ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2004-12-03 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
滞在5日目くらいから、やっと周囲にあるいろんなものが冷静に目に入ってくるようになってきた。
あたしが今滞在しているルーマニア・トランシルバニア地方のポエニーツァ村は、人口10人の過疎の村。
しんしんと雪が降る中を、赤や茶色の小鳥達が飛んでくる。
時折聞こえてくる鈴の音は、降り積もる雪に足跡をつけていく村の馬車。
築100年が経過し、ところどころ禿げた壁から煉瓦が顔を出す教会の前には、石像のマリアが置かれている。
頭にスカーフを巻いたおばあちゃんが、白い息を吐きながら行く先にあるのは、村の共同水場。
マリア像の前を通る時、おばあちゃんは背を丸めたまま、胸の前で静かに十字を切る。
それぞれ、手作りで作られた家は、各家族の個性を反映し、可愛らしくピンクや緑色。
お花の模様が描かれたり、シカの頭が飾られたり。
屋根から突き出した煙突からは、家を温めるもくもくの煙が上がり、それが屋根の雪を溶かして行く。
これまでたくさんの家族を育てて来た村は、一人、そしてまた一人と若者達が街へ出て行った。
100年前は、近隣の村から農作業の出稼ぎ者で溢れていたというポエニーツァは、そして10人の村になった。
あたしがお世話になっているジェニカおばあちゃんの家は、ネコ一匹とニワトリ10羽とガチョウ3羽が住人
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澄んだ空に輝く月は、たとえ三日月でも辺りの山々を明るく照らし出す。
懐中電灯は要らない明るさが、夜のポエニーツァの家々をロマンチックに映し出す。
ニワトリの声が朝を告げた時、それぞれの家の屋根瓦に下がった氷柱が朝日に光り始める。
そこにあるのは、風の音と、羊の鳴き声、そしてサクサク……と誰かが雪を踏みしめる音。
あとは何もない、山間の静寂に包まれたポエニーツァ村。
このまま過疎化の一方だと思われた村が、思いもよらず、外国からの新しい住人を迎えることになった。
それがあたしの友人のオーストリア人&日本人のカップル、ステファン夫妻。
そして今、村は12人になった。
童話の世界をそのまま現実にしたような村は、ちょっぴり活気を取り戻した。
ステファン夫妻がここに暮らすことになって、村は史上初めて車を持つことになった。
彼らがよそ者とはいえ、平均年齢75才の村にそれから3,40才も若い人を住人に持つことになるとは、村人はよっぽど嬉しかったらしい。
あたしがこの村にやってきた日も、隣家のメディアおばあちゃんが『歓迎の意味を込めて』と、生きていたニワトリ一羽をさばいて持って来た。
これまで、街でしか買えないものがあると、まずここから30分ほどの隣村まで馬車を走らせ、そこの車を持っている人に、街から薬などを買ってきてもらうように頼んでいた。
が、ステファン夫妻がここに入ったことで、それも必要なくなった。
昨日の朝も、メディアおばあちゃんが恥ずかしそうにステファン宅にやってきた。
「あの……塩を1kg、買ってきて欲しいの。もちろんガソリン代はちゃんとお支払いするので……」
ここのジェニカおばあさんも、体力的にパンを自分で作れなくなってからは、パンが手に入らない時は麺類やらママリガと呼ばれるとうもろこしの粉をひいたものを食べて、毎日を過ごしていた。
が、それも、ステファン夫妻がいれば、新鮮なパンを街から買ってきてもらえる!と大喜び。
村のおじいちゃん、おばあちゃん達は、ステファンが車のエンジンをかけると、
『これを街で暮らすうちの息子に持って行ってあげて』と、自分たちが手作りしたジャムの瓶詰めやジャガイモなどをステファンに手渡す。
たまに息子さんや娘さん達が村に戻ってくるのだけれど、なににせよ、自分たちより若い世代が常時村にいるというのは、この上なく頼りになるものらしい。
ジェニカおばあちゃんは、昨年の冬、生まれて初めてスーパーマーケットという場所へ行った。
おばあちゃんにとって、スーパーは夢のワンダーランドだった。
「とっても面白かったわ。また行ってみたいわ!」
自給自足のおばあちゃんの年金では、スーパーに並んでいる品々は値段的にとても手が出ない。
けれど、いろんなモノがずらりと並んでいるのは、見ているだけでもとっても楽しかった、と。
そして。
ステファン宅にはこの冬、村で初めてのシャワーが完備されることになっている。
村人達の今の関心事は、このシャワー。
今までは、大鍋を薪ストーブにくべて、そのお湯で体を拭いていただけだったのだけれど、ステファン宅にシャワーがつくとなれば、寒い冬にも思いっきり体にお湯を浴びることができる。
ジェニカおばあちゃん手作りの“ママリガ”。とうもろこしの粉にお湯をまぜてこねたものが伝統料理
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ステファン夫妻も村人達の期待を予想して、今から週一回の無料開放日を作ることを計画している。
