

ネパール留学中、大陸をまたぐ"国際路線バス"を企画立案。1994年『ユーラシア大陸横断バス』、1998年『アフリカ大陸縦断トラック』を実現。2002年には『南米大陸縦断バス』を実現予定。
2003-07-18 号
白川 由紀(紀行フォトエッセイスト)
(前回に続く)
先日、リゾートホテルの取材でタイのバンコクを訪れた。
お客さんが世界中から集まってくるというホテル。そこの日本人スタッフから、こんなことを聞いた。
「欧米のお客さんと比較すると、日本のお客さんは本当に細かいところを見ていますね。例えば、ホテルのパンフレット写真に、ウェルカムフルーツのパイナップルが載っていたとしますよね? でも私達は今の時期はパパイヤが美味しい季節だからと思って、それをお部屋に置いておく。すると、お客さんからお叱りを受けてしまうんですよ。『写真と違うじゃないか!』って。たまに、『テレビとベッドの配置がビミョーに違う!』っておっしゃるお客様もいらっしゃいますから、気が抜けません」
「ある日、私が休日で自室で休んでいた時、ホテルから緊急呼び出しが入ったんですね。で、行ってみると、ビュッフェの前で修学旅行でいらっしゃった先生が困惑していらっしゃる。尋ねると『一人当たり、それぞれの料理がどのくらい用意されているのかを教えてくれなければ困る。生徒にも指示できませんから』と。私は思わず『ビュッフェなんでテキトーに』と申し上げたんですが、『例えば肉は一人何枚取ってよいとか、具体的に数値で示してくれなければ困る』と。私慌てて厨房に駆け込んだのですが、頭を抱えてしまいました(笑)。だってまさか、一人当たり肉285g、米粒786粒、レタス5枚、トウモロコシ76粒……なんて計算するわけにいきませんものね(笑)」
それこそ“お客様は神様”のサービス稼業。彼女は結局『一人当たり、お腹が一杯になるまで、です。足りなかったらまた作り直しますから』という答えで乗り切ったのだとか。
私も似たような経験がある。
今、旅行会社と一緒に南米縦断旅行の企画を一緒に作っているのだけれど、その中でスタッフから朝食についての質問が出た。
「南米の朝食の玉子はどういう形で出てきますか?」
私は一瞬答えに詰まった。
「そりゃ、目玉焼きの時もあるし、オムレツの時もあるし、ゆで卵の時もある。けど、それをそこまで細かくパンフに記載してしまったら、それこそ現地でそうでなかった時が怖いです。だって、向こうはそれこそテキトーにそれをやってますから。いずれにしても玉子は玉子!だし……」
すると彼はこう言った。
「それは十分わかるんですが、日本のお客さんを相手にしていると、そのくらいまで細かくやらないと仕事にならないんですよねえ……。先日そういう内容の問い合わせの電話が入ったもので……」
私はそれこそ、目が点になった。
“お客様は神様”の仕事は大変だなあ。と思ったと同時に、この細かさが、私が世界一と信じる日本の職人芸を育ててきたんだろうなあと。
でも。
そこまでお客様に媚びる必要ってあるんだろうか? それは私がここ数年自分に問い続けてきた疑問。
ニッポンはなぜか、圧倒的なまでの買い手市場の中で走り続けている。
海外に出るまでは、世界中がそういうものなんだと思っていたのだけれど、ヨーロッパ社会を見る限り、ここまで仕事人達の中に“お客様は神様”という意識がないのを感じる。
彼らの世界では、売り手と買い手の力関係が50/50の拮抗関係にある。
だから、お昼休みにたまたまお客さんが店を訪ねれば、お客さんの方が追い返される。
客の立場で行くと、そのあまりの違いに腹も立ったりするのだけれど、労働側に立てば、いくら仕事とはいえ、自分の領分をしっかり守った主張ができているというわけで、精神衛生に支障をきたしながら、奴隷のようにお客様に仕えるという必要はまるでない。
周りを見渡すと、現役まっさかり世代に入った私の友達たちが“お客様は神様”精神で仕事をするあまり疲れ切っているのを見るにつけ、どっちがいいのかなあと思ってしまうのだった。
前回のコラムで書いた銀行のお姉さんといい、前述のホテルのスタッフといい、旅行会社の彼といい、神経をすり減らしながら自我を捨てて、うやうやしい笑みを浮かべていなければならないのは、あまり健全ではないなあと私はつい思ってしまうのだ。
働き盛りのオトナが1円でも多く稼ごうとお客さんにしがみつく。→顔が疲れてくる。→楽しそうにしている社会人が減る。→若い人に働く希望を失わせる。
さらには、自分がお客さん側にまわった時に、日頃のストレスを発散させるべく、威張る。
