ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2006-01-13 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
あたしが大学生の時、同じ敷地内に暮らしていたおじいちゃんとヒロちゃんが重なった。
頑固一徹で、孫であるあたしにもあんまり笑顔を見せなかったおじいちゃんが、ある頃から体も弱くなり床に臥すようになった。あたしは大学帰りに時々そんなおじいちゃんの隣に黙って座っていたのだけれど、ある日、テレビのブラウン管に子犬がころころと走り回っている様子が映ったのを見て、突然それまで固くしていた表情を崩し、「カワイイなあ……」と子供のように目を細めたことがあった。
なぜだかその時、体中に鳥肌が立った。
あの、ただただコワかったおじいちゃんが、あんなに綿毛のように柔らかな表情を見せるなんて……と、なぜかその瞬間涙が溢れそうになったのを、今でも鮮明に覚えている。
同じ敷地で、同じ場所で、血は血をつないでいる。
ヒロちゃんはうれしそうにぼーっと部屋の明かりを見やった後、急にイタズラっぽい表情をした。
「カフェに鎮座まします、かあ……」
「そうだよ、あの柱の間に、黙って座っててもらえばいいんだ。予約制がいいかな」
あたしは話を盛り上げた。
「けど。どうする?」
「ん?」
ヒロちゃんは、鼻水がびゅーんと垂れた顔を、こちらにぐーんと近づけた。
「近所の教会のお客さんが、全部うちに来ちゃうかもよ」
(……は?)
この人の発想には“枠”のようなものがまるでなかったから、そんな環境で育ってしまったあたしとしては、社会に出てからなんて家で受けた教育と社会との間のズレに苦労したわけだが、今となってはそんなにおめでたい発想の中で自由に泳がせてもらったことに感謝はあれ、嫌悪はどこにもなかった。
ヒロちゃんは空っぽのグラスを見つめながら、含み笑いをした。そしても一度言った。
「教会に通っている人達が、“ヒロちゃんのお悩み相談室”にぞろぞろと来ちゃったりして」
あたしが首を傾げると、いきなり「なーんちゃって!」とヒロちゃんは歯並びの悪い歯を見せて笑った。
そもそも。
今日なんで、そんな親子水入らずの夕食をひさしぶりに取ることになったのか。
それはヒロちゃんが「ちょいとしとかなければならない話がある」とファイルを持って来たからだった。
あたしは父と敷地は一緒だが、家は別という状態で暮らしている。
仕事が忙しいあたしは、ごくたまに時間がある時にしかご飯を一緒にすることができない。
もちろんその分、最近は旅行へ一緒に行ったりとか、父と父の彼女に沖縄旅行をプレゼントしたりとか、長かった反抗期の分だけ、それを短期間で取り戻すようなことをしているわけだけれど、日々、次から次へと迫ってくる締め切り原稿に追われるあたしとしては、たまに自分で作ったご飯を隣棟の父の台所に置いてくるというのが、せめてものできることだった。
そんな父が、「たまにはご飯を一緒に食べよう」と、今日は珍しく父からの誘いだった。
夕食を食べ終わった。
「おいしいご飯に感謝しまーす!」
ヒロちゃんは時々神様と会話をする癖があるのだけれど、今晩もご飯を食べ終わった後に神様と交信した。
「で。これ、お前に言っておかなくちゃいけないからな」
ヒロちゃんは机の脇に置いておいたファイルを広げた。
神経質なくらい整理好きなヒロちゃんのファイルのタイトルには、ミミズが斜めに引っ張られたようなお決まりの癖字で“葬儀資料一式”とあった。
「ボクもこの年だから、いつなんどき何が起こってもおかしくないからな」
ヒロちゃんは昔から“予定先取り系”の人であった。
大学生のある日、たまたま父の書斎に入って驚いたことがあった。
そこには、死ぬまでの予定表が立てられた計画表が貼ってあった。
『もうダメだとという時に、ボクがこよなく愛した八ヶ岳の天辺に担架で体を運んでもらい、そしてじめじめした音楽じゃなく、華々しい第九をかけてもらってボクの魂はひょろひょろと天へと飛んで行く』という類いのものだった。
