

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-09-26 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
私は現場をこよなく愛している。
例え、会社に勤めていたとして、高給と引き替えに管理職になることを命じられても、薄給でいいから現場を離れることだけはしたくありませんと私は言う。
ごく普通の庶民がたむろする市井というのは、発見の連続。いろんな種類の人に出会ううち、自然と世の中の動向をも察知できるのが、市井に身を置くことの醍醐味だろうと思う。
私が本業のほかに、週二日、近所の飲食店でアルバイトを始めたことは、前のエッセイでも書いた。
時給750円。厨房から出されるお料理を、ひたすらお客様のもとに運ぶのが仕事。
小さなジケンが、日々起こる。
ある日お店で、お客さんに「あなた、フリーター?」と訊かれた。
私はすかさず「ハイ、そうです」と答えた。
その瞬間、お客さんは鼻でフハッと笑った。
私はちょっとびっくりした。
「ふ〜ん、フリーター、なんだ……」
お客さんの顔に、『オンナ30才を越えてもフリーター、嗚呼……』と書かれていた。
なんかいけないことをしたかな?
心なしか、それがわかった瞬間から、お客さんの私に対する命令口調はきつくなった。
「アナタ、ちょっと○○を持ってきてって言ったでしょっ!」
「ハイ、すみません」
「ちゃんと聞こえてるの?」
「ハイ、すみません」
時代が変わったとはいえ、世間的に、フリーターという立場は弱いんだなと身をもって知った。
そして、一生懸命やっているフリーターの皆さんに、私はちょっぴり同情した。
と同時にフシギだなあと思った。
私はフリーライターと名乗って、同じような扱いを受けたことが記憶にない。
フリーライターだって、一仕事終われば失業したも同然だし、実情はフリーターと変わらないのだけれど、『ライ』が入るか入らないかで、ナニかが違う。
世間の基準ってやつは、よくわからない。
お店は開店当初、近所の皆さんにお店の存在を知ってもらうために、半額セールを開催した。
定価1500円のコースは750円。3000円のコースは1500円。
当然、お客さんはお店に入りきらないほどに殺到した。
とすれば、お給仕をするこちら側は、全く手が回らない。
私は、これ以上の“一生懸命”はないというくらいに、全身から汗を噴き出させながら頑張りに頑張った。
けど、作業は追いつかない。
中に、大変おっかないお客さんがいた。
「アナタ、目が見えてんの?お客のテーブルの上に醤油がないってわかってんの?」
「今日は特別お客様が多く、不手際が出てしまい、大変申し訳ございません」
「私はね、今日わざわざお休みの日に美味しいもの食べようと思って来たのよ。それを台無しにされたわよ!」
「ハイ、すみません」
「お客をバカにしているわ」
「ハイ、すみません」
あの日だけで、100回以上は「申し訳ございません」「スミマセン」という言葉を口にした。
それでも、お客さんは、鬼のような目つきでこちらを見、他のお客さんと共に嘲笑いを始めた。
ひょおおおおお。ひえええええ。
そこで私はもう一度大きな声で、そして笑顔で「スミマセン!」と言った。そして、心の中で思った。
(オバハン、あなたも半額というところにつけ込んで食べに来ているのに、そこまで言える権利、あるんかいな?)
ちょっぴり、オバハンの余裕のなさすぎるジンセーを、私は憂いた。
私の立場は、とにかく時間内懸命に頑張るのみ。最大限にやった後は、なるようになれ!
