

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-08-29 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
夏らしくない今年の夏、近所の女子大生に誘われて八丈島へ行った。
彼女のおばあちゃんの家が八丈島にあるということから始まった島探訪、ここのところ仕事絡みの旅ばかりをやっていた私としては、久しぶりに心も体も開放された自由な旅だった。

これがおばあちゃん手作りの“島寿司”。
寿司といったら普通はワサビで食べるものと思いきや、八丈島ではカラシをたっぷりつけて頂くのだ。
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東京の竹芝桟橋から船で10時間。
予定していた日は、台風で船が欠航になった。
10時間といえば、ともすればヨーロッパまで行けてしまいそうな時間感覚。
でもそこはノロマな「船」だから、たった360kmあまりの距離をこれだけの時間をかけて行くのだった。
一日4便飛行機も飛んでいる。
時間短縮はいいけれど、それによって見失うものも多い。
だからあえてカメ並みに悠長な船を選んだというわけだった。
桟橋で名前を書き込む書類を見ると、ヘンな欄があった。
『海難等非常時の介助支援の要否 要・不要』
どちらかにマルをしなければならなかったのだけれど、一瞬ペンを持ったまま考え込んでしまった。
いったい、この欄の『不要』にマルをする人なんているのだろうか???
船が沈没しそうな時に『私は介助支援は不要です、あっさり死にたいので』なんて人がいるのかしら。
普段あまり縁のないことをしようとすると、奇妙なところに奇妙な発見がある。
私はイタズラ心を働かせ、わざわざ『不要』の欄にマルをして、受付に差し出した。
離島。周囲を海に囲まれた孤島。離れ小島……。
言葉の響きはなんともノスタルジックだけれど、島流しという言葉からもわかるように、八丈島も昔は体制から左遷された人々が収容されていた場所だった。
それでもヒトは生き延びてきた。
単純に、スゴイなあと思った。
私が訪ねたその日、船は御蔵島経由で八丈島へ行く予定だった。
けれど、台風の余波でまだ波が高かったせいもあって、明け方、こんな船内放送が流れてきた。
『御蔵島へは着岸できませんでした。そのまま八丈島へ向かいます』
これって感覚的に言えば、八王子にある私の家の前を素通りしたバスが全く別のところへ向かってしまうって感覚。
で、別のところへ連れて行かれても、陸路だったらまた別の交通手段を使って戻るなりなんなりすればいいのだけれど、周囲が海とあってはそれもできない。
せっかくの休暇を取って御蔵島の実家へ帰ろうと思っていた人々は、自分の家を目の前にしながら「あああああっっ、いっ、家が遠のいていく……。かあさ〜ん!!」と、それを指をくわえて見ていなければならないのだ。
船に乗り続けて10時間。やっとやっと島が見えてきたと思ったら、あっさり素通り。
東京の、いつも定刻通り、ルート通りという機械的な交通に慣らされていた私は、同じ東京の片隅にそんな場所があると知って、少々驚いた。
八丈行きを誘ってくれたMちゃんに尋ねた。
「自分の家を目と鼻の先にしながら、波の状況で辿り着けないってことはよくあるの?」
「うん、島の人達はそういう状況にも慣れっこだと思うよ」
「でもさ、でもさ、御蔵島へ帰省することが目的で来ている人達は、10時間も遠路はるばるやってきて、その目的を果たすことがないまま、また10時間船に乗り続けて竹芝桟橋に戻るわけ?」
「それはないかな。御蔵島に家がある人はたいてい八丈島にも知り合いがいるから、泊まらせてもらったりするし」
「じゃ、しばらく八丈島で待機して、波が収まったら定期船で御蔵島へ渡るってわけ?」
「うん、でも時間がない人とかは、不運にも何日たっても波が収まらない場合、結局御蔵島にたどり着けないまま東京竹芝桟橋に戻らなくちゃいけないって人もいるかもね」
「……」
「島の時間感覚はそんなもんよ。だって仕方ないじゃない」
「じゃ、御蔵島滞在が目的で来た観光客はどうすればいいわけ?」
「予定を変更して八丈島で楽しめばいいじゃない」
ここ半年ほどの東京生活で、私はすっかり頭が凝り固まっていた。
少なくとも、東京の中にいてどこかへ行こうと目的地を決めた時、それができないってことはほとんど皆無に近い。まして数日待ってもその目的地に辿り着けないなんてことはない。
そういう中にいるから、いつのまにか便利が当たり前になってゴーマンになっていた。
少なくとも目的地に行くということくらいは、フツーに自分の思い通りになるものと思っていた。
けれど。
ニンゲンというのは本来自然の中にいるわけだから、その自然の状況次第で自分の思い通りにならないこともある。それをすっかり忘れてしまっていたなあと、ヘンなところで気付かされたのだった。
自然が相手じゃ、どうしようもないこともある。
ジタバタしたって仕方ないから、いい意味で諦める。
これはまさに、仏教観の言うところの“足るを知る”だなあと、荒れる波を眺めながら思ったのだった。
出迎えの太鼓の音が響き渡る中、船は八丈島に着岸した。
ハイビスカスの花が咲き乱れる。
空は快晴。冷夏の東京の太陽と違って、光が肌に痛い。
Mちゃんのおばあちゃん宅は、桟橋からほど近いところにあった。
築150年あまり経つ家。
潮風にも強いようにと、屋根はトタン素材。
八丈島では、ほとんどの家が銀色のトタン屋根をキラキラさせているのだけれど、おばあちゃんの家もそうだった。
そして家の中は、今では絶対に手に入らないような一抱えもあるような梁が家の真ん中を貫いている。
神棚が二つとお仏壇が一つ。
「ここは目に見えないご先祖様が何人も一緒に暮らしているのよ」
品のあるおばあちゃんは、目を細めてそう言った。
おばあちゃんは、5人の息子さんをこの家で育てた。
全員が島を出て、東京界隈で仕事をしている。そしてそれぞれが新しい場所で家族を持った。
蝉時雨が聞こえる夏。
おばあちゃんの家には、この5人の息子さん一家が入れ替わり立ち替わり訪れる。
私と親しくしてくれているMちゃんは、おばあちゃんのご長男の娘さん。
この夏、おばあちゃんちは、息子さんと孫のMちゃん、そして私を含む彼女の友達3人と、息子さんの職場の同僚ファミリー4人が集まった。
下は4才。上はおばあちゃん72才。
「この家は、いろんな霊に守られているんだよ。お盆の時には特に、みんな帰ってきているから」
Mちゃんの言葉はまんざら冗談でもなさそうだった。
梁の重々しさには、代々この家で暮らしてきた人達の生活の匂いが染みついていた。
そして神棚二つに、忙しいおばあちゃんは手を合わせ、フルーツを盛る。
お仏壇の隣には、おばあちゃんの御両親の遺影が飾られ、亡くなられた旦那さんの写真も一緒に置かれている。
そしてその下でMちゃんのお父さんがうちわを片手にビールを飲み、Mちゃんが扇風機にあたりながら寝そべる。
さらにその近くで7才と4才の兄弟がはしゃぎ声をあげながらスイカを頬張る。
なんだか……
なんだか……
どうしてなのかわからないのだけれど……。
おばあちゃん宅の空気を肺一杯に吸い込んだ瞬間、スッと心が落ち着いた。
なんでだろう……。
これはきっと“縦につながる糸が見えた”からだ。
ビジネス上の縦社会とかそういうものではない、生身のニンゲンの、世代の縦の糸。
それはなぜか、普段訳のわからない焦燥感の中で仕事をしていた私が見つけた、おばあちゃんちでの宝物だった。
(次回に続く)