だから今更、この手の提案は全く驚きはしないのだけれど、ここのところもともとない髪の毛がさらになくなった姿に、それが想像できないくらいに遠い日のことではないんだということを、ちらりと自覚した。
計画魔のヒロちゃんが書き綴った紙には、電話番号と番号がふられた作業の手順がピシリッと書かれていた。
「これ、宜しく頼むよ。まずこの1番。葬儀屋さんにはもう話をつけてあるから、この○○さんに電話をすること。そして次に親族、な。2番の○○さんから6番の○○さんまでに連絡すれば、親族にはとりあえず伝わる。そして次にボクの中学時代の同級生の○○くん。彼に電話すれば全て末端まで連絡してもらえる。それから高校は○○くん、大学は○○くんが代表。それから仕事時代の……」
驚いたことに、NO20番にまで連絡をすれば、ヒロちゃんの人生で知り合ったほぼほとんどの人に一応連絡がつく段取りが組まれていた。
この用意周到さに驚かされはするも、あたしは頭の別の部分で違うことを考えていた。
(日本の縦社会システムって、実はかなり合理的だったのねえ……)
そしてあたしはヒロちゃんに呟いた。
「こりゃ、お父さんの葬式に比べて、あたしの葬式はめちゃ大変だな」
なぜって。あたしは組織の中で働いていないから、どこどこの誰々に連絡すればそこから三角形に全て伝わるという方法を持っていない。
今までに知り合った人は仕事を通じての人もいれば、喫茶店で隣になったからという人もいれば、旅先で偶然宿が同じだったからという人もいて、トップダウンで通じるような構造に全くなっていない。
「あたしの葬式は、20人に連絡すれば済むって風にならないよ。300人くらいに個別に電話しなきゃいけないって具合になっているから、葬儀を執り行ってくれる人が大変だ」
「それはなあ、ちゃんと後に残された人のことを考えて、連絡網でも作っておいた方がいいよ」
連絡網?さすがはヒロちゃんの発想だった。
そしてヒロちゃんは、ちゃきちゃきと話を進めた。
遺言書はどこそこに入れておいた。そして葬儀に必要な資金はここに入っている。あとは葬儀屋さんがやってくれるから、お前は葬儀屋さんの言う通りにしていればいい。簡単にできるように、全部まとめておいたよ。
「ふーん」
あたしは社内の事務伝達を聞くかのように、軽く流した。
「いやあ、それにしても、この用意周到さには笑っちゃうよ」
そしてあたしはあえて、声をあげてけたたましく笑い転げた。
ヒロちゃんも、一緒になって「スゴイだろう?」と、そのファイルを自慢げにあたしに振りかざした。
「あ。それとね」
「なに?」
「葬儀に使う写真のことなんだけどな……一枚背広来て結構かっこよく撮れているヤツがどっかへ行っちゃって、一生懸命探したんだけど出てこないんだよ。今度美紀(妹)が帰ってきた時、きいておいてくれるか?」
あたしはファイルの中に織り込まれていた封筒を開けた。
表には葬儀用写真と書かれていた。
「キャハハハハ!」
封筒に手を突っ込むと、いつかあたしが友達のカメラマンの人に、自作したばかりの家で記念写真したカッコイイ写真がきれいに折り畳まれて入っていた。
(カメラマンがその写真を撮った後、『ここに映っているお父さん、すごくかっこいいですよ』だなんて言っていたから、きっと調子に乗って大切に隠し持っていたんだな……笑っちゃうよなあ)
笑ったあたしをさらに楽しませるように、ヒロちゃんは言った。
「あと数枚、いろいろ選んで入れておいたから、お前が見て一番見栄えがいいと思うやつを使ってくれ」
用意周到、予定先取りのヒロちゃんは、自分の葬儀のことについても全て、自分で段取りを組んでいた。
あたしはお腹を抱えて笑った。
胸にこみあげるなにかに気付かないようにして、近所にも聞こえるような声で笑った。
外の寒さにこたえたらしいネコが静かにガラス戸をあけて入ってきて、ヒロちゃんの横に座り込んだ。
「さて。これでもう、伝達することは何一つない、な」
「へんなの。しかし漫画みたいに可笑しい予定魔だねえ。これで大丈夫と自分がどれだけ思っていても、人生は予期せぬことが必ず起こるもんだよーっだ。ばーっかっ!」
ネコがちろりとヒロちゃんを見上げた。
あたしは今日できることを今日やって、毎日を過ごすだけ。
そして。
時間は確実に流れている。