ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2004-11-26 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
私は今、東ヨーロッパはルーマニアの小さな村にいる。
村の名前は、ポエニーツァ。現地語で大草原の小さな地区という意味。
村の人口は10人。平均年齢は75才。80代のおばあちゃん達がうち4人。
電気は通っているけれど、水道はないから、村の共同水場から毎朝バケツで水を汲んでくる。
ガスもないから、薪を焚く暮らし。
電話は村で一個の電話をみんなで共用で使っている。
店はなし。村には車もなし。
その代わりに、人々はほぼ完全自給自足。お店で買わなければいけないものがある時には、村に二台だけある馬車を貸してもらって、片道約2〜3時間かけて街へ出かけて行く。
社会との接点は、ラジオとテレビと、週に一回この村へ街からやってくる牧師さんだけ。
ほとんど孤立しているかのような村は、それでもこれまで100年以上も続いた村。
グリム童話からそのまま抜け出して来たかのような、可愛らしい家々と、民族衣装に長靴履きで頬かむりをして雪の中を歩いて行くおばあちゃん達は、あたしにとって現実感がまるでなかった。
ポエニーツァ村の家は、そのほとんどがおよそ100年前に建てられたもの。煉瓦作りの家の外側は思い思いのペイントが施されている。
↑Click
ここは、100年前のヨーロッパが今に生きる村。
1800年代の終わりから1900年代の一桁台にかけて作られた家々に、代々この周辺で生まれ育った人々が高齢になって、ここに暮らし続けている。
これからが本格的な冬。昨晩から降り続いていた雪が村を覆い、気温はついに氷点下になった。
東京の分刻みの暮らしから、100年前のヨーロッパへひとっ飛び。
あたしは最初の3日間、体がこの変化についていかなかった。
だって。
あたしが今いるジェニカおばあさんの家は、夜トイレに行こうと思ったら、ダウンジャケットを着直して、雪の中をトイレのある場所まで30mほど歩かなくてはならないんですもの。
ジェニカおばあさんは、にっこり笑いながら、プラスチックのバケツを用意してくれた。
「夜は部屋で、ここにトイレをすればいいわ」
ストーブも自動温度調節機能なんてあるわけがないから、しょっちゅう薪が適切に燃えているかどうかを確認していなくちゃいけない。その薪だって、燃え尽きる度におばあさんは外の納屋まで取りにいく。
そして水道がないということは、お風呂
やシャワーの類いはないということ。
だから、共同水汲み場から汲んで来た水を、大鍋の中に入れてお湯をわかし、それで体を拭く。
朝になれば、うっすら積もった雪で真っ白になった畑にニワトリを離し、薪で火を起こし、とうもろこしの粉をひき、乾燥させたハーブを納屋からとってきてお茶を作り……。
75才のジェニカおばあさんの体は決して休まない。
というか。おばあさんがじっとしている、またはボーッとしているのを、見たことがない。
都会暮らしの75才よりも格段に元気のようにも見える。
くるくると動き回るジェニカおばあさんの脇で、訪問客のあたしの方が三日でへばった。
おばさんが普段使っているベッドをあけて寝かせてもらったというのに。
日中も2度までしか上がらない気温が、相当体に応えた。
夜から朝にかけては氷点下。太陽は8時頃にやっと顔を出し、16時には引っ込んでしまうというヨーロッパの冬。
東京から持って来た仕事もここでも継続的にやらなくちゃいけないんだけれど、まずこのルーマニアの田舎環境で日々を生きて活動するというところでつまづいたあたしは、
パソコンを開く気にもなれず、というよりも、あまりの生活の温度差にパソコンが無用の長物のように思え、なにをどこからどう始めていいのか、普段のペースが完全に乱れてしまった。
東京で快適便利な暮らしをしていたあたしは、75才のおばあさんに全くついていけなかったのだった。
今お世話になっているジェニカおばあさん宅のソバと呼ばれる薪ストーブは、コンロと暖房器具の両方の役割を果たす優れもの。樹齢20年ほどの木を薪にして惜しげもなく使っているのを見た時には、本当にびっくり。日本だったらそんな木は今は家の柱材にこそなれ、薪には決してならないから。
↑Click
なぜ、こんなところにやってくることになったのか。
それは実にひょんなきっかけだった。
長年、大陸横断バスを一緒にやっていたあたしのオーストリア人の親友ステファンが、旅行中に知り合った日本女性と結婚をし、ルーマニアに移り住むことを決め、このポエニーツァという村に家と農園用の土地を購入した。
『いいところだから一度来てみないか? 電気も通っているから由紀の仕事にも困らないだろうし』
彼は移り住むと同時に、ここで栗農園を始めることを、数年前に決意したんだ、と。
『日本の栗は良質だから、種栗を持って来てもらえないか?』
まあ長年お世話になったことだしと思い、自分の荷物を入れる代わりに、種栗を20kg、スーツケースを栗だけでいっぱいにして運んで来るのが、
今回の旅の目的の一つだった。
ステファンは昔から自然が大好きな人だった。