こうして、ステファン夫妻は、徐々に徐々に村に溶け込んでいったのだった。
ジェニカおばあちゃん宅の一室に住まわせてもらっているあたしは、まるで赤ちゃんのように扱われている。
ルーマニア語はラテン系なので、スペイン語と若干似ている単語もあるのだけれど、それも両手に数える程度だから、あたしはほとんどおばあちゃんが必死になって喋っていることの内容がわからない。
だから、とりあえずアイコンタクトでニッコリ笑いながら頷き合い、お互いに全く別々のことを考えながら、それでも互いに納得しているという不思議な関係。
ジェスチャーだけの、お互いにまるで噛み合ない会話を繰り返しているのだけれど、とりあえず生活させてもらうに支障のあることは今のところ感じていない。
バケツが空になれば、あたしは共同水汲み場へ行き、薪がなくなったなと思えば、納屋へ行く。
ジェニカおばあちゃんちで流れている時間は、どこか懐かしい。
あたしが凍るような寒さの外から戻ると、おばあちゃんはまずあたしの手を握り、手が冷たくなっていないかどうかを確認する。
そしておばあちゃんは、雪がついた髪に手を伸ばし、それを払う。
次に『外はさぞかし寒かったでしょう』とあたしの背中をゆっくりとさする。
そして夜になれば、ベッドの毛布を薪暖炉に乗せて温め、少しでも寒くないようにとお手製のジャケットを着せてくれるという状態。
世話焼きおばあちゃんは、一人暮らしになってから、世話をやく人がいなくなってちょっぴり淋しかったのかもしれない。
さすがにあたしが滞在して5日目、珍客のために張り切り過ぎたのか、ソファの上でうたた寝をしていた。
そしてあたしは、いつもおばあちゃんがしてくれるように、毛布をそっとおばあちゃんの上にかけた。
古い古い教会の前にぽつんと置かれたマリア像。おそらくこれも150年くらいは経っているんじゃないかな
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今朝。ちょっとした事件が起きた。
ジェニカおばあちゃんといつも仲良しのメディアおばあちゃんが、うつむきながら家に入って来た。
一つお願いごとがあると言って。
あたしは今週の土曜か日曜日にオーストリアのウィーンまでステファン夫妻の車で戻り、そこから日本へ戻る。
「で、車はいつ、この村からいなくなっちゃうの?」
車がいなくなる。それはこの村にとっては今や大事件だった。
メディアおばあちゃんは、切ない目をして、真剣な表情でそのお願いごとをステファンの奥さんに伝えた。
「あの……お医者さんのところへ行かなくちゃいけないんだけど……」
ルーマニア語はところどころ単語しかわからないあたしは、メディアおばあちゃんがお医者さんへ行かなくてはいけない、そのために車で運んで欲しいと言っているんだとばかり思った。
「あの……ブタ、なんだけど……」
メディアおばあちゃんは、今にも泣きそうだった。
ステファンの奥さんによると、ルーマニアの村ではクリスマスの時、家フブタなどを解体して、家族総出でお祝いをする。おじいちゃん、おばあちゃんしかいなくなったこの村でも、クリスマスだけは特別だった。
けれど。ブタを解体しても、この村にはネズミや雑菌を運ぶ小動物がたくさんいるから、そのブタ肉が食べられるブタ肉かどうか、検査医に検査をしてもらわねばならないということだった。
メディアおばあちゃんの家には、
病身のおじいちゃんがいる。
なんとかクリスマスにそのブタ肉をおじいちゃんにも食べさせたい。
「だから、どうかお願いだから、解体後のブタ肉の一部を隣町のお医者さんまで運んで欲しいの……」
お医者さんはある程度人口のある村はクリスマス前に巡回するらしいのだけれど、このポエニーツァまではどうやら来てもらえないらしかった。
「ガソリン代もお支払いするし、豚肉もお裾分けするし、かかるものはなんでも私が出すから、なんとか検査医のところまでブタ肉を持って行ってもらいたいの……。だって……クリスマス、だもの……」
ステファンの奥さんは、なんとかできるように調整をするとおばあちゃんと約束をした。
メディアおばあちゃんはついに泣き始めた。
哀しくて、ではなくて、隣人が検査のためのブタ肉を車で隣町まで持って行ってくれることへの、うれし泣き。
ありがとう、ありがとう!とおばあちゃんはステファンの奥さんの手を取って嬉しそうに泣いた。
娯楽のなにもない村は、自然が娯楽。雪ボウシをかぶった草木が、これまた可愛らしいのだ
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ポエニーツァは、おじいちゃん、おばあちゃん達が、独立独歩で、捨て身で生きている村。
高齢の人々が、一日一日をイザという覚悟をしながら生きている。
弱腰になったって、誰も助けちゃくれない。
しわくちゃのおばあちゃん達の背中には精一杯のプライドが感じられた。それは本当にスゴイ迫力だった。
(こんなバアちゃん達を前にしちゃあ、あたしはとても『疲れた』なんて言葉は吐けないなあ……)
そしてまた今晩も。
あたしは薪ストーブで温かくしてもらった部屋の窓から、しんしんと降り続ける雪を見ていた。