ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2005-07-01 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
生まれて初めての父子海外旅行。
父はこれまでリゾートホテルで日本食ビュッフェを食べるツアーにしか参加したことのない人。
アジアを個人旅行だなんて、私が一緒に行かなければ、おそらく一生縁のない旅行だった。
「……まだ荷物が出てこんのかね?……」
父は怪訝な顔で呟いた。「いったい。南国の空港の係官は眠りながら仕事をしているんではないのかね?」
せっかちな父は30分たっても荷物が出て来ないボルネオの空港のターンテーブルの前でへなへなと座り込んだ。
日本の高度成長期。過労死する人まで出した時代と共にきた父には、のんびり何かを待つ、途中経過そのものを楽しむという発想がまるでないらしい。
ポケットに手を突っ込んでみたり。することのなさに、トイレへ何度も行ってみたり。
いよいよ荷物が出て来た時には、父はもう待ちくたびれて、空港の隅っこに座り込んで自分の方が眠っていた。
空港には、現在ボルネオに暮らしているあたしのオーストラリア人の友達・ステファンと、彼の女友達ジョアナが迎えにきてくれていた。
ステファンは、7年くらい前にあたしがフィリピンのパラワン島で出逢った人。
話してみたら、偶然にも八王子のあたしの家から5分のところに住んでいたことが発覚し、即座に意気投合。
それから5年くらいはご近所倶楽部としてよく遊んでいたのだけれど、2年程前にステファンがボルネオへ移住。
そんな彼を今回、父付きで訪ねてみることにしたのだった。
フィリピンで出逢い、八王子でご近所友達になり、マレーシアで再会。
「荷物がなかなか出て来なくてボルネオはなんてとこだろうと思ったが、よく知ってるステファンにこうして会えると、急にボルネオが自分のものになったような気がするのが不思議だね」
ねっとりと体にまとわりつくような熱帯の空気。
湿気に弱い父は、息を荒くした。
空を厚い雲が覆う。
……と。大粒の雨が空から落ちて来た。
「おう!これが熱帯の雨、か……。バケツをひっくり返したみたいな雨、だな……」
父はまるで初めて車に乗る子供のように、顔を窓ガラスに張り付けた。
「おいおい、おいおい。こっちの人はこんな雨なのに、傘ささないんですか?」
ステファンが笑いながら答えた。「雨もこのくらい降ってると、気持ちいいよ」。
乗せたジョアナの車が、道路を“泳ぐ”。こんな雨は平座のへの字よといった面持ちのジョアナ。
父は初めてのアジアにいささか面食らったような表情を見せながら、黙りこくった。
「バクテー、食べに行こう」
バクテーとは、マレーシアの薬草汁の鍋物といったところ。
お店の人が突然のスコールに、ビニール屋根に溜まった水を叩いて落とすと、父は慌てて飛び退いた。
街でも人気のバクテー屋さんは、賑わいに賑わっていた。
鍋にはどす黒いスープが注ぎ込まれる。
父はぼそりと呟いた。「なんだか戦後のヤミ市に連れてこられたみたいだなあ……」
お給仕の女の子がニッコリ笑って鍋と取り皿を置いて行くと、父はマジメな顔でジョアナに尋ねる。
「マレーシアでは、なんで、取り皿にこんな派手な色のプラスチックを使っているんですか?」
ジョアナはしれっと笑いながら答えた。
「プラスチックは安いからですよー」
再び屈託のない笑顔を浮かべるお店の女の子が、父の肩を叩く。
すると父は口を一文字に結んで体を固くした。
「ジョアナさん、なんで、彼女達はこんなにボクに近付いてくるんですか?」
ジョアナは笑いを堪えて言う。
「なぜって、アジアはフレンドリーだから、ですよー」
真っ赤なお椀に入れられた、泥汁のような色のバクテー。
父は、唐突に「バク、バク、バクテー……」とうつろな目をして口ずさんだ。
おでんの具のような食べ物をおそるおそる口に運ぶ。
「んー……まずくはないですね……。にしても。このお店は蜂の巣つついたような騒々しさですね」
「アジアはどこでもそうですよー。賑やか、なんですよー」とジョアナ。
目を白黒させながら、バクテーとアジアの喧噪を生まれて初めて味わった夜。
父の視点は定まっていなかった。あまりにも経験したことのない宇宙に、現実感が吹っ飛んでしまったのか。
ステファンが予約しておいてくれたホテルは、一人一泊1000円の宿。
荷物を運んでくれたスタッフのお兄さんに、父はチップを払おうとした。
「お父さんっ。こういう安宿ではチップは必要ないの!」
気のいいお兄さんは、部屋の隅々まで案内した後、べらべらといろんなことを話しかけてきた。
父はまた、体を固くし、疑うような目つきでお兄さんを見た。
「おいおい、随分日本と違うんだなあ。あんなに話しかけられると、逆に変な人なんじゃないかと思って警戒しちゃうよ」
「もうっ、それが“アジア”というものなの。アジアでは日本よりぐっと人と人との距離が近いのよ」
部屋では旧式のエアコンがグワーングワーンと派手な音を立てて動いていた。
父はベッドに倒れ込んだ。「なんだかわけのわからない世界にいきなり連れてこられたみたいで疲れたよ」
エアコンの温度を調節しようと思ったらしく、つまみをいじろうとしたら、五段階しか温度調整ができない。
「おい、どうしてエアコンの温度設定ができないんだ?」
「五段階しか温度調節ができないエアコンが置いてあるホテルに泊まったからよっ」
どこまでも日本の感覚を持ち込もうとする父に苛立つ娘に申し訳ないと思ったのか、父はしょんぼりしてシャワールームの扉を開けた。
ガターンッッ!!
扉が丸ごと取れた。
「おーい、今度は扉が丸ごと取れちゃったぞ。なんで?」
「……だからぁ。扉が取れるようなホテルだからよっ!」
あー。うー。父は強すぎるエアコンで冷えきった部屋で、シーツを体に巻き付けながら苦悩した。
父は戦後の苦しい時代の日本を知っている世代だから、アジアもきっと大丈夫だろうと思ったのは、あたしの早とちりだったか……。
やっぱり既に知ってしまった贅沢からレベルを落とすことってできないのかなあ。
おんぼろアジアは、それはそれで良さがたくさんあるのになあ。あたしはそれをこの旅で伝えられるのかなあ。
隣の部屋の人が鼻をかむ音さえ聞こえてくる部屋のベッドに横たわりながら、あたしは旅の行く末を案じていた。
(次回に続く)