彼が30代の時はずっと大陸横断バスを一緒にやっていたのだけれど、40代に入って結婚もしたことだし、自然の多い場所に終の住処が欲しいと思うようになっていたのだろう。
けれど、まさかルーマニアに土地を買うと言い出すとは、こっちも思ってもみなかった。
彼はオーストリア人。オーストリアの隣はハンガリー、その隣がルーマニア。ということは、ステファンはもともと二つ隣の国の住人だったということになる。
彼の母国オーストリアは今じゃ土地は大変に高い。
彼の親世代はそれこそマイホームを買うことを夢見てそれを実現してきた世代だけれど、その息子娘世代は、よっぽどの大企業に務めているか役所勤めでもしてない限り、農園用ほどの土地を買うということはできない。
そこでどうも以前からルーマニアを永住する地として目をつけていたらしい。
もともと陸続きの国に生まれている彼らにしてみれば、二つ隣の国に暮らすということに対する抵抗は、あたし達ほどにはないらしい。
「だって陸はつながっているから。
今はそういう時代だから」とステファンはいつも言っていた。
ユーラシア大陸横断バスを運行していた間、ステファンは東ヨーロッパの変化を直に肌で感じて来た。
それこそ、あたしがこの地を訪ねた10年前は、本当にモノが何一つなく、生活も大変な苦労を強いられていた場所だった。
今でもよく覚えていることがいくつかある。
ハンガリーからルーマニアの国境を越えてくると、なんだかギスギスした空気がいつも辺りに感じられていた。
当時の国境には、ずらりと娼婦さん達が立ち並んでいた。
彼女達は行き交うトラックの荷台を出たり入ったりしていた。
この辺の国道にはTIRと記されたトラックがたくさん通っている。
TIRとは、Trans International Route の略。要するに、物資の国際輸送のトラックのこと。
たいてい、北欧から西ヨーロッパ、東ヨーロッパを通過して、トルコから時にはイラン、パキスタンあたりまで、それらのトラックは物資を輸送してまわっている。
1989年まで続いたチャウシェスク政権のもと、貧しい生活を強いられた人々は、一部の女性は娼婦の仕事でなんとか生活をしのいでいくようになり、それで国境でお客さんを待ち、そこを通過するトラックに乗せてもらえば、トルコで美味しい御飯にもありつけると、みな必死に生きていた時代だった。
だから、94年に私たちのユーラシア大陸横断バスが来た時には、まだまだ治安も悪く、雰囲気も暗く、食堂へ行っても食べ物がほとんどなく、大変だったことだけが記憶に残っている。
食堂でスープを頼むと、1cm角のポテトが二つ、汁の中にぽかんと浮いていただけだった。
大陸横断バスに乗っていた大学生の男の子は、首都ブカレストの駅周辺を歩いていた時、ジャンパーのポケットをナイフで切られて、中に入っていたお金を全て、盗られた。
酒場もなんだか荒
れていた。顔を真っ赤にしたおじさん達が酒瓶を持って暴れていたのを鮮明に覚えている。
けれど、状況は1年毎に良くなっていった。
95年に訪ねた時には、食堂やお店に並べられたパンや野菜の数が、ほんの少し、増えていた。
若者の中には、外国人のあたしに向かって、つたない英語でひたすら夢を語る人もいた。
96年に訪ねた時には、結婚式の時、地元の人に食事を御馳走までしてもらった。
仕事がなくて大変だという話はあちこちでよく聞いたけれど、食べ物は格段に豊富になっていた。
そして8年後の今。
ルーマニアは、当時の面影をほとんど残さないほどに、発展していた。
穴ぼこだらけだった道路はきれいに整備され、街にはマクドナルドや大型チェーンスーパーができていた。
街で暮らす人々の月の平均給料が約2万5000円という割には、イタリアや西ヨーロッパからの高級輸入品が並ぶスーパーも大賑わいだった。
郊外には新しい工場が続々とでき始め、西ヨーロッパからのビジネスマン達がユーロ通貨での商談をしていた。
ルーマニアは2007年にEUに加盟することが決まっている。
もともと、ルーマニアはラテン民族の国だから、国民性としては非常に明るい気質を持っているはずなのだけれど、政治が彼らの性格に陰を落としていた。
そんな昔の雰囲気が嘘のように、今は物価の方も年に20%という勢いで上昇を続けている。
政治次第で人々の生活は天と地くらいに違ってしまうということを、ルーマニアはあたしに見せてくれた。
西ヨーロッパからの投資も盛んになりつつあり、EU加盟まで二年。右肩上がりの経済成長が確実になった今、ステファンは今が最後のチャンスと思い切ったのに違いない。
オーストリア人のステファンが、日本人の奥さんと一緒に、ルーマニアに会社を設立した。
そして街から車で1時間のポエニーツァ村に、築100年になる家と土地と農園を、約70万円で買った。
日本の感覚で言えば、東北の過疎化の進んだ名もない村に、突然外国人夫婦が移り住んだようなもの。
ポエニーツァ村も大騒ぎだったに違いない。
けれど。1年が経過した今、ステファン夫婦はそれなりに村人ともうまくやっているようだった。
村に二台だけある馬車が、ポエニーツァ村の唯一の交通手段
↑Click
そんな童話のような世界に、
あたしはひょっこりやってきたというわけだった。
(次回に続く)