そう思うからこそ、心にもない「スミマセン」を口にできた。
すると、隣のテーブルにいた品のいい女性が、私の着物の裾を引っ張って小声でこう言った。
「大変ですね……めげずに頑張って下さいね」
くしゃくしゃになっていた気持ちが、あっという間に天に昇った。うれしかった。
おっかないオバハンがいれば、その一方で懸命にやっているこちらの頑張りを見ていてくれる人もいる。
私はその女性と娘さんに、頼まれてもいないのに、温かいお茶を差し出した。
そんな接客仕事を始めたせいか、気付けば最近、人間観察をよくやるようになっていた。
先日は、ヤクルトのお姉さんが私の仕事場にやってきた。
新米らしいお姉さんと、仕事の指導をしているらしい年長のお姉さんとの二人連れ。
玄関の扉を開けた瞬間に、ニッコリ笑ったお姉さんが「ヤクルトいかがですか?」と言ってきた。
私も仕事上、お客さんを足でまわって営業をかけなければならない時もたまにある。
だから、なんとなく汗水垂らすヤクルトのお姉さんに自分を重ねてしまった。
「暑い中、大変ですね」
「いえ、シゴトですから……。1パック600円なんですけれど、いかがですか?」
600円を売るために、この労力。
私が原稿を売る時には、どんなに安くても万の単位になるから、歩いてまわる努力も報われる。
けれど、ヤクルトのお姉さんは600円。考えてしまった。
一日30軒行ったとして、そのうち10軒が買ったとして、6000円。
で、お姉さんは指導者付きだったから、一人当たりの売り上げは3000円。
それでもヤルところに、私の情は流された。思わず二パック買った。
そしたら、お姉さんは翌日から毎日、私の家に来るようになった。
さすがにそんなに要らない。
今度は私の方が、どうやって居留守を使おうかと考えるようになった。
と思えば、こんなこともあった。
カンカン照りの暑い日、駅へ向かう途中、スーツにネクタイをしめた20代後半の営業マン風の人が、手にした紙切れを凝視しながら、家の札を一軒一軒確認していた。
(また、何かの営業なのかなあ……)
バイクで少し走っては止まり、キョロキョロし、また少し走っては止まり……の繰り返し。
私の方はひたすら歩いているから、いつのまにか彼を追い越す。
すると、彼はまた後ろからバイクに乗って私を追い越し、私の前でバイクを降りて家を探す。
見知らぬ彼と私は、そんないたちごっこをしばらく続けていた。
何度かそれを繰り返した後、ひたひたと彼の前を歩いていると、突然背後から呼び止められた。
「あのう……」
(あ……きっと住所を聞かれるな)
どうしよう。急いでいるし、このまま気付かないふりをして、通り過ぎちゃおうかな。
すると、もう一度、呼び止められた。
「あのう……」
「なんでしょう?」
「あの……」
暑いのに背広をピシッと決めた男性だったから、ハキハキした営業トークが繰り出されるかと思って身構えた。
すると彼はこう言葉を続けた。
「あの……セ、背中に、ム、ム、虫がついているんですけど……」
「は?」
私の強気なハ?に彼の方が一瞬たじろいだ。
「あ、あ、あの……あなたの背中に、ムシがいるんですけど……いいんでしょうか?」
ずっこけた。ついでにムシを払ってもらった。そして仲良くなった。
「大変ですね、営業ですか?暑い中にご苦労様」
彼はニコニコしながら、またバイクで私を追い越して行ってしまった。
私の家は、八王子という立地にあるせいか、緑が多い。
だからなのか、先日美容院に行った時にも、奇妙なジケンが起きた。
髪の毛を切ってもらっている間、なんとも奇妙な匂いが足下から漂ってきたのである。
ク、クサイ……。
同じく匂いに気付いた美容師さんが、私を見た。
罪のない私は即座に、(いいえ、違います)と目で合図した。
なんだろう? 鏡に映った自分の足下を見た。
でっかいカメムシがじーっと私のジーンズにへばりついていた。
「あ……コレが原因です。カ、カメムシ……!」
その後の美容師さんの反応が面白かった。
クスクスと一笑いをした後、私にこう言った。
「あのう……取ってもいいですか?まさか……要りませんよね?」
「カメムシなんて私がペットにしているわけじゃあるまいし、要るわけがないじゃないですか」
美容師さんは、とても可愛い顔をしていた。
けれど、ティッシュを取ってくると、そのまま掴んで潰してあっさりとカメムシ君を殺した。
その瞬間に私はちょっと後悔した。
(ペットだから美容院に連れてきたって言えば、あのカメムシも死ななくて済んだのになあ……)
美容院には、今は亡きカメムシ君の匂いだけが残った。
美容師のお姉さんは、そのティッシュを何事もなかったかのようにゴミ箱に突っ込むと、また作業を再開した。
机の上だけで考えることは、時として大きく的をはずす。
飲食店での出来事にしても、ムシにまつわる事件にしても、やっぱり“現場”に出ていったからこそ見られたこと。
だからやっぱり。私は現場をこよなく愛しているのである。
そしてこれからも、現場を離れることなく、仕事をしていたいと願うのだ。