。つまり状況としては、浸水した床を雑巾というワイパーが滑るという、車の窓が掃除される感じに似ていた。
湿度が低いネパールではびっちゃびちゃの床もすぐに乾いてしまうのだけれど、クリシュナさんが今作業をしてくれているのは、湿度の高いニッポン。
(うわわわわー。うちがびちょびちょになっちゃったよお!)
なんだか可笑しくなってきた。さあて、次は何が起こるのか?
海の向こうにまで足を運ばなくても、カルチャーショックが自分の家までやってきてくれるなんて、なんという非日常体験!
クリシュナさんは、汗だくになりながら、これ以上の一生懸命はないというくらいに、力を込めて仕事をしてくれている。
そしてその結果が……驚きの第二弾め、“洗剤の使い方”!
とりあえず床拭きを終え、あとは乾くのを待つばかり(半日以上かかりそう)となった彼女が次にしてくれたのは、キッチンの掃除。
こわごわと直視すると……。
ガスレンジの辺り一面が、洗剤の泡でもっこもこ!になっていた(笑)。
(ま、まずい……。そうだった、ネパールじゃ、洗剤は最後に水でちゃんと洗い流すものじゃなく、そのまま放置しておくものだったあ!)
この習慣はネパールに限らず、ヨーロッパでもそう。
お皿を洗剤で洗って、水で洗い流さずにそのまま乾かして再び使っているのを見、かなりびっくりした記憶がある。
既にキッチンまわりは、壁一面、泡だらけになっていた。
クリシュナさんは腕の筋肉をぷるぷる言わせながら、全身全霊で我が家の壁に、洗剤の泡を立てまくってくれている。
それを黙って、あたしは見ていた。
(きっと……このまま、洗い流さないだろうなあ……)
ヤッパリ!!クリシュナさんはそのまま、場所を移動させた醬油やみりんを元の位置に戻し始めた。壁には泡が弾けてできた模様がたくさん(笑)。
真剣な表情で仕事と格闘するクリシュナさんを見れば、あたしは何も言えなかった。いや、彼女の国ではそれが正解なんだから、言えるわけなし(笑)。
「産後のあなたに是非、食べてもらいたいものがあるの。今日は私が料理の腕をふるうわよ!!」
そして、屈託のない彼女が出してくれたのが、魚のスープだった。
スパイスで真っ赤に染まったスープは、厚さ数ミリの油の層で覆われていた。
「おいしいわよお!!」
にっこり笑う彼女を前に、スプーンを握る。
(うっわあ……か、辛いーっ)
けれど、率直にそうとは言えないのが、相手を気遣うニッポンジン(笑)。
クリシュナさんはなおも、今度は2歳の長女に勧めてくれた。
「アナタも、コレ、食べてクダサーイ!エイヨウ、アリマス!」
「?」
首を傾げていた2歳児も、クリシュナさんの笑顔にのせられて思わずパクッ。
その瞬間に泣き出した。それも遠慮などまるでない、号泣。
「カ・ラ・イーッッッッッ!!」
日本の育児本には(私はほとんど見ないのだけれど)、産後の母乳のためにも、子供にも、辛いものは控えるようにと書いてある。
いやきっと、でもネパールでは何十年、何百年と、この飛び上がるくらいに辛い料理を、お母さんの乳幼児も食べ続けてきたはずなのだ。
きっと、彼らからすれば、納豆なんてあんな腐ったものをお母さん+乳幼児が食べるなんて、それこそ狂っていると思うに違いない、わけだし、なあ……。
すっかりネパール色で染められつつある私の家に居心地も良くなったのか、クリシュナさんはすっかりリラックスムード。
床も壁の洗剤も、なんとか乾いた頃に、ぽつりと彼女は言った。
「ところで。赤ちゃん産まれてからもうすでに、油は何回か塗ったでしょ?」
「? (あ、油?)」
ネパールには、健康のために全身に油を塗って日光浴をするという習慣がある。
もしかして、あれを指してるってこと? 私は首を横に振った。
「ううん、やってないよ」
すると、クリシュナさんは突然顔を曇らせた。
「えーっっっ!信じられない、だめよー!!病気になるわよ!」
彼女曰く、赤ちゃんにもお母さんにもそれは必要な作業であり、特に赤ちゃんは頭蓋骨がまだ開いている時に特にそこにたっぷりの油を塗って、脳内に染み込ませなくちゃあいかんのです!と(笑)。
「とりあえず私がやってあげるから……何の油がある?」
これこそ、ネパールで何百年も続く家庭の医学、よし受け入れよう。
「ゴ、ゴマ油だったら、キッチンに……」
クリシュナさんは、とりあえず、私と新生児を裸にした。そしてゴマ油をたっぷり手に取り、二人の全身に塗ってくれ始めた。
ぬるぬる。ぬるぬる。(気持ち悪いよお!)
そして始まったマッサージ。
ぐいんぐいん、ぎゅおーん!ぐにゃっ、ぎゅっ、ぐいっ!
声も出ないくらいのワイルドさ。
クリシュナさん、雑巾は絞らないのに、ヒトの肉は絞りまくる(笑)。
荒削りな大サービスは私の五臓六腑に染み渡り、衝撃に目の球が飛び出そう。
特にお腹付近に関しては、ヒトの肉を扱っているとは思えないくらいに、徹底的に絞り上げ、私の全身の肉は、まるで無抵抗なパン生地。
挙げ句の果てには、頭部にもたっぷりのゴマ油。
ぬるぬるになったところに髪の毛がまとわりつき、それをさらにクリシュナさんがぐちゃぐちゃとかき混ぜる。一分一秒でも早く終わりたい。が。
(これがネパールで何十年、何百年と続いてきた伝統なのだあ……)
クリシュナさんは、自分が他人の役に立てたことを心底喜んでいるようだった。
「これがねえ、産後の体力回復に一番なのよ、ほんと!」
すべての仕事を終えてクリシュナさんが家路についた時。
うちはスパイスの匂いとゴマ油のぬるぬると洗剤の粉とで、すっかりいつもと違う雰囲気になっていた。
ふとお腹を見る。
産後、体型が戻りきらず部分的にぽこっと出ていたお腹が、徹底的にマッサージで肉移動(?)させられたせいで、全体的になだらか曲線になったような。
(うん、これこそ、効果があるネパールの民間療法のはずなのだ)
べとべとになった体をシャワーで洗い、壁の洗剤を拭き取り直し、「お金払ってなんか余計な仕事を増やした気がするなあ……なんでだあ? 笑」と一人でぶつぶつと呟き。
なにげなくベランダを見たら。そこには最後のわくわく驚き珍光景が。
四角い洗濯ハンガー、通常は衣類の両端を挟んで干すだろうところが、そこには新しい使い方が……(笑)。
なんと洗濯バサミ一個に対し、一つの衣類が、落下傘状につまみ上げられて、干されていた。つまり、衣類がすべてしわくちゃの棒状になって、ハサミの数の分、ハンガーにぶら下がっていた!(笑)
所変われば品変わる。
場所はニッポン。だけど自分のおウチにネパールがやってきた、小さな冒険。
クリシュナさんには次、またいつ来てもらおうか。
あたしはちょっと舌を出しながら、にやついている。