

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-10-24 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
私は10日間の沖縄滞在を終え、東京に戻ってきた。
たまたま乗ったタクシーを運転していたオジィから聞かされたいろいろな話。
石垣島にいた時には、軽く聞き流していた一言が、東京に帰ってから反芻するとなぜか重みを増していた。
帰り際、私が『また東京に帰ったら……』とちょっとこぼすと、オジィはこんなことを言っていた。
「なんでも仕事はやったらいいさぁ。小さな仕事でも大きな仕事でも、目の前にある時はなんでもやった方がいい」
「でもこれはいやだなあってことってあるでしょう?」
「それがさぁ、魚釣りでもなぜか全く同じなんさぁ。こういう魚が釣りたいと思ってこだわっていると、いっこうに釣れない。けどさぁ、とにかくとにかく、目の前に来た小さな魚を一生懸命釣って、自分でも我を忘れた時、ふっと大物が引っかかるもんさぁ」
「そう……。そういうもん、かなあ……」
「そうさぁ。ワシ、仕事も同じだと思うんさぁ。こういうことだけやりたいってこだわっていると、なかなかそれはやってこないもんさぁ。そういう時には、ナンデモ、やるんさ。そうすると、その中に突拍子もなく、ずっと待ちこがれていた大物が混じっているもんさぁ」
「そっか。じゃ、がんばろ」
空は抜けるように青かった。辺りに咲き乱れたハイビスカスの花がどことなく笑っているように見えた。
「なんだか……。沖縄に来て体の細胞の隅々まで、エネルギーが注入されたような気がするな。私はどうも東京にいると、先ばかり見すぎて焦って空回りしているような感触をぬぐえなくなる時があってね……」
「これはいつでも忘れちゃいけないさぁ。ヒトは“今”が一番大切なんよぉ、“今”が。だって“今”がなければ30年後もないよお……」
「はあ……そうそう、その感じ、時々忘れちゃうんだよね」
「“今”の中に小さなシアワセを見つけていくことが、ヒトが豊かになれる一番の近道だとワシは信じとるんさぁ。何にでも感動するココロを忘れちゃいかんねぇ……。ワシは、サトウキビの葉っぱが揺れている音を聴いているだけでも、シアワセを感じる時あるさぁ」
オジィは抜けた歯も構わない様子で、大きな口を開けて笑った。
私は波照間島に行った時のことを思い出していた。
バイクにまたがってアイスクリームを食べていたら、背後から自転車に乗ってきたオジサンがいきなり私に向かって大声で言った。
「ゴ・イチ・ロク・ハチ!」
何事かと思った。
「ゴ・イチ・ロク・ハチ! あっはっはっは」
わけのわからない言語を話すオジサンなのかと思った。
「ハチは末広がりのハチ!あんた、縁起がいいさぁ。ゴ・イチ・ロク・ハチ!」
私はワハハと大笑いをしっぱなしのオジサンを前に、目をパチクリさせたまま、佇んでいた。
「ゴ・イチ・ロク・ハチ! あんたのバイクの番号よぉ、八(ハチ)があって、よかったさぁ!」
(……だから何なんだろう、ところでこのオジサンは、だから何が言いたいんだろう……)
そんなことを考える私をさっさと置いて、オジサンはペダルをこいで颯爽と行ってしまったのだった。
結局このオジサンの言いたかったことは、「ゴ・イチ・ロク・ハチ!」。
私にとっては、本当にとるに足らない、というよりも、ほとんど意味のないことだった。
石垣島に戻ってから、この奇妙奇天烈な事件のことを、タクシー運転手のオジィに話した。
「いやあ、理解できませんでした。ゴ・イチ・ロク・ハチ!だからナニ!?(笑)。それにしても、波照間島、何もありませんでした。なにも、ナニも、なあ〜んにも」
オジィは目を細めて呟いた。
「だからいいんさぁ。何もないのがいいんさぁ。何もないから、すべてがあるんだよぉ。普段だったら気にも留めないバイクの番号だって、周囲に何もないから、意味を持つんさぁ。何もない場所に三日もいれば、そこにすべてがあることに気がつくさぁ。白い雲は、5秒で表情を変えるんよぉ。空気は午前中と午後で匂いが違うんよぉ。聞こえてくる虫の声は、時報になっているんよぉ」
そして付け加えた。
「そういう目で自然を見ていると、体のいろんなセンサーが働き始めるんさぁ。もしあんたが波の上に放り出されて、島がどこにあるか波が邪魔して見えなくなったら、どうする?」
「全くわからない」
「そういう時には、空を見るんよぉ。雲っていうのは、島の上に、島の形に発生するもんなんさ。だから島の形をした雲の方向に向かって泳いでいけば、助かる。そういう知恵は、普段から自然を見て、センサーを働かせておかなければ、わからんことかもなぁ」
「へぇ……」
「だから、あんたが何もないって言うところから、島の人はそういうことを感じ取っているもんなんさぁ。何もないところにはすべてがあるっちゅうのは、本当さぁ。あんたもなぁ、ナニモナイって感じる時は、自分のココロが痩せちゃっている時だから、自分を大切にしてあげた方がいいさぁ……」
オジィのシアワセは、石垣島の小さな世界で完結していた。
私が自分の携帯電話の番号を教えると、オジィはその携帯を両手でしっかり握りしめ、これ以上優しい顔はないというくらいに目を細めて、携帯電話を愛でた。
「携帯はワシの宝物さぁ。これさえあれば、お客さんと直接つながれるんだからさぁ……タカラモノ、よぉ」
沖縄から戻ってきて一週間後。
東京での日常生活に戻った私の携帯が鳴った。
「おぉ、ゲンキでやっとるかぁ??」
懐かしい声だった。オジィのスローテンポな物言いが、私を一瞬オキナワワールドへ引き戻した。
「石垣島と東京がこんな風に電波でつながるなんて、やっぱり携帯はワシの宝物さぁ……」
私はオジィの顔を思い出し、ぷっと吹き出した。きっとまた両手でしっかりと携帯を握って愛でているに違いない。
「あんたはぁ、夜寝る時、どんな音楽聴くんさぁ?」
「え?寝る時は、一日のエネルギー使い切って寝るから、音楽聴く間もなく、パタンキューかな」
「そうかぁ。ワシは『月光』を聴きながら寝とるんだよぉ。あれを聴くと、なんかココロがきゅーんとするんさ。静かな静かな海の底へ入っていくような、そんな気がするんさぁ。するとシアワセな気分になれるんさぁ……」
オジィの会話は、相変わらず、ココロがそのまま喋っているような会話だった。
こういう人がいる限り、私もまだまだ頑張れる。
オジィの小さなシアワセは、私のシアワセにつながっていた。