これは本当によろしくない。自分達で自分達をストレスの悪循環に陥れているのではないのかなあと、ある時から私は思い始めた。
そこで。
私はある時から、“お客様は神様だ”という発想を一切捨てた。
自分が銀行のお姉さんの作り笑いに薄気味悪さを感じるようになった以上、例え1円でも100円でも捨てても、自分の仕事のスタンスを必要以上に崩す必要はないと割り切ったわけだった。
結局自分を犠牲にしてまでお客さんに媚びたとしても、たかが知れている。
それよりも、まず自分自身がハッピーな状態でいることの方が、お客さんをもハッピーにしてあげられると思った。
お客様はただの人。
だから自分の作ったものを買いたい人だけ買って下されば、私はその中で等身大にやっていきます。
要するに素の自分だけを欲してくれるところだけで、しっかりきちんと、虚飾なしで勝負してみることにしたのだ。
そしたら。
全くストレスがたまらなくなった。
もっとも、作り笑いを浮かべていた方がもっと稼げるのかもしれない。
でも。お金よりももっと大切な、自分の中の小さなシアワセ感の方を大切にしてあげることにしたわけ。
別の言葉で言えば、シンプルに良質のものを身の丈できっちり作っていった方が、今の時代に合っている気がした。
そうココロの中で決めてから今で約二年。
それでも私の仕事はちゃんと成り立っている。
なくした仕事もあるけれど、その分、一生ニンゲンとして大切にしたいなあと思えるお客さんができた。
お客さんはただの人と発想することで、歪んでいた背骨が全部すっきりとまっすぐになるような気さえする。
だから。仕事でストレスを溜め込んでいる人がいたら、ぜひこう言ってあげたいのだ。
『お客様は神様でなく、ただの人。そういうスタンスでも仕事は十分にやっていけます』と。
先日もスーパーでこんなことがあった。
全く立派すぎるほどのパックにサクランボが詰められていた。
それを見ながら、パックに詰めるという作業に追われて残業をしているかもしれない従業員の人々の苦労を思った。
スーパーは神様であるお客さんに必死に合わせて、パックサービスをしているのかもしれなかった。
でも。
不思議とそれを買う気にならなかった。
なぜって、ただ単純に、きっちりとパックされすぎのサクランボの封を開けるが面倒くさいなあと思ってしまったからだった。
それよりも、隣の八百屋さんに行って、紙袋にごそっと入れてくれるサクランボを家に帰ってすぐ頬張れた方がいいなあと思えてしまったのだ。私は八百屋さんでサクランボを買った。
なかなか開かないパックにイライラすることもなく、分別ゴミも増えることがなく、作業は簡便だった。
シンプルが一番だなあ、と思った。
そして、それを周りの友達に話したら、そう思っている人が私だけではないことがわかった。
ということは。スーパーも“お客様は神様”精神でいろいろ包装にこだわるより、“お客様はただの人”と思って素直にシンプルに率直に、ただモノを売った方がよりお客さんのためなのかもしれなかった。
私の十年来のオーストリア人の親友が、ニッポンを称してこう言ったことがある。
work faster(猛スピードで働いて)
use faster(猛スピードで消費して)
throw faster(猛スピードで捨てる)
「これって意味ある?」その時彼は悪戯っぽく私に向かって笑った。

「買いたいヤツだけ買っていってくれればいいよ」。
オーストリアの路地裏にある一杯飲み屋にて
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“お客様は神様”と思って自分を歪めて頭を下げ、すぐに捨てられるもののためにガムシャラに労働するくらいだったら、年収が多少減ってもその分時間を楽しむんだという精神的余裕を作った方が、今の時代に合っている。
だって、それでも生きていけるくらいの国にニッポンはなったんだもの。
みんな充分すぎるほどのモノを、もう既に持ってしまったんだもの。
売れないモノを目を三角にして売ろうとするより、本当に必要とされるものだけを売って、あとは余った時間をどう楽しむかを考えた方がよっぽど潔いのではないか、と私は思う。
“お客様は神様です”という精神は、確かに高度成長のニッポンを支えてきた。
けれど。そこに溢れる必死の笑顔がうさん臭ささえ見え隠れするようになった昨今となっては、“お客様はただの人”というスタンスで仕事をしている人の方がよっぽど正直で気持ちがいいと、私は思う。
さて。『お客様は神様だ』の松下幸之助先生、私の意見をどう思われます?